1505話
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レイ達は領主の館から戻ると、早速旅の準備を始める。
……もっとも、レイが持つミスティリングの中にはマジックテントを含めて様々な道具が入っているので、特にこれといって買うような物はなかったのだが。
それでもこうして大勢で買い物をするというのは、エレーナにとって滅多にない経験なのだろう。
嬉しそうにしながら、周囲の店を見て回っている。
そんなエレーナに、アーラは何か言いたげな様子を見せつつ、それでも何も言わない。
アーラにしてみれば、可能なら自分も一緒に行きたかったというのが、正直な気持ちなのだろう。
だが、残念ながら、ケレベル公爵からの命令でアーラはギルムに残る必要がある。
アーラもそれは理解しているのだが、やはり感情と理性は違うのだろう。
「アーラ、あまり気にするな。お前がいなくて寂しいのは、多分エレーナもだと思うぞ」
そう告げるレイは、何も誤魔化す為にそのようなことを言っている訳ではない。
実際、アーラは基本的にいつでもエレーナの側にいる。
以前レイと共に迷宮都市に行った時や、アーラが何か独自に命令されている時といった場合は違うが。
(そう考えれば、今回もそういうのと似たようなものなんだよな)
そう考えるレイに、アーラは頷きを返す。
「そうですね。分かってはいるんです。ですが、どうしても……」
言葉を濁し、アーラは視線を逸らす。
別にアーラはエレーナの実力不足といったものを心配している訳ではない。
エレーナの実力は、姫将軍の異名を持っていることからも明らかなのだから。
だが、それでも心配をしてしまうのは、それだけエレーナを大事に思っているからこそだろう。
「たまには信じて待つことも重要だと思うぞ。それに、エレーナがいない間はお前がギルムで貴族派の暴発を抑えるんだろ? なら、心配しているどころじゃないと思うけどな」
エレーナの代わりを任されたということは、もしアーラが何か失敗するようなことがあれば、それはエレーナの責任にもなってしまう。
そこに思い至ったのか、アーラは小さく息を呑む。
もっとも、アーラもエレーナ程ではないが貴族派では名前が知られている。
いや、エレーナの護衛騎士団の団長として、そして何よりエレーナを大事にしているという意味では、エレーナ以上に名前が知られていると言ってもいい。
エレーナの為であれば、それこそ誰であっても一歩も退かず、その膂力を使って不埒な相手に灸を据えるといったことも、今まで何度となく行ってきているのだから。
寧ろ、エレーナ以上に怒らせない方がいいような相手、と認識している者も多い。
エレーナの美しさに血迷い、力でどうにかしようと寝込みを襲おうとした者が以前いたのだが、その者の中にはアーラによって二度と男とは呼べなくなってしまった者すらいる。
そんな訳で、アーラが侮られるといった心配は基本的にいらないのだが……生憎と、レイはそれについては知らない。
だからこそアーラについて心配したのだが。
「そうですね。私が頑張らなければ、エレーナ様に恥を掻かせてしまうことになりますし」
「そうしてくれ。以前みたいに、妙なちょっかいを掛けられるのは、ギルムにとってもあまり面白くないからな」
そう言いながら、もっとも実際にはアーラの仕事はマリーナの家での待機となる可能性が高いというのは、レイにも理解出来ていた。
(いや、いっそマリーナの家を出た方がいいのかもしれないな。今まではエレーナがいたから、特に何かやることがなくても問題はなかったけど、俺達全員がいなくなってしまうと、本当に何もやることがなくなってしまうし)
退屈は人を殺す。
何もさせないというのは、拷問に使われることがある行為ですらある。
もっともアーラは自由に動き回れるので、本当に拷問と呼ぶ程の退屈ではないのだろうが。
「マリーナがいない間、住む場所はどうするんだ? いや、マリーナならそれでも自分の家にいてもいいとは言うだろうが、俺達が留守にするのがどのくらいの期間かは分からない。そうなると、あの家を管理している精霊魔法がいつまでもそのまま……って訳にもいかないだろ?」
「それは……」
レイの言葉が意外だったのか、アーラは何も言えなくなる。
一応マリーナの家でエレーナと共に簡単な料理を作ったりといったことはしていたのだが、それは結局簡単な料理でしかない。
つまり、本格的に家事が出来るかと言われれば、答えは否なのだ。
暫く留守にしているマリーナであれば、それこそギルムに帰ってきてから精霊魔法を使って家の掃除といったことをすればいいだろうが、そこで暮らすとなるとそうもいかない。
「アーラが掃除をするか、別の場所に引っ越すかしかないだろうな。……ん? でもそうなると、誰でも自由にマリーナの家に入れるようになるのか?」
「ああ、その心配はいらないわよ」
珍しそうに小物を見ているエレーナに、それがどのような物なのかを説明していたマリーナだったが、レイ達の話は聞こえていたのだろう。少し離れた場所から、首を横に振る。
「私の家に不審人物が入ってこないように、精霊魔法で処置していくから。……ただ、家に入ってくる相手を拒絶するのと、家の中を掃除したりするのでは、どうしても難易度が違うのよ」
「あー……なるほど」
レイも、マリーナの説明で何となくその理由は分かった。
家の中に誰も入ってこないようにするのは、それこそ精霊に誰も入れるなと言っておけばいい。
だが、家の中の掃除をするとなると、埃の溜まっている場所と溜まっていない場所では掃除をする手間が違う。
また、そこまで大きくなくても、貴族街にある家だけあってマリーナの家は一般的な感覚では大きな家と表現するのに相応しい。
だからこそ掃除をする場所は多くなり、来た相手を無条件に入れさせないようにするのとでは、難易度が違うのだろうと。
「精霊魔法も、万能じゃないんだな」
「当然でしょ」
レイの言葉にあっさりとそう返すマリーナだったが、それでもレイの目から見れば精霊魔法は非常に高い応用性を持つ。
事実、マリーナの持つ精霊魔法には今まで幾度となく驚かされているのだから。
もっとも、マリーナにとってもレイが使う強力無比な魔法には驚かされるのだから、どっちもどっちだ。
「とにかく、そういう訳だとやっぱりアーラが住む場所はどうにかしないといけないな。……無難な線だと、貴族派の貴族が持っている屋敷とか?」
「それは止めておいた方がいいだろうな。私がいないということで、アーラに妙なことを考える者がいないとも限らない」
エレーナも小物を見るのを止めて、そう告げてくる。
「私としては、出来れば他の勢力とは何の関係もない場所にいて欲しいとは思うのだが」
「……無難に考えれば、ダスカーの場所?」
領主の館であれば、妙な相手はこないだろう。
また、今回レイ達に依頼を出してきたのもダスカーなのだから、その結果として泊まる場所のなくなったアーラを領主の館に泊めるくらいであれば、何の問題もない。
事実、エレーナ達は最初領主の館に泊まる予定だったのだから。
「唯一の難点としては、商人や貴族といった人達がアーラに会う為に押し寄せてくる可能性があることかしら。もっとも、姫将軍のエレーナとは違ってアーラは対外的にはそこまで有名人でもないわ。エレーナの時のようなことにはならないと思うけど」
マリーナの言葉に、それを聞いていた者達……いつの間にか近くまでやって来ていたヴィヘラも頷く。
実際にはアーラはエレーナの幼馴染みにして親友といった立ち位置にいるのだが。
「もしくは、夕暮れの小麦亭に泊まる? レイの部屋ならともかく、私の部屋ならそこまで気兼ねする必要はないでしょう? 同じ女同士なんだし」
「え? いいんですか?」
「ええ、いいのよ。どうせ私達が国を出ている間、夕暮れの小麦亭の部屋は放っておかれるんだし」
依頼で長期留守にする間も、当然ながら宿の料金は支払う必要がある。
勿論長期留守にしている間に宿の料金を支払いたくないのであれば、チェックアウトすればいい。
だが、今のギルムで……それこそ宿が足りない状況でそのような真似をすれば、当然のようにレイ達が戻ってきた時、夕暮れの小麦亭に空き部屋がある筈もなかった。
もっとも、最悪の場合はそうなったら全員でマリーナの家に住むという選択肢もあるのだが、そうすると今度は食事の問題も出てくる。
レイ達の中で本格的に料理を出来るのはマリーナしかいない。
そのマリーナも、あくまでも普通に料理を作ることは出来るというだけで、夕暮れの小麦亭で出てくるような絶品の料理を作れる訳ではない。
そうなると、レイ達も毎食用意するのはそれなりに手間だ。
レイのミスティリングに入っている料理を使うという点もあるのだが、やはりそれも夕暮れの小麦亭の料理には及ばない。
だからといって、マリーナの家がある貴族街から夕暮れの小麦亭まではかなりの距離があり、毎回食堂に食べに行くという訳にもいかない。
ましてや、夕暮れの小麦亭の料理が美味く、値段もそこそこ――あくまでも夕暮れの小麦亭基準でだが――で、量も多い。
そのような食堂があると知れば、人が殺到するのは当然だろう。
現に、最近の夕暮れの小麦亭の食堂は、常に満席に近くなっているのだから。
「なるほど。ダスカーの館と夕暮れの小麦亭。どちらに住むかは、出来るだけ早いうちに……可能なら今日中に決めた方がいいわね。私達も可能な限り早く出発するつもりだし」
「……分かりました。その辺、よく考えてみます」
最終的にマリーナの言葉にアーラはそう告げ、領主の館か夕暮れの小麦亭か……それとも、他のどこかで暮らすことを模索する。
「アーラの一件は取りあえずこれでいいとして、買い物を続けましょうか。……あ、ほら見て。あそこで売っているサンドイッチ、美味しそうじゃない?」
マリーナの視線の先にある屋台では、様々なサンドイッチが売られている。
夏だけに、サンドイッチの類が悪くなるということも多い。
屋台の店主もそれが分かっているだけに、出来る限り早く売ろうとしているのだろう。
道を歩いている通行人に必死に声を掛けていた。
(冷蔵庫とか……そこまでいかなくても、スーパーとかコンビニとかのように簡単な冷房の出来るマジックアイテムとかがあれば、悪くなるのをある程度防げるんだろうけど……難しいだろうな)
火種のようなマジックアイテムは非常に安いが、その手のマジックアイテムとなると値段は当然のように上がる。
少なくても屋台の店主では買うのが非常に難しいのは間違いない。
そのサンドイッチが悪くなるのは、レイにとっても嬉しくはなく……
「グルゥ」
「キュ?」
以前その屋台から買ったサンドイッチを食べて、美味かったという記憶のあるセトに円らな瞳で見られ、そんなセトの頭に乗っているイエロは小首を傾げる。
そんな二匹に見られたレイは、当然のようにその屋台に向かう。
「お、レイじゃねえか。それにセトも……買ってくれるのか?」
レイとセト、イエロの一人と二匹だけでやってきたこともあり、店主は少し離れた場所にいるマリーナ達には気が付いた様子はない。
今はとにかく、なるべく早くサンドイッチを売ってしまいたいと、そう思っているのだろう。
「ああ。ちょっと遠出することになりそうだから、食料を色々と集めてるんだ。……って訳で、今あるサンドイッチを全部売ってくれ」
「毎度あり!」
レイの言葉に、屋台の店主は嬉しそうな声を上げる。
そうしてサンドイッチを次々にレイに渡してくる。
ちなみに渡されたサンドイッチが皿ごとだったのは、レイなら皿ごと買うというのが分かっているからだろう。
屋台の店主も、新しく皿を買う手間が掛かるが、その代わり皿が新しくなるという利点がある。
そうして渡されたサンドイッチ全て――レイとセトが今食べている分を抜かして――ミスティリングに収納し終わると、屋台の店主はレイに感謝の言葉を述べると、渡された代金を手に、屋台を引いてその場から去る。
またサンドイッチを作ってきて売るのか、それとも今日はもう早めの店じまいとするのか……レイはそのどちらになるのかは分からなかったが、それでも分かるのは屋台の店主にとって今日は運のいい日だったということだろう。
「さて、次に何を買う?」
そう言いながら、レイはハムと野菜のサンドイッチを食べながら……そして、干し魚のサンドイッチをビューネに渡しながら、仲間の面々に尋ねて買い物を続けるのだった。