1789話
早速豚骨ラーメンの試作を始めたゲオルギマだったが、そうなってしまえば既にレイに出来るようなことはない。
レイが出来るのは、あくまでも経験のない知識を伝えるだけなのだから、知識さえ伝えてしまえば後は本職の料理人に任せてしまえばいい。
元々料理が趣味という訳でもないレイにとって、その知識を活かして自分で料理をするという選択肢は一切なかった。
出来ることは本職に任せてしまえばいい。
そう判断し、取りあえず約束していた未知の料理を教えるということは終わらせたので、現在はメイドに案内して貰いながらセトの為に用意して貰った厩舎に向かっていた。
「あら?」
廊下を歩いていると、向かいから歩いてきた一団とすれ違おうとした時、不意にその中の一人が小さく呟く。
声のした方に視線を向けたレイが見たのは、その一団の中心にいる女。
その格好から、恐らくは貴族だろう人物が、口に手を当ててレイを見ていた。
だが、すぐにその女の視線はレイを案内しているメイドに向けられる。
「ミランダ、その方はどなたかしら?」
「テレス様、こちらはレイ様。エレーナ様のお客様です」
「……なるほど。そうかと思ってたんだけど、貴方が……」
ミランダと呼ばれたメイドは、テレスと呼ばれた女に向かって深々と一礼しながらそうレイを紹介した。
当然テレスという女は、レイにとって見覚えのない相手だった。
昨日このケレベル公爵領に来たばかりである以上、見覚えのある人物だったりすれば、それはそれで問題があるのだろうが。
それでも貴族であると思しき以上、エレーナの……もしくはケレベル公爵のリベルテかその妻のアルカディアに用事のある人物、もしくは呼ばれた人物……と、そう予想するのは難しい話ではない。
そうである以上、レイも自分に視線を向けている貴族の女を無碍には出来ない。
「ギルム所属の冒険者、レイだ」
「……あら」
まさかこのような、ぶっきらぼうとも言える自己紹介をされるとは思っていなかったのか、テレスは少しだけ驚く。
だが、その驚きの裏にあるのは、興味深いといった……それこそ好意的な感情だ。
寧ろテレスの周囲にいる者達が、レイの不躾な態度に面白くなさそうな視線を向けていた。
テレスのおつきの者にしてみれば、明らかに貴族ではない……そして本人が冒険者だと公言したレイが、自分の主人に不遜な態度を取っているのが面白くないのだろう。
それでもレイに対して不満を口にしないのは、テレスがレイに向かって好意的な感情を抱いていると、そう察することが出来ているからだ。
仕えている相手が不愉快に思っているのならともかく、好意的な感情を抱いている相手を責めるような真似をした場合、後で注意される可能性がある。
テレスはそこまで厳しい人物ではないが、それでもわざわざ自分から評価を下げるような真似をしたいと思う者は少ないだろう。
「そう。やっぱり貴方がレイだったのね。噂には聞いていたけど、こうも早く会えるとは思っていなかったわ。私はテレス・ミュルズ。よろしくね」
「噂って……俺がアネシスに来たのは、昨日なんだけど」
「あら、女の噂の速さを侮っちゃ駄目よ。それに、あのエレーナ様が連れて来た男なんだから、恐らくちょっと耳の良い人なら全員がレイのことを知ってると思ってもいいわ」
そう言われれば、レイも納得するしかない。
噂は千里を走る……という訳ではないが、やはりどうしてもその手の噂というのはかなり素早く広まるのだから。
「あー……そうか。それで、テレスは何でここに?」
「エレーナ様が帰ってきたんだから、ご挨拶するのは当然でしょう? 私は結構早く来たと思うけど、後から何人もが来ると思うわよ?」
貴族派の象徴たるエレーナの名声を考えれば、それは当然のことだった。
本来ならレイもその辺りの事情については察していなければならない筈だったのだが、エレーナと一緒にいすぎたせいもあって、その辺りの感覚が麻痺していたのだろう。
テレスの言葉に、なるほどと頷く。
「それにしても、会えるかもしれないとは思っていたけど、本当にあの深紅に会えるだなんて。……ねぇ、良かったら貴方もエレーナ様のところにいかない? 色々と話を聞きたいんだけど」
テレスにしてみれば、出来ればここでレイとの繋がりを作っておきたいとでも思ったのだろう。
そう尋ねてくるのだが……レイは首を横に振る。
「悪いけど、これからちょっとセトに会いに行こうと思っていてな。ああ、でもそれが終わった後なら時間はあるけど……どうする?」
レイはエレーナと共にアネシスにやって来たが、だからといって特に何かやらなければならないこともない。
ゲオルギマにラーメンを教えるということはやるべきことだったが、それも既に終わらせている。
そうである以上、レイとセトは基本的に暇だったのだ。
……もっとも、それを知ればレイに接触してくる者は多いだろうが。
エレーナが連れて来た男ということで、テレスの話ではないが、レイは色々な者達から注目を受けている。
好奇心や嫉妬……善意や悪意といったように様々な感情を抱いているので、そのような場合はどのような人物と会うのかはレイ次第なのだが。
「あら、そう。残念ね。でも……そうね。レイとエレーナ様の話も聞いてみたいし、用事が終わったら来てくれる? 本当なら、レイの従魔のグリフォン……セトだったわよね? そのグリフォンとも会ってみたかったんだけど」
珍しい、もしくは度胸があるな。
それがテレスを前にして、レイが抱いた感想だった。
セトの性格を知った後であればまだしも、何も知らない状況でセトに会ってみたいと言うのだから。
(あ、でも俺がアネシスに来たことを素早く知ることが出来たとなると、セトの性格とかを知っててもおかしくはないのか? 色々と広まってきているみたいだし)
ランクS相当モンスターのグリフォンが人懐っこく、辺境にあるギルムにてマスコットキャラ的な存在となっている。
そんな情報があれば、当然のように広がっていてもおかしくはないだろう。
それだけ大きな衝撃のある噂話なのだ。
何より、レイとセトはギルム以外にも様々な場所に行っている。
そうなることにより、セトが人懐っこい性格をしているという情報が色々な場所から広まったとしても、おかしくはない。
何より、セトの愛らしさを知った者にしてみれば、それを人に話したくなるというのは当然だった。
レイもセトの噂話をしないようにと止めている訳ではない。
「あー……そうだな。セトを、グリフォンを見て怖がらないようなら、後で案内してもいいけど」
少なくても、目の前にいるテレスという人物は自分に対して友好的な相手なのは間違いない。
そうである以上、レイとしてもそのような人物を無碍にするつもりはなかった。
もっとも、もしかしたら友好的なのは表向きのことだけで、実際には何か企んでいるという可能性も否定は出来なかったのだが。
だが、何もされてないような状況から疑うのも意味はないと判断し、セトと会うのは問題ないと告げたのだ。
「ふふっ、ありがと。じゃあ、私はエレーナ様に挨拶をしてくるわね。さっきも言ったように、レイも時間があったら来てね」
そう言い、テレスは去っていく。
テレスのおつきのメイド達はレイに対してどこか責めるような視線を向けていたが……そのような視線を向けられた本人は、特に気にした様子もなく自分の案内をしてくれているメイドに声を掛ける。
「じゃあ、また案内を頼む」
そんなレイの言葉にメイドは頷き、再びレイは廊下を歩き始める。
途中で何人かのメイドや執事と思しき者達、それとケレベル公爵に仕えているだろう者達ともすれ違うが、テレスのようにレイに話し掛けてくるような者はいない。
とはいえ、中にはレイに対して敵意の籠もった視線を向けてくる者がいるので、この屋敷にいる全員がレイという存在を歓迎している訳ではないのは明らかだった。
そうして屋敷を出ると……
「雪、か」
しんしんといった様子で降っている雪を見ながら、レイが呟く。
別に雪自体はそこまで珍しくはない。
それこそギルムにいる時であっても、今年は既に何度も降っていたのだから。
それでも、レイは何となく降ってくる雪に目を奪われていた。
「レイ様?」
「ん? ああ、悪い。今いく」
足を止めたレイを不思議に思ったメイドが尋ねてきた声で我に返り、レイは短く答えて再び足を進める。
そうして歩いて行った先に、やがてかなり巨大な厩舎の姿が見えてきた。
それこそ、セトがある程度の速度で走り回っても問題ないような……そんな厩舎。
(この厩舎の中にいた馬とかを、全て別の場所に移したのか。……後で感謝しないといけないな)
馬を移すことそのものは、そこまで大きな手間ではないのだろう。
だが、それでもわざわざセトの為にそこまでやってくれたと思えば、感謝しないという選択肢は存在しないだろう。
「俺は中に入るけど、どうする?」
メイドはレイの言葉に、少し考えてから口を開く。
「その、よければ私も見てもよろしいでしょうか? セトはかなり愛らしいという噂を聞いてますので」
そんなメイドの言葉に、一瞬誰から聞いたんだ? と疑問に思ったレイだったが、恐らくエレーナかアーラのどちらかだろうと判断する。
「別に構わないぞ。セトも、自分を可愛がってくれる相手は幾らいてもいいだろうし」
「ありがとうございます。私、可愛いものが大好きなので。イエロちゃんとか、最近は見られなくて残念でした」
少しだけ残念そうに言うメイドが、厩舎の扉を開ける。
もっとも、扉は別に鍵が掛かっていたりはしないので、開ける気になれば誰でも開けることが出来る。
それこそ、中からセトやイエロが開けることすら、容易だった。
……セトやイエロのことを知らない者であれば、それこそ厩舎の役目を果たしていないと怒ってもおかしくない光景ではあったが、レイとメイドは特に気にした様子もなく厩舎の中に入っていく。
「グルルルルルゥ!」
「キュ! キュウキュウ!」
厩舎の中にいたセトとイエロの二匹は、当然ながら近づいてきていたレイとメイドに気が付いていたのだろう。
厩舎の中に入ってきたのを見た瞬間、一気に走り出す。
「っ!?」
体長三mを超えるセトが走ってくるのだから、当然のようにメイドは恐怖で一瞬息を呑む。
だが、そのメイドを庇うようにレイは一歩前に出ると、真っ直ぐ自分に向かって突っ込んできたセトを見事に受け止めた。
「っと、全く……昨日はイエロと一緒に遊んでたんだろ? なら、そこまで寂しくなかったんじゃないか?」
「グルルウゥ、グル、グルルル」
レイの言葉に反論するように鳴き声を上げるセト。
そんなセトを、レイは抱きしめながら頭を撫でてやる。
レイがセトを撫でているそんな光景に、メイドは最初どう反応すべきか迷っていたが、やがてセトは別に自分を襲うつもりがなかったというのを理解したのだろう。自分の方に向かって飛んできたイエロを受け止め、撫でる。
メイドがレイに言ったように、イエロを可愛がっていて、イエロもそれを覚えていたのだろう。
「ふふっ、イエロも元気だったみたいね」
「キュウ!」
メイドの言葉に、イエロは嬉しそうに鳴き声を上げる。
そんなイエロに、メイドは嬉しそうに笑みを浮かべて撫で続けていた。
二匹と二人がそうしていたのは、数分。
やがて、どちらともなく顔を見合わせる。
「セトちゃん……レイ様に凄く懐いているのですね」
「俺の相棒だからな。そっちも、イエロが随分と懐いていたみたいだな」
「イエロちゃんは、ケレベル公爵家では皆に愛されていますから」
そう言いながらイエロを撫でるメイドは、これ以上ない程に幸せそうな表情を浮かべていた。
そんなメイドを見ていたレイは、何故かミレイヌを思い出す。
(いやまぁ、可愛いもの好きならミレイヌ以外にも大勢いるしな。別にミレイヌを含めた連中だけが、強烈な可愛いもの好きって訳でもないだろうし。ミレイヌの違うバージョンがいても不思議はない、か)
そんな風に思いつつ、レイはセトに話し掛ける。
「一人にして悪かったな。ただ、イエロも一緒だったみたいだし、そこまで寂しくはなかっただろ?」
レイの言葉に、セトは若干不満そうに喉を鳴らす。
イエロがいたおかげで寂しくなかったというのは間違いないのだが、それでもやはりレイにいてほしかったというのが、セトの正直な気持ちなのだ。
レイもそんなセトの気持ちを察したのか、頭を撫でつつミスティリングから干し肉を取り出す。
ガメリオンの肉を使って作った干し肉は、保存食ではあるが、しっかりと味を楽しめる高級品……いや、嗜好品でもある。
「グルゥ!?」
そんな干し肉に、セトはあっという間に機嫌を直し……それどころか、イエロの嗅覚もその美味そうな臭いを嗅いだことでレイとセトの側までやってきて、若干だがメイドの機嫌を損ねることになるのだった。




