1487話
夜も深くなってきて、宴会をやっていた者達は明日の仕事に差し障るからと、切り上げ始める頃。
もう少しで日付も変わるだろうという頃、レイ達の下に……正確には現在レイ達が待機している酒場に、一人の男が姿を現した。
外見から考えれば、酔っ払いがまだ飲み足りないと酒場に足を運んだようにも思えるだろう。
その人物は、これぞ千鳥足と呼ぶべき足運びでカウンターの前にやってくる。
ただし、歩く速度そのものは普通に歩くよりも速い。
一見すれば、千鳥足でバランスが取れないからこそ不安定に移動しているようにも見える。
そして男はカウンターに縋り付くようにして動きを止めると、目の前の男に向かって口を開く。
「アジャスが動いた」
その一言は、とてもではないが酔っ払っている男が発せる声ではない。
鋭く、そして冷静な言葉。
だが、それを聞いた酒場の店員も、カウンターを挟んで発せられた男の言葉に特に驚いた様子もなく頷く。
当然だろう。目の前で酔っ払った振りをしている男は、店員の同僚……諜報部隊の一員なのだから。
正確にはまだ見習いと言うべき立場ではあったが、その所属は諜報部隊で間違いはない。
店員はそんな男の前に水の入ったコップを置くと、そのまま奥に向かう。
そして一つの部屋に入ると、そこにいたダールに向かって小さく頷く。
その頷きを見たダールは、表情を引き締める。
レイの前で出していたような柔和な表情ではなく、諜報部隊らしい厳しい表情だ。
「レイさん達に知らせてくる。今のうちに、可能な限り情報を集めておいてくれ」
「分かった」
部屋の中にいた者達がそれぞれ動き出したのを見ながら、ダールは少し離れた部屋……レイ達が滞在している部屋に向かう。
「失礼します、ダールです。少しよろしいでしょうか?」
そう言い、部屋をノックしたダールは、すぐに部屋の中から入ってもいいという声が返ってきたのを聞き、扉を開ける。
部屋の中に入ったダールがまず最初に見たのは、テーブルの上に置いた手を枕として眠っているビューネの姿だった。
続いて話をしている、レイ、マリーナ、ヴィヘラ。
そして一人沈黙を守るイルゼ。
部屋に入り、ビューネ以外の視線を集めたダールは、口を開く。
「アジャスが動いた模様です」
そう言われた瞬間、イルゼが激しく反応した。
当然だろう。ようやく家族の仇を取ることが出来るのだから。
「動いたってことは、宿を出たのか?」
「はい。ただ、どこに向かうかといったことはまだ分かりません。ですが、状況から見ると恐らくは……」
「そうか。なら、詳しい情報を頼む。向こうが連れ去った女を連れてギルムを脱出しようとすれば、絶対に目立つ筈だしな」
「はい。現在情報を集めています。なので、レイさん達にはいつ出るようなことがあってもいいように、準備をお願いしたいと」
ダールの言葉に、レイ達はそれぞれ頷く。
ヴィヘラは、眠っていたビューネを起こし始めていた。
「では、私はすぐに情報を纏めますので、これで失礼します」
ダールはレイ達が準備を整え始めたのを見ると、すぐにその部屋から出ていく。
それを見送りながら、いよいよ今日のクライマックスだ……と、レイは気合いを入れ直すのだった。
「畜生、俺は別に間違ったことを言ってる訳じゃないのに……何で、あんなに責められなきゃいけないんだよ」
一軒の酒場。
客の数も少なくなってきたその酒場では、メランが酒を飲みながら不満を口にしていた。
テーブルにはメランだけで、その周囲には他の客はいない。
少し離れた場所にはまだ客がいるのだが、メランの座っているテーブルに近づく者はいない。
完全に隔離されているような、そんな状況だ。
実際、最初はメランの様子を見て話し掛けてくる者もいたのだが、そんな相手にメランは酔っ払って絡んだのだ。
口では正しいことを言っているのだが、冒険者としては正しいことが全てではない。
中には半ば犯罪に近いような真似をしている者も決して少なくはない。
それだけに、メランの正論を聞いてもそれに同意出来るような者は多くなかった。
そうしてメランを面倒に想った者達は次第にそのテーブルから離れていき、結果としてメランは今一人で飲んでいた。
幸い……というべきか、現在のギルムでは増築工事で仕事に困ることはない。
酒の代金が払えないということはないのだ。
だが、酒場にとってはメランの周囲に誰も客がいないというのは、あまりよろしくない状況だ。
もっとも、既に日付も変わりそうな時間で、そろそろ多くの客も帰り始める頃なのだから、もう今日は仕方がないと、半ば諦め顔だったが。
「うーい……そんなに俺が悪いのか……」
酔っ払いながらも、メランは立ち上がって会計を済ませる。
そうして酒場を出たメランは、宿に向かおうとするも足を止めた。
このまま宿に戻れば、イルゼと会ってしまうかもしれない。
酒場でイルゼに言われたことを思い出し、足が進まなくなってしまう。
自分は正しい。間違っているのはイルゼだ。
そう理解していても、正面からああも露骨に言葉が薄っぺらいと言われたことのないメランは、イルゼの口から出た言葉が深く心に刺さっていた。
地球では、日付が変わる時間であってもまだ宵の口でしかないが、エルジィンではこのくらいの時間になれば、もう寝ている者の方が圧倒的に多い。
勿論歓楽街や酒場ではまだ騒いでいる者もいるのだが、少なくてもメランが現在立っている通りでは月明かりと星明かりくらいしか明かりはない。
そんな中でも、客待ちをしている娼婦の姿が幾つかある。
基本的には娼婦は娼館で働くものなのだが、人付き合いが嫌だったり、何らかの理由があって娼館で働けない者はこうして街中の通りで客を探すこともある。
通路で足を止めているメランは、そんな娼婦達にとっては絶好の客に見えた。
まだ若く、顔立ちも整っている。
娼婦達も、誰かに抱かれるのであれば当然顔立ちの整った相手に抱かれたいと思うのは当然だろう。
メランに目を付けた、二十代の娼婦が声を掛ける。
「ねえ、貴方。もし良かったら私と遊ばない? 安くしておくわよ?」
この時、娼婦にとって不運だったのはメランという男の性格を知らなかった為だろう。
そして、普段は娼婦に対してまで正論を口にしないメランだったが、今日はイルゼの攻撃……いや、口撃により精神的に深いダメージを負っていた。
その鬱憤を晴らすかの如く、メランは身体を売り物にするとは何事かと、そう娼婦を責める。
当然娼婦の方も、そんなことを言われれば怒る。
そして売り言葉に買い言葉となり、娼婦は去っていく。
路地裏に消える娼婦を、メランは酔っ払った状態で半ば頭が働かないまま眺めていたが……路地裏を歩いていた娼婦が、不意に何者かによって口を塞がれ、強引に連れ去られるのを見た。
その行為を見た瞬間、メランは路地裏に向かって踏み出す。
「待て!」
衝撃的な光景を見たせいか、メランの頭から既に酔いは消えていた。
そう叫びながら路地裏に向かって駆け出すものの……頭から酔いは消えても、身体に残った酔いは消えない。
最初の数歩は勢い通りに走ることが出来たが、それ以上は足がもつれて転んでしまう。
走り出した時の勢いのまま、地面を転がるメラン。
そうして気が付けば、目の前には気絶させた女を肩に担いでいる男と、もう一人の男がメランを不思議そうな視線で見ていた。
「……なぁ、こいつどうする?」
「どうするっつったって、男だろ? 集めるのは女なんだから、こいつを連れてっても意味はねえだろ」
「あー……だよな。なら殺すか?」
あっさりと出た、殺すという言葉。
それが脅しでも何でもないのは、殺すといった男がメランを見る目を見れば明らかだった。
酔っている今の状況では、自分を殺そうとする相手に抗うことは難しい。
それを理解したメランは、それでも何とか立ち上がろうとし……だが、普段飲んでいる程度の酒の酔いであればともかく、今日はいつも以上に飲んでおり、その酔いはまともに歩くことすら出来なくなっている。
(こんなに飲んでなければ!)
男を見ながらそう悔やむも、とにかく今は何とか男に対応しなければ。
そう思いながら打開策を探すメランだったが……
「止めておけ、こんな奴を殺しても何の得にもなりはしねえ。それに、取引の時間までもうちょっとだ。出来ればもう何人か女を確保しておきたい」
「げ、まだ集めるのかよ。もうそろそろいいんじゃねえか? 上だってそこまで俺達に期待してねえだろ」
「そうかもな。だが、上からの命令には出来るだけ従った方がいい。それが俺達の利益にもなる」
「……ったく、分かったよ。ならせめて、こいつの武器くらいは貰っていくか。それくらいはいいだろ?」
「ああ。後は気絶させておけ。そうすればこの酒臭さだ。酔っ払って寝ているように見えるだろ」
「おうよ。……じゃあ、お前の武器は俺が有効利用させて貰うよ。じゃ、おやすみ」
「待っ!」
待て、と。
メランはそう言いたかったのだろう。
だが、その言葉を最後まで言うよりも前に、メランは鳩尾に衝撃を感じると、そのまま意識を失うのだった。
そうして意識を失ったメランを眺めていた男は、改めてもう一人の男に尋ねる。
「本当に殺さなくてもいいのか? 見たところ、こいつは色々と面倒臭そうな奴だぜ?」
そう呟くのは、メランと言い争いをしていた娼婦が連れ去られようとしているのに、自分が酔っ払った状態であると理解しつつもそれを助けに来たのを見ていた為だ。
正義感が強いというのは、時に予想以上の事態を引き起こす。
それを理解していたからこそ、ここで仕留めておいた方がいいのではないかと、そう尋ねる男だったが……もう片方の男は、首を横に振る。
「今日は出来るだけ騒動を引き起こしたくない。他の奴も動いているのに、こいつの死体が警備兵に見つかって騒動になればどうなるのか、それは分かるだろ?」
「あー……なるほど。それで気絶させて酔っ払って寝てるように見せるのか」
「ああ。殺されている男、酔っ払って寝ている男。どっちが警備兵にとって騒ぎになるのか、それは考えるまでもないだろ?」
「……まぁ、だろうな。けど……」
その話には納得出来た男だったが、それでも何かを言いたそうにしているのを見て、もう一人の男は首を傾げる。
「どうした?」
「いや、俺はお前の考えに賛成するけど……他の奴はどうだろうなって思って。特にジャースの奴なんか、血の気が多いだろ? 女を集めるために、警備兵と騒動を起こしかねないぞ」
その言葉に、ジャースと呼ばれた男の普段の様子が男の脳裏を過ぎる。
そうして納得した男は、即座に頷く。
「そうだな。とにかく余計な騒動が起こる前に出来るだけ早く女を集めよう。騒動が起きれば、警備兵の取り締まりは厳しくなるからな」
「……冒険者の見回りがないだけ、マシなんだろうけどな」
夜中のギルムの見回りは、昼間とは違って警備兵だけで行われている。
それは、夜中に出歩く者の人数は昼に比べると圧倒的に少ないというのもあるが、同時に酔っ払って気が大きくなった者に絡まれた場合、その対処に慣れている警備兵ならやり過ごすことも可能だが、冒険者であれば乱闘になる可能性も否定出来ないからだ。
勿論警備兵であれば絶対確実に騒動を起こしている酔っ払いをすぐに落ち着かせることが出来るという訳ではないのだが、どうしても慣れという点では警備兵に一日の長があった。
そんな訳で、後ろ暗いところのある男達は夜の方が活動しやすい。
もっとも、夜に出歩く者はそれ程多くないので、下手に動くと警備兵に見つかりやすいということでもあるのだが。
ともあれ、二人の男はそれ以上ここで話をしていても時間の無駄だと判断し、意識を失った女と、メランから奪った長剣を手に、その場を去っていく。
そうして男達が去ってから三十分程が経ち……やがて、メランは目を覚ます。
「俺は……ここは、街中? え? 何で……」
目覚めたのが宿のベッドではなく、何故か街中。
それも、路地裏と呼ぶべき場所に近い。
何故自分がこのような場所で眠っていたのかを疑問に思い、周囲を見回し……
「ぐっ!」
唐突に訪れた身体の痛みに、呻き声を上げる。
だが、皮肉にもその身体の痛みこそがメランにここで何が起きたのか、それを思い出させる。
酔っ払った自分と娼婦の女が言い争いをし、そして娼婦の女がこの路地裏に進み……やがて二人の男に襲われ、意識を失ったと。
それを見て自分も助けに駆けつけようと思ったが、酔っ払っている状況ではどうすることも出来ず、一方的に意識を絶たれた。
「くっ」
慌てて自分の武器を探すが、周囲には何もない。
奪われたのだと知ったメランは、連れ去られた娼婦の女と自らの武器を取り戻す為にまだ完全に酔いが覚めた状態ではないにも関わらず、足を踏み出すのだった。