1457話
その日、イルゼは朝からギルムの中を歩き回っていた。
幸いと言うべきか、イルゼは酒に強い。
多少男達と飲んでも、酔い潰されるといった経験はなく、寧ろ自分を酔い潰そうとした相手を逆に酔い潰すということがこれまでにも何度もあった。
もっとも、昨夜イルゼが一緒に飲んだ三人の男達は、イルゼを酔い潰して手を出そうとするような相手ではなかったので、その辺りの心配はいらなかったのだが。
(そう言えば、父さんはともかく母さんは酒には強かったわね)
イルゼの美貌は、母親譲りのものだ。
そんなイルゼの母親は、子供を二人産んだというのに美貌に衰えは全くなかった。
いや、寧ろ母性を感じさせるようになっただけ、女としては魅力的になってすらいただろう。
そんなイルゼの母親だけに、商売の関係で父親と離れている時には、酔い潰して手を出そうということを考えた者も多かった。
だが、結局そのような考えを抱いている者達は、その全てがイルゼの母親に酔い潰されるという結果を迎えることになる。
(母さんのおかげで、私も酒には強いんだけど……出来れば、こっちの方は母さんと同じになりたくはなかったわね)
レザーアーマーに包まれている、慎ましやかな……と表現する自分の胸に想いを馳せながら、イルゼはギルムの中を進む。
今は自分の肉体的なコンプレックスについて考えているようなところではないと、そう理解しているからだ。
まず必要なのは、左腕に蛇の刺青をしている仇についての詳細な情報。
そして、仇を倒すのに協力してくれる相手。
特に後者は、出来るだけ腕の立つ冒険者が望ましい。
幸いにも、現在のギルムには腕の立つ冒険者が数多く集まってきている。
であれば、何とか自分に協力してくれる相手を探すのも不可能ではないだろうという思いがあった。
そんな中で、最有力候補なのはやはり深紅のレイだろう。
数年という短い期間で、異名持ちのランクB冒険者となった、凄腕の冒険者。
昨日の三人にも、当然のようにその情報を聞いたし、今朝まだ酒が完全に抜けきっていないメランにもその辺りをそれとなく聞いてみたのだが……返ってきたのは、見れば分かるといった言葉だった。
寧ろ、見て分からない筈がないと言わんばかりのその様子に、イルゼは首を傾げる。
だが、そこで更に突っ込んで聞くような真似は出来ない。
もしそのような真似をすれば、自分がレイに対して興味を抱いているというのを察せられてしまうからだ。
勿論異名持ちとして非常に有名な冒険者なのだから、多少興味を持っているというのを悟られても問題はないだろう。
それでも絶対とは言えない以上、出来れば自分がそこまでレイに対して強い興味を持っているというのを知られたくはなかった。
そのような理由から、結局レイについて聞き出すことが出来たのは既に知っている情報というのが殆どだった。
もっとも、レイを探すのであればグリフォンのセトを探せばいいというのは、イルゼにとっては数少ない収穫だったが。
グリフォンのセトは、このギルムでは愛玩動物の如き扱いを受けている。
大空の死神とも呼ばれるランクAモンスターが、だ。
実際その光景の片鱗を見たイルゼにとっても、それはどうしても信じられるような話ではなかったが。
……これで、実はセトがランクS相当なのだということを知っていれば、イルゼは更に驚愕に身体を震わせることになっただろう。
郷に入っては郷に従え……そんな言葉は知らないイルゼだったが、それでもギルムに来た以上、ギルムの流儀には従わなければならないというのは理解している。
ともあれ、そんな風に考えながら歩いていると、ふと大勢が集まっている屋台を見て足を止める。
今が昼時である以上、食べ物を売っている屋台に人が大勢集まっているというのは、おかしな話ではない。
普段であれば、流行っている屋台なのだなという思いだけを抱くのだろうが……その屋台の側に、グリフォンの巨体があるのであれば話は別だった。
恐らく少し前までは、屋台の料理を食べていたのだろう。
現在は、隣にいる誰かに対して顔を擦りつけ、頭を撫でられて目を細めていた。
歩いているだけで汗が噴き出してくる、好天……と言うよりは、暴天とでも呼ぶべき暑さ。
実際、イルゼも歩いているだけで顔には汗が浮かぶのだ。
そんな中で、何故あの一人と一匹だけが……いや、その屋台の周辺にいる者達もどこか涼しげな様子をしているのかが少し気になったイルゼだったが、今はとにかく目的のレイと接触を……そう考えて一歩を踏み出し掛けるも、次の瞬間にはその足は止まる。
何故なら、セトを撫でている人物にはどこか見覚えがあったからだ。
この暑いのにローブを被っているという時点で該当する人物はそう多くないのだが、それでもイルゼはその相手が誰なのかがすぐに分かった。
それは、昨日ギルドに行った時、長年探し求めていた仇を見つけ、思わず短剣に手を伸ばした時に止めた相手。
(え? あの子がレイなの? 嘘でしょ?)
一瞬そう思うも、セトを撫でているのを見れば……そしてセトがレイに向かって身体を擦りつけ、甘えている様子を見れば、それが真実だというのは分かる。
昨日イルゼが見たセトも、食べ物を与えてくれた相手に嬉しそうにしていたが、それでもやはり今レイに対して甘えている時とは大きく違っていた。
レイには心の底から気を許し、甘えているように見えたのだが、他の者達の場合は撫でられはしていても、ここまで気を許しているようには思えなかったのだ。
そんな一人と一匹の様子は、イルゼだけではなく近くで食事をしていた他の者達の意識も集めており、周囲に和やかな雰囲気を生み出していた。
真夏だというのに、その雰囲気の中にいればどこか暑さを感じないような……そんな不思議な雰囲気。
レイはそんな周囲の雰囲気に気が付いた訳でもないだろうが、やがてセトと共に屋台から離れていく。
名残惜しそうにしていた周囲の者達も、それ以上は特に何を言うでもなく再び食事をするなり、食べ終わった皿を店主に返すなりして、それぞれが自分の仕事に戻っていく。
そんな中、イルゼはそっとレイとセトの後を追い始める。
特に何かレイに対する敵意や悪意があった訳ではなく、単純に話し掛ける切っ掛けが欲しかったのだ。
話し掛けられた瞬間に逃げ出したという昨日の一件があるだけに、どこか気まずいという思いがあるのも間違いなかった。
(あの子がレイだと知ってれば、昨日話し掛けられた時に……いえ、無理だったでしょうね。あの男を見つけた瞬間に、そんな余裕はなかったし。そう考えると、寧ろあの場所で私を止めてくれたことに感謝した方がいいのかもしれないけど)
ままならない、と。
小さく溜息を吐き……
「で、俺に何の用があって付け回してたんだ?」
ふと気が付けば、イルゼの目の前にはレイの姿があり、そう尋ねていた。
時は少し戻り、レイがセトと共に増築工事をやっている場所に向かって歩いている途中、レイは自分を付け回している相手がいるということには当然のように気が付いていた。
これは、レイが鋭いというのもあるが……何より、付け回している者の技量が酷く未熟だったというのが大きい。
(罠か?)
これ見よがしに自分を追跡しておきながら、そちらにレイの意識を集中させ、本命はレイに見つからないようにする。
そんな罠があると何かで読んだか見たか聞いたかしたことがあったレイだったから、当然最初に疑ったのは罠かもしれないということだった。
だが、それが罠であるという前提で周囲の様子を窺っても、本命と思しき存在は見つからない。
勿論、レイは……いや、より正確にはレイと共にいるセトは目立つ。
元々ギルムにいる住人や、最近ギルムに来た者達といったように、様々な者達がレイやセトに視線を向けてくる。
だが、背後から自分を追っている相手は、明らかにそのような者達とは違う視線をレイに向けていた。
どうするかと一瞬迷ったレイだったが、やがてこのままだと色々と面倒なことになりかねないと判断すると、歩きながらセトを撫でつつ口を開く。
「どうやら俺に何か用件があるようだから、ちょっと話を聞いてくるよ」
「グルゥ」
レイの言葉に、分かったと喉を鳴らすセト。
円らな瞳に心配そうな色があるのは、レイの実力を信用していないという訳ではなく、純粋にレイのことを案じているからだろう。
それが分かっているレイは、再度セトを撫でると、そのまま後ろの様子を窺う。
何故か溜息を吐いている姿を見た瞬間、一気にセトから離れて女との距離を詰めていく。
そうして女の前に到着すると、相手の不意を突くかのように話し掛ける。
「で、俺に何の用があって付け回してたんだ?」
「……え?」
レイの言葉に、思わずといった様子で顔を上げる女。
その女の顔を見たレイは、その顔にどこか見覚えがあることに気が付いた。
驚きで唖然としている女と、目の前にいる相手の顔を思い出そうとするレイ。
不思議な沈黙が数秒にわたって周囲に広がり……やがてレイは、目の前にいる女が昨日ギルドで会った女だと思い出す。
ギルドの中で、いきなり武器を抜きかけた相手だけに、レイもよく覚えていた。
いや、ギルドの中で武器を抜く者がいるというのは、残念ながらそれ程珍しいことでもない。
基本的に血の気の多い者が集まるのだから、お互いに喧嘩っ早くなるのは当然だろう。
ましてや、今は元々ギルムにいる冒険者以外にも、増築工事に関わる為に多くの冒険者達が集まっているのだから。
……元々はギルムに来るだけの力がなかった冒険者だったが、それでも……いや、だからこそと言うべきか、ギルムの冒険者に侮られないようにと、考えている者は決して少なくない。
そのような者達がギルドで他の冒険者と喧嘩になり、武器を抜くというのは、レイも何度か見ている。
だが、それでもレイが目の前の相手を覚えていたのは、とてもではないがギルムにやってくるだけの実力があるとは思えなかった相手だったからだ。
勿論、美人だからというのも多少は関係あるのだが。
もっとも、普段からエレーナ、マリーナ、ヴィヘラといった絶世のという形容詞がつく美女と接しているレイだ。
目の前の女……イルゼが美人ではあっても、そこまで心を動かされるようなことはない。
やがて二人の間に広がっていた沈黙を破り、イルゼが口を開く。
「その……一応確認するけど、貴方がレイさんでいいのかしら?」
既に目の前の男がレイだと分かっているにも関わらず、そう尋ねる。
それは、レイと会話をする為の準備という一面が強いのだろう。
そんなイルゼの思惑を理解しているのか、いないのか。
ともあれ、レイはイルゼの言葉に頷きを返す。
「ああ、俺がレイだ。知っててつけてきたんじゃないのか?」
「その……それはそうなんだけど。ちょっと予想していたのと違ったから」
誤魔化すように言われても、その件についてレイが怒るような真似はしない。
実際、深紅の異名を持つ冒険者ということで先入観を持った相手がレイを見て驚くというのは、今まで何度もあったことなのだから。
レイも一々そんな相手に怒るのは馬鹿らしく、侮って敵対行為を取るような相手でなければ受け流すようになっていた。
「よく言われるよ。それで? 俺が深紅なんて異名で呼ばれているように見えなかったから、後をつけてたのか?」
「いえ、違うわ。その……昨日の件で謝りたかったの」
まずは会話のきっかけとそう告げるイルゼだったが、レイはそんなイルゼに対して特に気にしていないといった様子で口を開く。
「その件はもう気にしなくていいよ、結局昨日は俺が止めたけど、俺が手を出さなくても誰かが止めてただろうし」
「でも……あ、そうだ。お礼にちょっとご馳走したいんだけど……どう?」
誘いながら、イルゼは内心で頭を抱えていた。
レイが、つい先程屋台で食事をしていたのを自分は見ていただろう、と。
食事を終えたばかりの相手に何かをご馳走するというのは、相手によっては嫌がらせと取られてもおかしくはない。
慌てて今の言葉を訂正しようとしたイルゼだったが、レイはそんなイルゼの言葉を特に気にした様子もなく頷く。
「そうか、じゃあちょうどいいし……あそこの店はどうだ?」
レイが視線を向けたのは、一軒の食堂。
昼時だけあって客の数も多いが、出てくる客は皆が満足そうだ。
それが、あの食堂の料理が美味いということを示している。
「え? ちょっ、本当にいいの!?」
昼食を終えたばかりの相手を食事に誘うといった真似をしたイルゼだったが、まさか断られるのではなく、こうもあっさりと頷かれるとは思わなかったのだろう。
若干、間の抜けた声がその口から出るのだった。