1491話
その人物……そして男の仲間達を見た瞬間、ジェスタルは自分が既にどうしようもない場所に存在していることに気が付いてしまった。
もしここにいるのがレイだけであれば、もしかしたら……本当にもしかしたら、全員が一斉にそれぞれ別の方向に逃げればどうにか逃げ切れたかもしれない。
だが、レイが率いる紅蓮の翼と、更に他にも何人か助っ人がいるというのを理解した以上、ジェスタルには現状が非常に厳しいものであると、分かってしまう。
……この時、ジェスタルにとって幸運だったのは、助っ人が姫将軍の異名を持つエレーナとその部下だと気が付かなかったことだろう。
明かりが月明かり程度しかなく、更にレイという存在が強烈な衝撃をもたらしたこともあり、エレーナをエレーナと認識出来なかったのだろう。
アーラも含めて、誰か分からないがレイの助っ人という認識しか持てない。
「レベジェフッ! これは一体どういうことだ!」
だからこそ、ジェスタルは自分の取引相手に叫んだ。
何故レイのような存在がこの場にいるのかと。
本来であれば、このような場所にはいない筈の存在だ。
なのに、レイがこのような場所にいる理由は、自分達にない以上レベジェフ達以外は考えられない。
だが……そのレベジェフ達は、ジェスタルに視線を向けられても全く気にした様子もなくお互いに仲間内で視線を交わしていた。
「お前は少し黙っていろ。もうすぐ警備兵が来る筈だから、その時に色々と知ってることは喋って貰うぞ」
「ぐっ」
レイに視線を向けられてそう告げられたジェスタルは、何も言えなくなる。
ジェスタルも、このギルムの裏社会で生き抜き、組織のトップにまで上り詰めた男だ。
当然その度胸は並大抵のものではないが、それでもレイに視線を向けられて黙っていろと告げられると、それ以上口を動かすことは出来なくなる。
蛇に睨まれた蛙といったところか。
……エルジィンには蛇を主食とする蛙のモンスターもいるのだが、残念ながらジェスタルではそのような存在になるのは無理だった。
もっとも、レイの場合は蛇などという可愛らしい存在ではなく、どちらかと言えばドラゴンと呼ぶべき存在に近いのだろうが。
ともあれ、一睨みでジェスタルを黙らせたレイは、改めてアジャスに視線を向ける。
アジャスの近くには二人の男がいたが、この二人がダールから聞いていたアジャスの仲間の、レベジェフとハストンの二人だというのは、遠くから見た時に知っていた。
「久しぶり……って程でもないか。今日の日中に会ったばかりだしな。正確には数時間ぶりといったところか」
「……そうだな。出来れば会いたくなかったが」
アジャスのレイに対する態度は、トレントの森で会った時とは違っていた。
それは既に自分の正体……本性を隠す必要が既にないからなのだろう。
そんなアジャスと会話を交わしながら、レイは諜報部隊の者達がジェスタルの部下を次々に包囲し、捕らえていくのを目にする。
当然ジェスタルの部下もそれに抵抗しようとするのだが、セトが唸り声を周囲に響かせれば部下の者達も何も出来なくなる。
そもそも、紅蓮の翼の面々がいる時点で、抵抗しようという気持ちをへし折られている者も多い。
ここで下手に抵抗して痛めつけられ、更に取り調べの時に抵抗したということで重い罪に問われるよりは……と。そう考えて。
当然奴隷の首輪を付けられた女達が何十人も乗っている馬車も、諜報部隊に確保されている。
そんな様子を……自分達の目的の馬車が既に確保されているのを見れば、アジャス達もそれを取り返そうとは思わない。
今はとにかく、何とかこの場を脱して、ギルムから脱出する必要がある。
本来ならギルムからの脱出にはジェスタルの手を借りる予定だったのだが、こうなってしまえばもうそれも出来ない。
それどころか、ここでジェスタルに拘るような真似をすれば、自分達までも捕まってしまう。
「そうか? 俺は会いたかったけどな。それにしても、何も言わず急にトレントの森から消えたから驚いたぞ? 何らかの理由があって帰るのなら、何で俺達に何も言っていかなかったんだ?」
「いや、ちょっと急な用事だったから」
「へぇ、その用事が今の状況を生み出してるのか?」
レイと話している間にも、アジャスは何とかこの場から逃げだそうと周囲の様子を素早く何度も窺っていた。
だが、レイを含めてそのような真似を許す筈もなく、ただじっとその隙を窺っている。
それこそ、もしアジャス達が何か妙な行動をしたら、すぐにでも手が出せるように。
「いやいや、そんなことは関係ないさ。俺の用事はもう大体終わったから、出来ればこのまま帰りたいところなんだけどな」
「……そうか? ただ、出来ればもう少しここに残って、しっかりとした話を聞かせて欲しいところだけどな」
「異名持ちのレイに、わざわざそんな手間を掛けさせる訳にもいかないだろ?」
「いや、お前の話は色々と聞きたい奴がいるから、是が非でもここに残って貰いたいんだけどな」
「それは、どうしてもか?」
「ああ、どうしてもだ。お前には本当に色々と聞きたいことがあるし、俺以外にもお前に用事がある奴はいるしな。いや、寧ろそっちが本命だと言ってもいい」
そんなレイの言葉に、誰のことを言っているのかアジャスにもすぐに分かったのだろう。
嫌そうな……それこそ心の底から嫌そうな表情を浮かべるアジャス。
「なんで異名持ちの高ランク冒険者が、そんな相手に関わってるんだよ? 普通ならもっと高い報酬を貰ったりする依頼をこなすんじゃないのか? ギルムの増築工事とか」
「安心しろ、そっちもきちんとやってるから」
実際、レイはイルゼの復讐について協力しながらも、ギルムの増築工事についてもしっかりと働いている。
もっとも、その殆どはミスティリングを使った荷物の運搬が主である以上、そこまで時間の掛かるものでもないのだが。
「……そうなのか。随分と頑張ってるようだけど、どうせならもう少しゆっくりとした時間をすごした方がいいんじゃないか?」
「その辺りは、お前に言われなくてもしっかりとしてるから安心してくれ。……さて、いつまでもこうして話をしている訳にもいかないな」
諜報部隊の面々がジェスタルやその部下達の殆どを縛り終えたのを見て、レイがそう告げる。
「いやいや、もう少し話そうぜ。こんな場所で遭遇した偶然を考えれば、しっかりと話した方がいいと思わないか?」
「偶然、ね。残念だけどもう時間は……うん?」
時間はもうないから、そろそろ終わらせよう。
そう言おうと思ったレイだったが、不意に声が聞こえてくる。
いや、声という意味では周囲で多くの者が話している。
ジェスタルやその部下達は色々と口を開いてはいたのだが、それではない。
雄叫びのような、それこそこれから戦闘を行おうとしているような声。
「何だ?」
声の聞こえてきた方に向けた視線の先では、見覚えのある人物が長剣を手にレイ達のいる方に走ってきている者がいた。
それは、メラン。
何故か真っ直ぐに自分達の方に向かって走ってくる様子を見て、疑問を抱く。
「何でメランが?」
「え?」
そんなレイの言葉に、ヴィヘラは間の抜けた声を漏らす。
メランと最も付き合いが長いのは、一緒にギルムの見回りをしていたヴィヘラだったのだから、メランの名前に反応したのも当然だろう。
そしてメランが来たことでそちらに視線を向けたのは、レイとヴィヘラだけではない。周囲にいる諜報部隊の面々も同様だった。
自分の命が懸かっている以上、アジャス達がそんな決定的な隙を見逃す筈もない。
また、アジャス達はメランを知らないのも、動き出す切っ掛けとなった。
レイを始めとした紅蓮の翼の面々や、エレーナ、アーラといった面子であれば、アジャス達が自分達の方に逃げてきても対処は出来ただろう。
だが、アジャス達もレイとその仲間が手強いのは分かっているのだから、素直にそちらに向かう筈もない。
向かうのは、諜報部隊のいる方向だった。
その上、何か合図をした訳でもないのに三人が一斉に動き出したのだ。
ハストンは背負っていた食料の入ったリュックをその場に残し、身軽になっての行動。
おまけに、三人全員が声を出さずに動き出す。
その状況でどうやって意思疎通をしたのか、少しだけ気になったレイだったが、今はそれよりも早く動く必要があった。
「飛斬っ!」
持っているデスサイズを大きく振るう。
放たれた斬撃は、真っ直ぐに空を飛び……三人の中でも一番後ろを走っていた、ハストンの右膝を切断する。
リュックをその場に捨てて逃げ出したハストンだったが、それでもやはり無駄な動きをした分、他の二人より少し遅れてしまったのだろう。
それが結果として、一番後ろを走ることになり、レイの放った飛斬の餌食になってしまった最大の理由だった。
「うわっ!」
右膝を切断されたに関わらず、ハストンの口から出たのはどこか間の抜けた声。
飛斬の鋭さにより、右膝が切断されてもその痛みがまだ実感出来ていないのだろう。
また、この状況で強い緊張を抱いたのも痛みを鈍らせている原因の一つとなっていた。
「地形操作!」
続けて放ったのは、地形操作。
デスサイズの石突きを地面に突きながら発動したそのスキルにより、先頭を進んでいたアジャスの動きが鈍る。
当然だろう。自分の走っている方向に、いきなり一mの壁が姿を現したのだから。
……咄嗟の行動だったこともあり、廃墟が何軒かその壁の出現に合わせて崩れていたりもしたのだが、レイはそれを気にした様子はない。
一mの高さの壁は、それこそアジャスのような冒険者であれば飛び越えるのも難しくはない。
だが、それはあくまでもそこに壁があると知っていて、相応の準備を整えていれば、だ。
突然目の前――という程間近でもないが――に現れたその壁に、アジャスは一瞬走る速度を鈍らせる。
普段であれば、その程度は問題なかっただろうが、アジャスのすぐ後ろにはレベジェフが走っていた。
いきなり目の前を走っていたアジャスの速度が落ちたことにより、その背中にぶつかり……バランスを崩し、アジャスを巻き込んでその場を転がる。
「ぐわ!」
「なぁっ!」
アジャスも、前方にある土の壁にのみ意識が向いていたので、レベジェフが自分にぶつかってくるとは思いもよらなかったのだろう。
だが、当然のように二人がそのまま転んでいる訳にはいかない。
とにかく今はここを逃げ出す必要があるのだと、そう判断し……ふと、アジャスはおかしなことに気が付く。
ここにいるのは自分と、背中にぶつかってきたレベジェフの二人。
これはいい。
しかし……自分達のもう一人の仲間のハストンはどうした、と。
自分達と一緒に走っていたのであれば、転んだ自分達をとっくに追い抜いてもいいのではないかと、そう思い……アジャスは後ろを向く。
そんなアジャスの視界に入ってきたのは、何故か地面に転びながらも必死に長剣を振るって、自分に近づいてくる諜報部隊の者達を牽制しているハストンの姿。
何故立ち上がらないのかと一瞬疑問に思うが、ハストンの周囲に血が流れており……少し離れた場所に右膝から先が切断されて転がっているのを見れば、その理由は明白だった。
「ハストンッ!?」
そんなアジャスの声に、レベジェフも背後を見る。
そして、見たのは……アジャスと同じ光景。
アジャス、レベジェフ、ハストンの三人は、自分達が悪人だということを知っている。
それを知っているからこそ、この三人だけは絶対に裏切らない自分の仲間として大事に思っていた。
それだけに、その仲間の一人が自分達を逃がす為に命を懸けて戦っている光景を見れば、その動きが止まるのは当然だった。
「何をしている、逃げろぉっ!」
そんな二人の様子に気が付いたのか、長剣を振るいながらハストンが叫ぶ。
だが……それは、既に遅かった。
数秒あれば、レイが、エレーナが、ヴィヘラが、そしてセトがアジャス達に追いつくのは難しくなかったのだから。
すっと、レイの持つデスサイズの刃がアジャスの首の後ろに触れる。
今は真夏で、今日も熱帯夜と呼ぶに相応しい暑さだというのに、アジャスの首に触れている刃はまるで氷のように冷たかった。
その冷たさに、アジャスは何も言うことが出来ず言葉に詰まる。
身動きが出来ないというのは、アジャスだけではない。レベジェフもまた同様だった。
こちらは、顔面に黄昏の槍の穂先を突きつけられており、もし少しでも動けばその槍の穂先が容易に自分の頭部を貫く……いや、砕くということは明白だ。
両手に持つ武器で二人の動きを止めたまま、レイは冷笑と呼ぶに相応しい笑みを浮かべつつ口を開く。
「そんなに急ぐことはないだろう? ゆっくりとしていけ。……そう、ゆっくりとな」