1350話
レイの前では、トリスが深々と頭を下げている。
「ありがとうございました。今回は本当に色々とご迷惑を掛けてしまって……」
いつもであれば、口元は笑みを浮かべても目は笑っていないトリスだったのだが、こうして謝っている今日はそんな風な真似は出来ない。
本当に心の底から申し訳なさそうに頭を下げる。
そして、レイの隣にはアゾット商会の会頭をしているガラハトの姿もあった。
プレシャスが捕らえられた翌日、レイを含めた紅蓮の翼の面々と、アゾット商会の会頭のガラハトと、その護衛達の姿はギルムの中でも大商人や貴族といったものが使う高級な食堂――レストランと呼ぶ方が相応しい――の個室にあった。
当然、そのような場所で個室を使うには相応の料金が必要になり、今のスピール商会には色々な意味で余裕がないのだが……それでも、今回プレシャスが起こした騒動を考えれば、無理を通して道理を引っ込める必要がある。
まさか自分達よりも規模が大きいアゾット商会の会頭を自分達の支店にまで呼び出す訳にはいかず、幸いにもこの食堂の個室が空いていたので予約したのだ。
まだ料理が出て来ていないのは、やはり最初にしっかりと謝って今回の件を終わらせてからにしたいからなのだろう。
そんなトリスの思惑を理解しているのか、いないのか。
顔を上げたトリスを見て、レイは少しだけ不満を抱きながらも口を開く。
「プレシャスはこれでもう破滅したし、俺はそれでいいさ」
そう言いながらも不服そうなのは、結局自分の知り合い……友人と言ってもいいアジモフが襲われたことに対して、具体的な報復をしていないからだろう。
警備兵に捕らえられ、スピール商会の商人としては破滅したと言ってもいいプレシャスだが、レイは手足の一本も奪いもしていない。
そうである以上、不完全燃焼気味なせいか、どうしても不満が残ってしまう。
それでも他に大きな被害が出ないうちに事態を収めることが出来たのは、レイにとっては安堵出来る要因でもあった。
もしプレシャスが懲りずにレイの知り合いに手を出すような真似をしていた場合、間違いなくレイはプレシャスを捕らえるだけでは済ませなかっただろう。
恐らく……いや、確実に手足の一、二本は失っていた筈だ。
(アジモフの護衛を頼んだアロガンとキュロットも、結局何もなかったらしいしな)
それどころか、昨日プレシャスを捕らえたから、心配しなくてもいい――ただし念の為にもう数日護衛を続けて欲しい――と伝えに行った時、キュロットはパミドールに気に入られて一本短剣を打って貰ったと喜んでいたのを思い出す。
尚、そんな二人に対する報酬はトリスから支払われた今回の件に関しての慰謝料から支払われる予定となっている。
もっとも、その慰謝料もトリスはすぐに取り返せると踏んでいたのだが。
プレシャスが移動する時に使っていた馬車や馬、商品、私物の類は警備兵達が一通り調べた後は同じスピール商会のトリスに返却されるということが決まっている。
その資産価値は、トリスが今回の件で受けた被害を上回るだけのものがあるのは確実なのだから。
だが、トリスが今回の件で丸儲けをしたという訳では決してない。
この騒動でスピール商会は暫く警備隊に目を付けられることになるだろうし、何よりギルムの中でも大手のアゾット商会に対して大きな……非常に大きな借りを作ることになってしまったのだから。
スピール商会がギルムで商売をする上で、アゾット商会に対して借りがあるという意味は大きい。
トリスがこれから活動していく上で、大きな重しになるのは間違いないだろう。
もっとも、前向きに考えれば、それはアゾット商会との縁が繋がったということにもなるのだが。
「俺もそれで構わない。今回の件では最終的に得る物の方が大きかったからな」
それを理解しているガラハトは、レイと違って不満がないのだろう。トリスにあっさりとそう返す。
そもそも、アゾット商会としての被害は頭に血が上ったレイの訪問を受けただけだ。
それに関しても、すぐに解決しており、被害らしい被害は存在しない。
……もっとも、それはあくまでも物理的な被害はないという話であって、頭に血が上ったレイと向き合った者達――ガラハト含む――にとって、精神的な被害は大きかったのだが。
「ありがとうございます。……これからもギルムで頑張って商売をしていくので、よろしくお願いします」
再度深々と頭を下げるトリス。
そして数秒後に頭を上げると、部下に視線を送り……料理が持ち込まれ、この高級レストランと呼ぶべき店で宴会が始まる。
レイが腹一杯になるまで食べ、セトのお土産も作って貰い、レイに負けない食欲を誇るビューネもいた為か、この日使われた金額は相当なものになるのだった。
「本当にこれ、私が食べてもいいの?」
目の前にある料理に、キュロットは驚きの声を上げる。
それも当然だろう。今キュロットの目の前にあるのは、普段であれば食べることが出来ないような料理なのだから。
トリスとの謝罪……手打ちが終わった翌日、もう襲われる心配がなくなったアジモフとパミドールに会いに来たレイは、昼食にと前日の宴会で用意された料理をキュロット、アロガン、パミドールの三人の前に置いた。
クミトの姿がここにないのは、今日は家の方で母親の手伝いをする必要があったからだ。
……息子に鍛冶を教えているパミドールは、そのことに若干不満ではあったのだが……それでも何だかんだと妻の要望に従ってしまう辺り、仲のいい夫婦なのだろう。
そしてアジモフは自分の安全が確保されたと知ると、研究を続けたいとそのまま自分の家に戻ってしまう。
「ああ、お前達には色々と無理を聞いて貰ったからな。その礼もある。味に関しては、貴族や大商人が使う店だけあって、文句なしに一流だ」
「うわ……そんな料理を食べるなんて……いいのかしら」
「レイがこうして出してるんだから、いいんだよ。ほら、食うぞ」
「ちょっ、アロガン!? もう少し情緒ってものをね」
「何が情緒だよ。それより折角の料理が冷めてしまったら勿体ないだろ」
「それはそうだけど……って、あーっ! パミドールさんまで!」
そんな賑やかな騒ぎを聞きながら、レイも更に手を伸ばしてテリーヌに似た料理を口に運ぶ。
(マリーナやヴィヘラ、ビューネ、セト……色々と忙しそうにしてるのは間違いないだろうな)
この場にはいない面々についてのことを、レイは思い出す。
マリーナは今回の件を説明する為に領主の館に向かっている。ヴィヘラとビューネはギルドに。そしてセトはミレイヌとヨハンナの二人と共に、ギルムの外にピクニックに行っていた。
セトだけが遊んでいるのだが、それでもミレイヌとヨハンナの二人と一緒に行動するとなると、相性の悪い二人がいがみ合うのは目に見えている。
皆が仲良くしているのが嬉しいセトにとって、自分を可愛がってくれる二人が喧嘩をしている光景というのは、あまり楽しいものではないだろう。
セトについて考えている間にも、料理は次々になくなっていく。
そんな料理を食べながら、アロガンはどこか納得がいかないような表情で口を開く。
「けど、本当に報酬を貰ってもいいのか? いや、勿論くれるって言うなら貰うけどよ。実際、俺達は何もしてないんだぜ?」
それどころか、キュロットがパミドールに気に入られて短剣を作って貰ってすらいる。
アジモフがキュロット達を連れてパミドールの家にやって来た結果、気に入られたのだ。
そう考えれば、今回の依頼は丸儲けどころか、儲けすぎのような気すらしてくる。
だが、そんなアロガンに対し、レイは問題ないと頷く。
「お前達が無事に護衛をしてくれたおかげで、俺達はそっちを襲撃されても対応出来るという安心感があった。その安心感を買ったと思えば、安い話だよ」
「そう……なのか?」
レイの話を聞いても、アロガンはまだ微妙に納得出来ない様子で呟く。
レイからの依頼だということで、愛用の魔剣を使って敵と戦う……といったことを予想していただけに、何もないままで依頼が終わったのは、やはり思うところがあるのだろう。
もっとも、レイが気楽に報酬を支払うと言っているのは、トリスから貰う慰謝料があるからというのも大きい。……元々人生十回以上は遊んで暮らせるだけの金を持っているのだが。
「ああ。こっちにとってはありがたいことだった。だから、気にしないで報酬は貰ってくれ」
そう告げるレイの言葉に、アロガンは少し考えた後に頷くのだった。
領主の館で、ダスカーはマリーナと向かい合わせにソファに座っている。
「ふむ、結局はスピール商会の内輪揉めという形で終わらせたのか。レイのことだから、てっきりもっと大きな結果になると思ったんだけどな」
「あら、レイだって何でも事態を大きくする訳じゃないわよ?」
「……レイを前から知っているお前の言うことだが、それを素直に信じられる気にはならないな」
レイがこれまでどれだけのことをしてきたのかを思い、ダスカーは少しだけ呆れたように告げる。
それこそ、貴族であっても敵対した相手であれば容赦なく力を振るうのだ。
普通であれば、貴族という地位を前にして何らかの躊躇いを覚えてもおかしくはない。
だが、レイの行動に躊躇はない。
行動に迷いがない……そう表現すればいいことのようにも聞こえるが、貴族社会に生きる身としては明らかに不味い。
それこそ悪質な貴族はまだしも、公爵と呼ばれる貴族の最高位……それどころか、国の最高権力者の国王ですら、理由があれば何の躊躇もなくその死神の大鎌を振るってしまいかねない。
もっとも、もしそんなことになったとしても、レイはミレアーナ王国を出ていくことだろう。
そしてどこか他の国に所属し、次にはその強大な牙をミレアーナ王国に向けてくる筈だ。
(可能性としては、ベスティア帝国が一番高いだろうな)
以前の戦争や内乱で、ベスティア帝国の住民がレイに向ける感情は非常に複雑だ。
また、国民に人気のあるヴィヘラとの仲も内乱の時に多くの者に見られており、それもレイに対する感情に影響しているだろう。
だが、同時にレイの力をこれ以上ない程に見せつけられたのもベスティア帝国なのだ。
それだけの力を持った者が国を追われたとなれば……ましてや、レイの近くに自国の皇女――本人は既に皇女という意識はないが――がいれば、どのような手段を使ってでも引き込もうとするだろう。
ギルムの領主として、そして何よりミレアーナ王国の貴族として、ダスカーは絶対にそんな選択をするつもりはなかった。
寧ろ、レイと敵対した場合の被害の大きさを考えれば、とてもではないが敵に回そうとは思えない。
「大丈夫よ」
そんなダスカーの心配を払拭するかのように、マリーナが微笑む。
「……何がだよ」
自分を心配してくれたというのは分かっているのだが、小さい頃からの色々な悪行を知られているせいか、ダスカーはマリーナに素直にはなれない。
特にプロポーズの件では今でも時々持ち出されてからかわれているのだから。
だが、マリーナはそんなダスカーの様子に小さく笑いながら再び口を開く。
「レイはこのギルムに愛着を持っている。そんなレイがギルムを捨てるような真似は……そうそうしないでしょ」
「その、そうそうが起きないかどうかを心配してるんだけどな」
ダスカーは溜息を吐きながら、テーブルの上にある紅茶に手を伸ばす。
素面でマリーナの相手をするのは辛いので、出来ればエールか何かを飲みたいところなのだが……領主が日中から酒を飲む訳にもいかないだろう。
マリーナはそんなダスカーに向かって、小さく笑みを浮かべるのだった。
「では、この件についてはこの辺で」
「ええ、そうね」
ギルドの二階にある執務室。
そこでヴィヘラとビューネの二人はワーカーに今回の事情を説明していた。
本来なら元ギルドマスターのマリーナが来れば一番良かったのだが、マリーナはダスカーに対しての説明があり、こうしてヴィヘラが代わった結果だ。
もっとも、別に急を要する説明という訳ではなかった以上、マリーナが明日ギルドに説明に来てもよかったし、もしくはダスカーへの説明が終わった後でギルドにやって来ても良かったのだが。
ワーカーにとっては、ギルドマスターの役職についた途端に起きた今回の騒ぎだ。
……実際には、騒ぎは騒ぎでもそこまで大きな騒ぎではなかったのだが、それでもギルドマスターの初大仕事として、しっかりと処理していく。
実際にはダンジョンの近くにあった出張所で働いていた時も、多かれ少なかれ騒ぎは色々と起きていたので、今回の件も特に動揺したりせずに何とか出来たのだが。
「でも、出来ればこういう騒ぎはあまり起こして欲しくないですね」
「そうね、レイにはそう言っておくわ。……騒動を引き寄せる体質のレイにとっては、それは難しいと思うけど」
「ん」
ヴィヘラのしみじみと呟かれた言葉に、ビューネが同意の声を漏らすのだった。
「ちょっと、ミレイヌ。今は私がセトちゃんに寄り掛かって昼寝を楽しむ時間でしょ」
「何よ、ヨハンナだって私の時間を邪魔したでしょ」
「グルルルルゥ……」