1434話
「グルルルルルルゥ」
後ろから聞こえてきたそんな声に、ミスティリングから取り出した布で顔を拭う。
流水の短剣で顔を洗う。
もし事情を知っている者がいれば、驚愕に目を見開くだろう。
流された魔力によって水を生み出す流水の短剣からレイの魔力を使って生み出す水は、ただの水であるにも関わらず天上の美味と呼んでもおかしくないだけの味なのだから。
だが、売れば貴族ですら幾らでも金を出して買うだろう水も、レイにとってはただの水でしかない。
「っと、セト。ほら、あまりじゃれつくなって」
降り注ぐ朝日の光を浴びながら、レイはお腹減ったと顔を擦りつけてくるセトの頭を撫でる。
ハズルイに向かう途中に見つけた林。
そこがレイが昨日野宿をすると決めた場所。
朝日によって木陰が生み出されている林というのは、山に慣れているレイにとっても目を奪われるのに相応しい光景だった。
「まぁ、日本で見た景色とは色々と違うけど」
レイが日本にいる時に住んでいた山とこの林は、似ているようで色々と違う。
生えている木々も日本では見たことがないものの方が多かった。
そんな朝の林の光景を目にしながら、レイはミスティリングから様々な料理を取り出す。
串焼き、シチュー、パン、炒め物、煮物……
朝食として考えるには少し豪華すぎる……いや、重すぎると言う者もいるだろう量の食事。
だが、レイとセトにとっては、この程度の料理は特に問題なく食べきることが出来る。
「グルルゥ」
セトが嬉しそうに喉を鳴らし、炒め物を食べる。
そんなセトを見ながら、レイはシチューを食べる。
しっかりと煮込まれ、野菜の味が出ているシチューは焼きたてのパンと一緒に食べると最高の味となる。
そんな風に豪華な食事を済ませ、軽く食休みをした後で、レイはセトに乗ってハズルイに向かって飛び立つのだった。
「うわああああああああああぁっ!」
昼前、ハズルイに到着したレイとセトだったが、そんな一人と一匹を出迎えたのは警備兵の悲鳴だった。
ゲイル子爵領ではこのようなことはなかった為、少し残念に思うレイだったが、それでもセトがグリフォンである以上、このような光景は仕方がないと判断してギルドカードを出す。
「安心してくれ、こいつは俺の従魔だ。それより街の中に入る手続きを頼む」
そう告げ、レイに渡されたギルドカードを目にした警備兵は、再び驚愕の声を上げそうになるのを何とか抑える。
(ランクB……それにグリフォンってことは、こいつ……深紅か!? 何で深紅なんて有名な冒険者が……)
警備兵は何とか驚きを押し殺し――レイからはとても押し殺しているようには見えなかった――て手続きを開始する。
そんな警備兵の様子を見ながら、どうやら反乱軍の件はまだここまで広まっていないようだとレイは理解した。
だが、それは当然だろう。レルダクトがレイによって攻撃され、反乱軍によって捕らえられた――こちらは予想だが――のは昨夜だ。
レイはセトに乗っているからこそ、短時間でここまで来ることが出来たのだが、実際にその辺りの情報がきちんと入るにはまだ暫く掛かるだろう。
セトの飛行速度を考えると、一週間以上先であってもおかしくはない。
ともあれ、手続きを終えるとレイはセトと共にハズルイの中に入る。
セトを街に入れないと言われなかったのは、レイにとっても幸いだった。
……もっとも、それを避けたのはレイを怒らせるとどうなるか分からないという恐怖心を警備兵が宿していたからというのも大きいだろう。
「さて、問題は……ジャズの弟のドストリテがどこに住んでいるのか、だよな」
ドストリテがハズルイに住んでいるというのは聞いているのだが、具体的にどこに住んでいるのかというのはレイにも当然分からない。
分からないことは人に聞けばいいだろうと判断し、セトを見て驚かないように少し離れた場所で待ってるように言ってから、近くの屋台に向かうも……売ってる料理は、そのどれもがとても食欲を刺激するようなものではない。
レルダクトの重税により、店で売られている商品の品質もかなり劣っているのだろう。
それでいながら、レルダクト本人は美味い料理を食べているのだ。
反乱軍が生まれても、仕方のないことだろうとレイにも思える。
「お客さん、どうしたんだい?」
「ああ。……そうだな、そっちの串焼きを何本かくれ。それと、ドストリテって奴の家がどこにあるのか教えてくれないか?」
そう言い、串焼きの料金よりも少し多めの銅貨を渡す。
銅貨の数を確認した店主は、躊躇うことなくドストリテの家をレイに教える。
そこには、この金を逃してたまるかという切羽詰まった表情があった。
ここにも、レルダクトの重税の影響が強く出ている。
(まぁ、もう少し時間が経てば反乱軍からの連絡が来るから、そこまで頑張って貰えばいいだろ。俺が教えても、下手に混乱させるだけだし)
自分が迂闊に口を出すと余計に周囲を混乱させるだけになるというのを知っているレイは、そのまま教えて貰ったドストリテの家に向かう。
途中で何件か食べ物を売っている店もあったが、最初の店で大体の事情を察したレイは、いつものように大量に買うといった真似をしなかった。
施しという意味では、もしかしたら買った方が良かったのかもしれない。
だが、もし一つの店でだけそのような真似をすれば、他の店がその店を羨むだろう。
そうしない為には、それこそ全ての店で買い物をする必要がある。
勿論レイの財力であれば、それくらいのことは容易に出来る。
ましてや、今はレルダクトから奪ってきたマジックアイテムもあるのだから。
だが、それで手に入れた物は完全に死蔵することになるだろう。
それはちょっと違うと、そう考えたレイは、結局最初の店以降で買い物をすることはなかった。
これが、もし餓死寸前の者が多くいるのであれば、レイも色々と行動を変えただろうが。
「っと、ここだな」
屋台で聞いた通りの場所に移動すると、そこでは食器を売っている店があった。
(食器店か。……この街の様子を見ると、それだけでやっていけるようには見えないんだけどな)
そのことを少し不思議に思いながら、レイはセトに少し離れた場所でゆっくりしているように言い聞かせると店の中に入る。
「いらっしゃい」
聞こえてきた声の方に視線を向けると、そこにはこれぞ職人といった様子の気むずかしそうな顔つきをしている体格のいい男の姿があった。
それが誰なのかというのは、考えるまでもなくレイには理解出来る。
何しろ、ジャズと同じような顔つきと……そして何より同じような体格をしていたのだから。
「お客さん、何をお探しで?」
店に入ってきたにも関わらず、店の中を見ないで自分を見ているレイを不審に思ったのだろう。
若干の警戒が籠もった視線と共に、そう尋ねてくる。
そんな向こうの言葉に、レイは口を開く。
「あんたがドストリテで間違いないか?」
「……そうだが、あんたは誰だ? 人に名前を尋ねるのなら、自分の顔くらい見せたらどうだ?」
ドストリテの言葉にレイは頷き、被っていたフードを脱ぐ。
そこから出てきたレイの顔を見て、ドストリテは驚きで数秒動きを止めた。
どのような顔が出てくるのかと色々考えはしたのだろうが、まさかそこでレイのような女顔と呼ぶのに相応しい顔が出てくるとは思ってもいなかったのだろう。
「悪いな、色々と面倒が起きるのが嫌だったんだ」
「あ、ああ。……だろうな」
レイがどのようなトラブルに巻き込まれるのかを大体理解出来たのだろう。ドストリテは少しだけ警戒を緩める。
「それで、あんたみたいな人が俺に何の用件だ?」
「ちょっと遅れたけど、手紙の配達だよ」
「手紙?」
「ああ。ジャズから」
「っ!?」
レイの口から出てきたまさかの名前に、ドストリテの顔は驚きに大きく歪む。
「ジャズだと?」
「ああ。このレルダクト伯爵領に来る途中で寄った村にジャズがいてな。それで手紙を預かってきた」
正確には色々とあったのだが、それを言えばドストリテを心配させるだけだろうと黙っておく。
そうしてレイはミスティリングから取り出した手紙をドストリテに渡す。
「ジャズからだ」
レイの言葉に、ドストリテは大切そうに手紙を受け取ると、そのまま読み始める。
(ジャズは冒険者だから読み書きが出来てもおかしくないけど、ドストリテも読み書きが出来るんだな。……いや、店をやってるんだから、読み書きは出来て当然か)
冒険者は最低限の読み書きが出来ないと、依頼書を読む時に困る。
そして商人は帳簿の類を付けるのに読み書きが必要となる。
そう考えれば、ジャズとドストリテが読み書き出来るというのはレイにも理解出来た。
「へぇ」
ドストリテが手紙を読んでいる間は暇なレイだったが、店の中を見回して少しだけ感心した声を上げる。
店の中に飾られていた売り物の食器は、どれもがかなりの出来だと分かったからだ。
レイには芸術的な意味での審美眼は殆どない。
飾られている食器も、簡単な模様は彫られているが、それでも華美と呼べる程でもない。
この店で売られている食器は、あくまでも実用品なのだ。
金属の食器や木で出来た食器、それらが幾つも並べられていた。
そうしてドストリテが手紙を読んでいる間に、レイは幾つかの食器を手に取っていく。
「何をやっている?」
ドストリテが手紙を読み終わった時、レイの手の中には何枚もの皿が重ねられていた。
深い皿、浅い皿、小さな皿、大きな皿、木の皿、金属の皿……といった皿が何枚も、何枚も。
それを見たドストリテが、思わずといった様子でそう尋ねたのも、無理のないことだろう。
「いや、俺は食事をするのが好きだ」
「……で?」
「その際に、皿が足りなくなったりすることがあったら困るだろ?」
実際にはミスティリングの中には色々な食堂から料理と一緒に買った皿の類はある。
だが、同じ料理であってもそれが盛られている器が違えば料理の味も変わってくる。
正確には料理の味そのものは変わらないが、食べている時の気分によって味が変わるというのが正しい。
そういう意味では、皿というのは多ければ多い程よかった。
ましてや、レイの場合は大勢に食事を提供する機会もそれなりに多い。
これから先のことを考えれば、やはり食器は多ければ多い程いいというのが、レイの正直な思いだった。
「まぁ、いい。きちんと金を出して買ってくれるんなら、こっちとしては歓迎するからな。……それで、あんたはレルダクト伯爵を相手に戦うって書いてるが……俺に何をさせたい?」
「何もしなくてもいい」
ドストリテの言葉に、レイはあっさりとそう告げる。
「え?」
そんなレイの言葉に、ドストリテの方は最初何を言われたのかが分からなかった。
手紙の中には、レイに手を貸して欲しいと、そう書かれていたのだ。
ジャズの娘……ドストリテにとっては姪のシラーをオークの手から助けてくれたと。
だからこそ、ドストリテも自分に出来ることがあるのなら何でもしようと思っていたのだが……
それに返ってきたのは、何もしなくてもいいという言葉だった。
「どういうことだ? 俺に何か手助けをして欲しくてここに来たんじゃないのか?」
「最初はそのつもりだったんだがな。この街に来る前にとある奴等と遭遇してな。そいつらと協力して、もうレルダクトに対する報復は済んだ」
「……済んだ? それはつまり、もうレルダクト伯爵に攻撃をしたということか?」
「ああ。……そうだな、お前には言っておくか。昨夜レルダクトは反乱軍に捕らえられた筈だ。その辺りの情報もそう遠くない内に流れてくると思うが」
「昨夜? 何故、それを知っている?」
「言っただろ。俺がレルダクトに攻撃を仕掛けたからだ。俺の攻撃でレルダクトの屋敷の防御が手薄になった隙を突いて、反乱軍が行動に出たからな」
「待て、待ってくれ。それだと計算が合わない。レルダクト伯爵の住んでいるジャーワは、ここからかなり遠い。それこそ、馬車で移動しても十日は掛かる距離だ。なのに、何故昨日のことをあんたが知ってるんだ?」
ジャズからの手紙を持ってきてくれた相手だけに、嘘は言っていない。
そう思いたいドストリテだったが、それでもレイの言っている内容には明確な矛盾を感じた。
だが、そんなドストリテに対し、レイは特に気にした様子もなく、口を開く。
「それは簡単だ。俺の移動速度が通常では考えられないくらいの速度だからな。……その秘密を見せてやるから、来いよ」
取りあえず食器を置き、ドストリテを店の表に連れていく。
……数十秒後、周囲にドストリテの驚愕の声が響き渡り、それを聞いた街の住民は普段物静かなドストリテの驚きの声に、興味深そうに様子を見に来るのだった。