1420話
ダスカーから依頼を受けたその日の午後、レイはセトと共にギルムの正門前にいた。
本来なら、遠出をする時というのは様々な準備が必要となる。
移動手段、保存食、飲み水、護衛……勿論旅の途中でそれを補給することも可能だが、旅というのは何があるのか分からない。
そうである以上、その何かに備えて準備をしておくのは当然だった。
だが……それが、レイであれば話は全く違ってくる。
移動手段には、地を走る馬よりも遙かに速く、それでいて空を飛ぶので盗賊の類に襲われたりすることもないセト。
食料はミスティリングの中に大量に入っているし、飲み水は流水の短剣というマジックアイテムが解決してくれる。
そして護衛という点においては、レイとセトがいるという時点で過剰戦力と言ってもいい。
そんな状況だけに、レイが特別に準備をするようなものはなかった。
敢えて上げるとすれば、ギルムから出る前に屋台で手当たり次第に料理を買って、それをミスティリングに詰め込んだくらいか。
「じゃあ、いい? くれぐれも迷子にならないようにするのよ?」
初めてのお使いをする子供に言い聞かせるように告げるマリーナだったが、レイの場合は極度の……とまではいかないが、多少なりとも方向音痴ではある。
だからこそ、マリーナはしっかりとレイが妙な方向に進まないようにと注意しているのだろう。
尚、当初はマリーナやヴィヘラもレイと一緒に行くつもりではあった。
だが、それが出来なくなったのは、マリーナやヴィヘラにはギルムで色々とやるべき仕事があった為だ。
特にマリーナの精霊魔法は、同じ精霊魔法の使い手から見ても圧倒的な力量差を持つ。
マリーナが使う精霊魔法という一点において、その応用度、万能性は計り知れない。
ヴィヘラは、治安維持要員として高い成果を上げている。
……寧ろヴィヘラの外見こそが治安を乱しているのではないかとレイは思ってしまうのだが、何だかんだと、冒険者や職人、仕事を求めてきた人々にとっては、色々と目立つ人物が必要らしい。
当然のようにそのような者達がヴィヘラに手を出し、叩きのめされるというのは、半ばギルムの名物になりつつあった。
ビューネは、意思疎通の問題でそもそも一緒に行くメンバーから除外されている。
レイも大体の意思疎通は出来るようになってきたが、それはあくまでも大体でしかない。
ヴィヘラのように、詳細にビューネの言いたいことを理解するという訳にはいかないのだ。
そうである以上、ビューネを連れていくという選択肢は最初からレイの中には存在しなかった。
もし連れていっても、間違いなく混乱することになるだろう。
それどころか、意思疎通が出来ないことにより、色々と不味い事態になりかねない可能性は十分にある。
「分かってる。そっちも、ギルムの方、頼んだぞ。……まぁ、俺が言うまでもないだろうけど」
「ふふっ、手応えのある相手がいればいいわね」
ヴィヘラがギルムに残る理由は仕事もそうだが、もう一つ、貴族派の妨害がこれで終わったとは限らないということもあった。
勿論、現在のギルムには普段よりも多くの冒険者が集まっている。
それだけの戦力がある以上、ビストルを襲ったように馬鹿正直に襲いかかっては来ないだろう。
だが、それは今度仕掛けてくる時は、予想もつかないような手段でということも考えられた。
また、現在ギルムにいる冒険者の中には貴族派の息が掛かった者がいるのは半ば確実だった。
……いや、寧ろ貴族派以外にもギルムの増築を厄介に思っている者達の手の者が潜んでいると考えた方がいい。
直接的な戦力としてヴィヘラが選ばれたのは、そのような相手の場合は恐らく強い相手であり、ヴィヘラが満足出来る戦いを楽しめるから……というのが大きいだろう。
「じゃ、俺はそろそろ行くよ」
そう言い、レイはセトの背に跨がり……
「セトちゃーんっ!」
まるでそのタイミングを見計らっていたかのように、不意にそんな声が聞こえてくる。
聞き覚えのある声に視線を向けたレイが見たのは、やはりというか、予想通りにミレイヌの姿だった。
手を振り、真っ直ぐレイに向かって――この場合は正確にはセトに向かってだろうが――走ってくるミレイヌの姿を確認するも、それを待たずにセトに合図を送る。
急いでいない時であれば、ミレイヌとセトを遊ばせても構わなかった。
だが、今は少しでも急いで出立する必要があるのだ。
貴族派による大きな動きが出るよりも前に。
ここで時間を浪費すれば、それだけ貴族派が動く可能性が高くなってしまう。
……勿論、ここで数分程時間を浪費しても特に差はないのだろうが、相手がミレイヌとなれば話は変わる。
ミレイヌがセトに対して抱いている愛情は、それこそ非常に激しい。
もしここでミレイヌに好きなようにさせれば、それこそ数時間単位……下手をすれば一日単位で時間が潰される可能性があった。
さすがにそれだけの時間を無駄にするというのは、レイにとっても遠慮したかった。
「ちょっ、レイ! 私よ、ミレイヌよ! ちょっと待ってったらぁっ!」
背後から……いや、下から聞こえてくる声を無視しながら、レイはセトと共に空に舞い上がっていく。
セトがいいの? と小首を傾げてレイを見ていたのだが、レイはそれに問題ないと頷いた。
セトはミレイヌと少し遊んでもよかったのだが、レイが言うのであればと、そのまま翼を羽ばたかせてギルムから離れていく。
「ほら、まずはこれでも食え。長旅……って程じゃないけど、まず行くのは中立派の貴族の領地だ」
レイとしては一気に私兵を派遣してきた貴族の領地に向かってもよかったのだが、向こうの状況……特にどこにどのような建物があるのか、またどれだけの警備が敷かれているのかといったことを知るには、やはり情報が必要だ。
そして丁度いいことに、これからレイが行く貴族の領地の隣には中立派の貴族の領地がある。
であれば、当然今回の依頼をダスカーから受けているレイなら、その貴族から情報を得られる訳だ。
ダスカーがレイに今回の件を依頼したのも、その辺りの事情を考えてのことだったのだろう。
(まぁ、ギルムの増築に関する情報を今回の標的の貴族……レルダクト伯爵だったか? そいつが掴んだのも、その中立派の貴族の領地に忍び込ませていた手の者から得た情報じゃないかって事だから、お互い様なんだろうけど)
上空を飛びながら視線を地上に向けると、少し離れた場所にトレントの森が見える。
樵達が随分と頑張って木を切っているようだが、それでもまだトレントの森の巨大さを考えれば、殆どの場所は手付かずのままだ。
そんな巨大な森だったが、ギガント・タートルが移動した跡は上空からでも見て分かる。
(いや、この場合は上空からだからこそ、なんだろうけどな)
森に引かれた一本の線。
線と呼ぶには若干太すぎるのだが、ともあれ非常に目立つ存在なのは間違いなかった。
「このトレントの森の木を全て伐採するのは、いつになるのやら」
「グルゥ?」
レイの呟きを聞き咎めたのか、セトがどうしたの? 翼を羽ばたかせながら後ろを向く。
円らな瞳でじっと見つめてくるセトに、レイは何でもないと首を振りながら目の前にある首の後ろを撫でてやる。
そんなレイの行為に、セトは気持ちよさそうに喉を鳴らす。
ランクS相当のモンスターとは、とても思えないセトの愛くるしさに、レイはミレイヌがどうしてあそこまでセトに対して強い愛情を抱くのか、それを理解した。
(まぁ、それは元々分かってたけど)
そうしてセトは飛び続け、瞬く間にアブエロ、サブルスタといった街を通りすぎていく。
地面を移動するのとは桁違いの速度。
この速度こそが、ダスカーがレイに対して今回の依頼を頼んだ大きな理由の一つだろう。
今回の一件……商隊を襲撃してギルム増築に使う資材を奪うという計画の裏で糸を引いていた者に情報が伝わる前に報復を終えてしまおうと、そのようなつもりなのだろう。
もっとも、レイはその点については楽観していない。
対のオーブのように、遠距離で通信が出来るマジックアイテムが存在しているのはこれ以上ないくらい、自分の身で理解している為だ。
レイがエレーナと頻繁に会話が出来るのも、このマジックアイテムがあるからなのだから、それは当然だろう。
ただ、この対のオーブというマジックアイテムは非常に貴重な代物であり、それこそ貴族派の中でもそこまで重要な地位にいないと教えられているレルダクト伯爵が持っているとは思えない。
レイがこれを入手する為にも、どれだけ苦労したのかを思えば、その点の心配はいらないだろう。
(まぁ、貴族なら金で買うって可能性もあるけど……それだけの財力があるか? まずないだろ。ただ、対のオーブ以外にも連絡を取れる手段はある)
それこそテイマーや召喚魔法の使い手により、鳥に手紙を運んで貰うという手段をとれば、普通に手紙を出したりするよりは圧倒的に早く今回の結果を知ることが出来るだろう。
召喚魔法はともかく、テイマーは非常に希少なので、そう簡単に雇うことも出来ないのだが……幸いと言うべきか、それともレイ達にとっては不幸にもと言うべきか。
ともあれ、現在ギルムには多くの冒険者が集まってきている。
また、素早く他の村や街に連絡して指示を出したりといったことをする為に、ダスカーがその手の人物を優遇して雇っていた。
その中には、当然のように他の者達からの仕事を受けて依頼をこなす者もいるだろう。
そのような者達にとっては、相手が誰でも詮索しない。
いや、あからさまに怪しい依頼であれば断ったりもするのだろうが、そんな間の抜けた者はそういないだろう。
「グルルルゥ」
レイが周囲の景色を見ながら考えていると、不意にセトが喉を鳴らす。
どうした? と視線を向けたレイは、セトの見ている方向に視線を向け……驚きの表情を浮かべる。
何故なら、視線の先には数匹のオークがいたからだ。
オークそのものはそれ程珍しいモンスターという訳ではない。
レイが以前倒したオークキングが支配していた集落のように、上位種や希少種といった存在がオークを率いれば大きな騒動にはなるのだが、そのような存在がいない場合のオークは数匹……多くても十匹前後で纏まっている場合が多い。
勿論色々と例外はあるので、それこそ上位種や希少種がいないのに数十匹単位で活動していたり、逆に一匹で活動しているオークもいるのだが。
ともあれ、オークがいるというだけではレイも特に驚くようなことはない。
だが……そのオークが意識を失った人間を担いでいるとなれば、話は変わってくる。
ましてや、担がれている人物の髪は長い。
恐らくという但し書きはつくのだが、オークに担がれているのは男ではなく女だろう。
そしてオークやゴブリンといったモンスターに捕まった女というのは、悲惨な運命が待っている。
それこそ、人としての……いや、女としての尊厳を踏み躙られると言ってもいい。
「見てしまった以上、このままって訳には……いかないよな」
別にレイは、博愛主義という訳でもない。
冒険者の世界は弱肉強食と言われれば納得することもある。
だが……それでも、こうして助けられるにも関わらず、女を見捨てるという真似は出来なかった。
「……しょうがない、か。セト!」
その一言でセトはレイが何を言いたいのか理解したのだろう。
翼を羽ばたかせ、地上に向かって降下していく。
この時、いつものように高い鳴き声を出さなかったのは、セトもオークに担がれている女の身を案じた為か。
もしここでセトが鳴き声を上げていれば、セトの存在に気がついたオーク達がどのような行動に出るのかが分からない。
このまま女を放って逃げてくれるのであれば、レイにとっては簡単に目標を達成出来るということになり、最善の結果だ。
だが、意識を失っている女を地面に放り投げるというのは色々と危険なのは間違いない。
落ちた時の衝撃で最悪首の骨を折って死んでしまう可能性もあるのを考えれば、とてもではないがそんな真似を許容出来る筈もない。
(それに、オーク肉は結構貴重だしな)
ランクDモンスターと、決して高ランクモンスターという訳ではないオークだったが、その肉はかなり美味い。
モンスターのランクが高くなれば、基本的にそのモンスターの肉の味はよくなる。
だが、何にでも例外というものはあり、オークはその例外の一つだった。
以前……それこそレイがギルムに姿を現したばかりの頃、レイはオークキング率いるオークの集落の攻撃に参加した。
その時に大量の肉を得てはいたが、レイは大食らいと呼ぶに相応しい食事量で、セトはそのレイよりも更に多くを食べる。
そうである以上、ミスティリングの中にあるオーク肉が減っていくのは当然であり……それを補充出来るのであれば、躊躇う必要はなかった。