1781話
「うむ、似合うぞ。いつもの格好も良いのだが、やはりレイにはこのような格好も似合うな」
そう言いながら、レイの方を見て嬉しそうな笑みを浮かべているのはエレーナ。
現在レイがしている格好は、いつものようにドラゴンローブを着ている……のではなく、パーティーに相応しい服装となっていた。
本来なら、冒険者のレイとしてはドラゴンローブでパーティーに出てもおかしくはない。
冒険者としては、それが正装と言ってもいいのだから。
だが、今日これから行われるパーティー……正確には食事会と呼ぶべきだが、出来るのなら正装で参加して欲しいというのがエレーナの希望だった。
食事会に参加するのに正装ではないというのは、余計な面倒を招き寄せかねない。
いや、いつもであればそれでも全く構わないのだが、今日はレイの紹介を兼ねているのだ。
身内だけの集まりとはいえ……いや、だからこそ、レイという存在を見ても誰にも何も言われないようにしたかった。
そのことでレイに着替えをさせるのは、エレーナとしても気は進まない。
それでも、自分の愛する男が身内に何か言われるというのは、エレーナにとって面白いことではない。
……それ以外にも、エレーナがいつものようにドラゴンローブを着ているのではなく、正装をしたレイを見てみたいという思いがあったことも否定はしきれないが。
この屋敷で自分の立場が不安定なものがあると理解しているレイも、そんなエレーナの言葉に若干不満を抱きながらも、素直に着替えた。
もっともレイが感じた不満というのは、わざわざ正装をするのが嫌だったというのではなく、正装の為の服装が堅苦しい代物で動きにくいということに対しての不満だったが。
「これ、本当に着る必要があるのか?」
レイの知っているスーツとは若干似ているが、大枠で見れば違う場所もかなりある。
だが、首の辺りを綺麗な布で結んでいるその様子は、一風変わったネクタイのように見えないこともない。
それだけに、普段はドラゴンローブを着ていて首の辺りを締め付けられるといったことがないレイにとって、その布はあまり好ましくはなかった。
「一応正装の中でもあまり堅苦しくない服装を選んだのだが……駄目か?」
エレーナにそう言われれば、レイにも断るという選択肢はない。
最近エレーナと一緒にいることが多かったレイは完全に価値観が麻痺しているが、ケレベル公爵令嬢にして姫将軍の異名を持つエレーナに自分の着る服を選んで貰えるということは、普通なら断ることが出来ないというのもある。
もっともレイの場合はそういう建前ではなく、エレーナが熱心に勧めてくるからというのが断れない唯一にして最大の理由だったが。
「あー……そうだな。取りあえずこの苦しい服装も、短い時間なら何とか我慢出来そうだな。それに、今日の夕食ではゲオルギマが美味い料理を出してくれるんだろ? なら、それに参加しないという選択肢は存在しないしな」
「アーラから聞いている。ゲオルギマを挑発したそうだな?」
レイが正装に不満を抱かないということに安堵しながらも、エレーナは少しだけ笑みを込めた視線をレイに向ける。
悪戯小僧を咎めるような視線を向けられたレイだったが、その視線を向けられた本人は心外だと口を開く。
「別に俺は挑発なんて真似をしていないぞ? ただ、俺が心の底から美味いと思える料理を出せば、俺が知ってる料理を教えると言っただけで。その料理にしたって、俺は作り方とか全てを知ってる訳じゃないから、実際には大枠を俺が教えて、それ以外はゲオルギマが自分で作り上げていくといった形になるだろうし」
そう言いながらも、レイは多分ゲオルギマに料理を教えることになるんだろうなという予想はしていた。
エモシオンでレイが広めた海鮮お好み焼き――正確にはレイは一人に教えただけなので、広めたというのは違うかもしれないが――を改良して、一段上の味にまで持っていったのだ。
そんな料理人が、全く未知の料理を幾つも……それこそ数限りない程に知っていると思われるレイとの勝負で、手を抜くような真似をするとは思わなかった。
それこそ、ゲオルギマにとって最も得意で最も自信のある料理を出してくるのは、ほぼ間違いない。
(そうなると、何か考えておいた方がいいんだろうけど……うーん、ラーメンとかの作り方を覚えていれば、結構いい感じになると思うんだが)
自分の服装を眺めながら、レイは考える。
元は中華料理だったラーメンだが、日本では完全に日本流にアレンジされて、カレーに並ぶ国民食の一つとなっている。
レイの好みで言えば濃厚な味噌ラーメンが好きだったが、醤油ラーメン、塩ラーメン、豚骨ラーメン、担々麺……それ以外にも様々なラーメンがあるのは知っていたし、実際に食べたことも多い。
ラーメン屋は人気があるだけあって、レイが住んでいたような田舎にも幾つもの店がある。
また、カップラーメン、インスタントラーメン、生ラーメン等々、気軽に食べられるというのも、大きい。
そういう意味で、ラーメンを教えれば間違いなく流行る。流行るとは思うのだが……レイには、ラーメンを作る為の知識が足りなかった。
いや、勿論大雑把な知識ならレイも持っている。
例えば、ラーメンを構成するのはスープと麺、具の三つであるとか。
スープの作り方も、キリタンポ鍋を作る時のことを考えれば、やってやれないこともない。
具の方も、肉はそれこそ魔力によって日本にいた時よりも圧倒的に美味い肉が幾らでもある。
残念なことに、レイが好きなメンマは……タケノコそのものはあるが、どうやってタケノコをメンマにするのか分からないので、試行錯誤をする必要があるだろうが。
ちなみにメンマに限らずタケノコが好きなレイではあったが、レイの地元……正確には家の周りで採れるのはネマガリダケや姫竹と呼ばれる種類のタケノコで、一般的な孟宗竹の類ではない。
そのことに思いを馳せ……レイはふとTVでやっていた番組を思い出す。
その番組では、ネマガリダケはあく抜きが必要ないと言っていたのだが、実際に毎年のようにネマガリダケを収穫して食べているレイにしてみれば、『何を言ってるんだ?』というのが正直なところだった。
少なくても、レイの家がある地方に生えているネマガリダケはあく抜きが必要だった。
……と、そんなことを考えていたレイは思考が逸れていたことに気が付き、ラーメンに考えを戻す。
スープと具の方はある程度何とかなるが、最大の問題は麺だ。
レイが知っている限り、ラーメンの麺というのは小麦粉、水、塩……場合によっては卵を使うというものだったが、それ以外にもかん水というのが必要な筈だった。
そして、かん水というのはレイにとって名前しか知らないのだ。
……寧ろ、レイがかん水という存在を知っていたこと自体が驚きなのだが。
ともあれ、レイが知っている限りの知識ではラーメンの麺にはかん水が必要で、にも関わらずレイはかん水というのが何なのか分からない。
もしラーメンを教えるのであれば、その謎の液体も教える必要があった。
また、レイが知っているラーメンの要素も、あくまで素人考えのものでしかない以上、他にも色々足りないものがあるのは確実だ。
(まぁ、その辺はゲオルギマに自分で考えて貰えばいいか。……場合によっては、うどんとどう違うのと言われても、ちょっと困るけど)
うどんとラーメン。
レイであれば……いや、日本人であれば普通にその違いを理解はしているが、うどんしか知らない相手、もしくは両方を知らない相手に具体的にどこがどう違うのかと言われても、レイは答えられるとは思えない。
「レイ、どうした? 急に考えごとをして……何かその服に問題でもあったのか?」
「いや、何でもない。ゲオルギマにどんな料理を教えようかと思って、考えてただけだよ」
そう告げるレイの言葉に、エレーナは小さく笑みを浮かべて口を開く。
「何だ、最初から料理を教えることが前提なのか?」
「海鮮お好み焼きを食った後だとな。料理の腕に関しては、間違いなく一流……いや、それ以上のものだと認めざるをえないからな。それに料理を教えるって言ったのは、あの海鮮お好み焼きを作った感謝の気持ちも含まれているし」
「ふふっ、レイも美味い料理には勝てない、か」
「まあな。それに、俺の世界の料理をゲオルギマに作って貰いたいという思いもあるし。ラーメンという、うどんに近い麺料理を教えようと思ってるんだけど、かん水って水が必要なんだよな。ゲオルギマはその辺、理解出来ると思うか?」
「かん水、か。分からぬが……ゲオルギマの料理に掛ける情熱を考えれば、そのくらいは普通に出来ると思う。それにしても……レイが元いた世界の料理、か。楽しみだな」
エレーナはレイが事情を話した相手でもあるので、レイが別の世界からこの世界にやって来たことを知っている。
だからこそ、レイが元いた世界でどのような料理があるのか、気になっているのだろう。
実際、レイがギルムで広げたうどん、肉まん、ピザという料理は、そのどれもが絶品だった。
……もっとも、レイが教えたのはあくまでもこういう料理だという大枠だけで、その説明を聞いた料理人達が改良していき、そうして今の味になったのだが。
実際、うどんも出汁はレイが食べていたものと違うし、肉まんやピザも材料を含めて細かいところは色々と違う。
それでもきちんとした料理になっており、美味いと表現出来るのは料理人の工夫の結果だろう。
そういう意味では、ゲオルギマにラーメンを教えても十分に期待出来る筈だった。
(日本で国民食と言われるくらいの存在にまでなったラーメンなんだから、もしゲオルギマにラーメンの作り方を教えたら、今度アネシスに来た時はラーメン屋が大量発生してたりしないだろうな? いやまぁ、それはそれでラーメンを食う方としては嬉しいんだけど。替え玉とかの概念も教えておく必要があるか)
麺のお代わりとでも呼ぶべき替え玉は、ラーメンを知らない者にしてみればちょっと驚きの文化だろう。
ラーメンを知っているレイも、最初に替え玉という行為を知った時には驚いたのだから。
「ふふっ」
悩んでいるレイを見て、エレーナの口から笑みが漏れる。
それは本当に嬉しそうな笑みで、姫将軍ではなく、エレーナ・ケレベルという一人の女が愛しい男を前に浮かべる笑み。
「どうかしたのか?」
「いや、何でもない。それより……そろそろ時間だが、いいのか?」
「ああ、見ての通り俺はいいんだが、エレーナの方は準備はしなくても構わないのか?」
レイはスーツ姿に着替えさせられたが、そんなレイと話をしているエレーナは、特に着飾っている様子はない。
「ん? ああ、私もそろそろ着替えに戻ろうと思う」
「……間に合うのか?」
レイの印象として、どうしても男よりも女の方が身支度に時間は掛かるというものがあった。
特にパーティードレスのようなものであれば、余計にそうだろう。
マリーナのように普段からパーティードレスを着ているのなら、多少は慣れているので着替えも早く出来るだろうが……エレーナは普段はそのような服を着ない。
……いや、寧ろ普段からパーティードレスのような、露出が激しく動きにくい服を着ているマリーナが特別なのだが。
「ああ、問題ない。それに今日はあくまでも身内の集まりだ。そこまで大仰なパーティードレスを着なくても問題はないからな。メイドもいるし、すぐに着替えられる」
「なら、何で俺はわざわざこんなのを着せられたんだ?」
当然ながら、レイの着替えもメイドが手伝って行われている。
だが、身内だけの集まりだというのであれば、それこそわざわざ着替えなくても良かったのではないか。
そう告げるレイの言葉に、エレーナは真剣な表情で首を横に振る。
「いや、寧ろ身内同士だからしっかりとした方がいい。特に今日は母上もいるからな。ここで妙な姿を見せると、面倒なことになりかねない」
「母さん? そう言えば、エレーナから母さんの話は聞いたことがなかったな」
エレーナの父親は、ケレベル公爵としてミレアーナ王国では知らない者がいない程の大貴族だ。
それこそ、レイでもその程度は知っている。
……いや、中立派を率いるダスカーやケレベル公爵の一人娘のエレーナと関わっているのだから、それで知らない方が色々と問題なのだが。
そんなレイの視線を向けられ、エレーナは真剣な表情で口を開く。
「母上は……その、色々と特殊な性格をしている。恐らくレイも気に入られるのは間違いないだろうが……」
それ以上は言わず、エレーナは言葉を濁す。
そんなエレーナの様子が微妙に気になったレイだったが、エレーナは着替えるからとさっさと部屋に戻るのだった。