1339話
走るヴィヘラは、既にセトを追い越し、一行の先頭を走っていた。
裏通りの、狭く曲がりくねった道を走る一行。
何人かとぶつかりそうになりもしたが、レイ、ヴィヘラ、マリーナの三人はそれぞれが体捌きも一流と言っていい。
ぶつかりそうになった相手をあっさりと回避し、セトは壁を蹴って相手を回避するといった行動で裏通りを進んでいた。
普通に考えればとてもではないが信じられないような移動の仕方だが、それでも今回に限っては有効だった。
「グルルゥ!」
ヴィヘラの後ろを走るセトが、鋭く喉を鳴らす。
そんなセトの様子で、相手がまだビューネと戦っているのは分かった。
そのまま数秒……十秒は掛からない時間で、ある程度の広さがある場所に出る。
その広い場所では、先程スピール商会の支店の前で見た女が、ビューネと向かい合っていた。
女……ケーナはレイピアを持ち、ビューネは白雲を手にしている。
お互いが相手の隙を窺っていたのだが、そんな中にレイ達がやって来れば当然気が付く。
「ちっ、早いのよ!」
やって来たのがレイ達だと理解したケーナは、懐に左手を入れようとするが……その左手は、先程ビューネの長針によって貫かれた場所。
戦うのに邪魔な長針は、既に地面に投げ捨てられている。
ビューネも頬に一筋の斬り傷があるが、頬の傷は戦闘に支障はない。
だが、左腕を長針で貫かれたケーナは、その痛みが一瞬……ほんの一瞬ではあるが動きを鈍らせる。
そして、ビューネ……ではなく、レイ達の先頭を進んでいたヴィヘラにとってその一瞬の隙があれば一気に距離を縮めるのは難しい話ではなかった。
懐に伸びていたケーナの左手が抜き出されるよりも前に、その腕はすぐ間近まで迫ったヴィヘラの手に掴まれ、強制的に動きを止められる。
元々ケーナは素早さと隠密行動を活かした暗殺を得意とする。
正面から戦うヴィヘラを相手にした場合、元々の地力の差もあって、勝てる筈がなかった。
「大人しくしなさい。貴方には色々とお話しを聞かせて貰う必要があるんだから。……それと、ビューネの頬に傷を付けたお礼もしたいしね」
「ふっ……ふふっ……傷って言うくらいなら、私の左腕も十分に傷を負ってるんだけど?」
「あら、そう。けど私達……紅蓮の翼に敵対したにしては、被害は少ないんじゃ……ない!?」
押さえていた左腕を、力ずくで持ち上げる。
ケーナも、女ではあっても暗殺者として十分に身体は鍛えている。
体重も、筋肉が付いている分、普通の女よりは重い。
にも関わらず、ケーナの身体は片手であっさりと持ち上げられ……次の瞬間、地面に背中から叩きつけられる。
(一本背負い……というには、ちょっと乱暴すぎる一撃だな)
一連の動きを見ていたレイが、ふとそんな感想を抱く。
暗殺者と敵対したにも関わらず、ヴィヘラの心配を全くしていないのは、やはりその実力を理解しているからだろう。
ヴィヘラなら、この程度の相手にどうにかされる筈はない、と。
「ヴィヘラ、話を聞きたいんだから、喋れるくらいにしておいてよ」
マリーナの方も、そんなヴィヘラを見ながら心配した様子もなく声を掛ける。
ヴィヘラがどのくらい強いのかというのは、冬の間に行われた戦闘訓練を何度も見ているマリーナは当然知っている。
それこそ、自分達がここに到着するまでの時間にビューネを倒すことが出来なかったのを考えれば、ヴィヘラの相手になる筈はないと。
「分かってるわ」
背中を地面に叩きつけられたケーナを見ながら、ヴィヘラは短く告げる。
今の一撃も、相応に手加減をしていたのだろう。
だからこそ、ケーナは背中を叩きつけられた衝撃で息を出来ないまま痛みと衝撃に堪えているにも関わらず、まだ生きていた。それも骨の一本も骨折するようなことはないままに。
折角手に入れた、プレシャスに繋がる為の情報源だ。
ここで逃がしたり、殺したりする訳にはいかなかった。
「レイ、ロープちょうだい」
ヴィヘラの求めに従い、レイはミスティリングからロープを取り出す。
それを受け取ったヴィヘラは、まだ痛みと衝撃で動けないケーナの手や足をロープで縛っていく。
まだ意識はあったケーナだったが、背中を地面に叩きつけられた今の状態では、抵抗したくても出来ない。
そうして結局何も出来ないままに、ケーナはあっさりと手足をロープで縛られて動けなくなる。
素人が適当に結んだのであれば、暗殺者という裏社会の人間のケーナなら簡単に解くことが出来る。
だが、ヴィヘラは縄抜け出来ないような結び方をしており、ケーナは完全に手も足も出ない状況だった。
いや、もっと熟練の技術があれば縄抜けが出来たのかもしれないが、残念ながらケーナの技量でそれは不可能だった。
そんなケーナをよそに、マリーナは地面に叩きつけられた衝撃でケーナの手から落ちたレイピアを手に取る。
「へぇ……中々の品ね。マジックアイテムって訳じゃないけど、それでも武器としては一流の品よ」
感心したように呟くマリーナ。
事実、そのレイピアはケーナがこれまで暗殺者として活動してきた上で大事な相棒でもあった。
だからこそ、ケーナはレイピアが自分以外の者に触れられるのを我慢出来ず、まだ満足に声も出せないのに強引に叫ぶ。
「触る……じゃな……わよ」
「へぇ。あの衝撃でもう声を出せるの。少し手加減しすぎたかしら?」
そんなケーナを眺めながら、ヴィヘラは少し驚いたように言う。
そこまで怒っている様子がないのは、レイがポーションを使ってビューネの頬の傷を治療したからだろう。
元々かすり傷くらいの傷であった以上、安物のポーションでも十分治療が可能だったのだ。
最初は裏社会の人間の武器ということで、毒の類も警戒したレイだったが、幸いその辺りは心配しなくてもよかったらしい。
ともあれ、今のケーナを挑発するのはよくないだろうと判断したマリーナは、持っていたレイピアを地面に置く。
それでもロープで縛られたケーナから離れた場所に置いたのは、やはり警戒している為なのだろう。
「さて、どうやら話も出来るようだし、色々と聞かせて貰おうか。まず、お前を雇ったのは誰だ?」
「シュバルよ」
「……何?」
「あら、私を雇った相手の名前でしょう? だから、シュバル」
地面に叩きつけられた衝撃からは回復したのか、ケーナは特に咳き込んだり苦しそうな様子も見せず、そう告げる。
尋問をするには都合が良かったのだが、こうして実際に口に出された名前はレイにも全く知らない名前だった。
てっきりプレシャスという名前が出てくるとばかり思っていたのだが……
「シュバル? 誰だそれは?」
「さあ? 残念だけど依頼人の素性を確かめたりはしないの。報酬を含めて条件さえ合えば、私は依頼を引き受けるわ」
「その割りには、こうしてあっさりと向こうの情報を口にしてるようだが?」
「そりゃあね。あんた、レイでしょ? グリフォンと一緒に行動してる人なんて、他にいないもの。異名持ちの冒険者を相手に、ここで妙な抵抗をする気はないわ」
「……なら、本当にそのシュバルという奴に雇われた、と?」
「ええ。だから、そう言ってるでしょ?」
笑みすら浮かべてそう告げるケーナは、度胸という面で考えれば一人前の存在と言ってもいいだろう。
だが、この場合は相手が悪かったと言うべきだろう。
「そうか。なら、俺達にとっては全く関係のない一件だな。だとすれば、これ以上付き合っていられる暇もないし……とっとと用事を済ませるか」
呟いたレイが、マリーナを一瞥するとミスティリングからデスサイズを取り出す。
巨大な刃が、そのままケーナの首筋に突き付けられた。
後は、レイが少しデスサイズを持つ手に力を入れれば……次の瞬間には、あっさりとケーナの首は胴体と分かれることになるだろう。
それが分かっているのか、ケーナの頬を一筋の汗が零れ落ちる。
レイから放たれる殺気は、冗談でも何でもなく自分の命を奪おうとしていると、そう理解してしまったからだ。
「じゃあな」
その呟きと共に、レイの手に力が込められ……ケーナは反射的に目を瞑る。
そしてデスサイズの刃がケーナの首に触れ、皮膚を斬り裂いて血が一筋流れ……
「待って」
デスサイズの刃が、皮膚の次に肉を切断しようとした瞬間、マリーナの口から待ったの声が掛かる。
「どうしたんだ?」
「私達の件には関係ないでしょうけど、今回の件にこの人が関わっているのは明らかよ。なら、ここで私達が処分するのではなく、警備兵に突き出した方がいいんじゃない?」
「……本気か? こいつが言ってるように、本当に今回の件に関わってないとは限らないんだぞ?」
「ええ。でも、関わっていないとも限らないでしょう? なら、今回の件はスピール商会の件を担当している警備隊に任せるのが最善よ」
「どうしても、か?」
「そうね。元ギルドマスターの立場から考えても、その方がいいと思うわ」
そんなマリーナの言葉を聞きながら、ケーナは少しだけ表情を緩める。
自分はこのまま死ぬのだと。そう思っていただけに、一度生き延びられるかもしれないと考えれば、それを切り捨てるようなことは出来なかった。
……縛られ、背後が見えないケーナの後ろで、レイとマリーナのやり取りを眺めていたヴィヘラが笑みを浮かべていたことに気が付かず。
「分かった。ここは一旦マリーナの意見に従うよ。なら、こいつを連れて行く……より、警備兵を連れてきて貰った方がいいな。俺が呼んでくるか?」
尋ねるレイの言葉に、誰も異論を口に出さない。
特にケーナは、あっさりと自分を殺そうとしたレイがいなくなってくれるのは賛成だったので、沈黙を保ったままだが内心ではレイがいなくなって欲しいと、心からそう思っていた。
「ええ、レイでいいんじゃない? ただ、念の為にこっちにはセトを残してくれる?」
「ああ。……セト、俺はちょっと警備兵を呼んでくるから、暫くここでマリーナ達を守っててくれるか? まぁ、迂闊に手を出してくるような奴がいるとは思えないけど」
セトがいるという時点で、ここにいる面子はレイの関係者だというのは明らかだ。
それを知らないで手を出してくるような相手がいれば後悔することになるし、それを知ってる者であれば手を出したりはしないだろう。
「グルルルゥ!」
任せて、と鳴くセトを軽く撫で、レイはその場を去って行く。
そうしてレイの姿が消えると、ケーナは自然と安堵の息を吐いた。
自分が暗殺者という、とてもではないが表の社会で生きていける人間ではないことは知っている。
だが、それでも……ここまで直接的に死というものを感じたことはない。
それだけに、ケーナにとって死の象徴と呼ぶべきレイが消えたというのは、自然と心の中に安堵の気持ちが抱かれても仕方がなかったのだろう。
そんなケーナを見ていたマリーナとヴィヘラの二人はそっと視線を交わす。
ビューネは、先程まで行われた戦闘の疲れを癒やすかのようにセトの身体に体重を預けていた。
そして周囲には沈黙が満ちる。
裏通りだけに、通る人というのはいないでもなかったのだが、先程まで行われていた戦闘を目にした者は、素早くその場を後にしていた。
今はもう戦闘が終わっているのだが、それでも周囲には緊張感が満ちており、自分からこの場に入っていこうとはとても思えないのだろう。
そんな中、やがて沈黙を破ってマリーナが口を開く。
「貴方も無茶な真似をしたわね」
「……何のことかしら。貴方達が出てくるまでは、何の問題もなかった筈よ」
「今回の件にはレイを含めて私達も関わっているというのを知らなかったの? 今の状況でスピール商会に手を出せば、私達が出てくるのは当然だと思うんだけど」
「それに仕事が終わった後でさっさと支店から離れていればよかったのに、何故わざわざ支店の前にいたのかしら?」
マリーナの言葉に、ヴィヘラも同意するように告げる。
ケーナがスピール商会の支店を襲ってから、レイ達が来るまでには相応の時間があった。
にも関わらず、ケーナはまだ支店の周囲にいたのだ。
周囲にいた人混みに混ざってはいたのだが、それでも迂闊としか言いようがない。
「しょうがないじゃない。まさかこんなに早く貴方達が来るとは思わなかったんだもの」
「そう? そこまで早くはなかったと思うけど」
「早いわよ。今までの私の経験から考えれば、もう少し余裕はあった筈よ」
マリーナの言葉に、ケーナはそう言葉を返す。
自分に死のプレッシャーを与えたレイが消え、安心したところに自分を庇ってくれたマリーナが話し掛けてきたので、つい会話に応じてしまったのだ。
予想通りに事態が運んでいることに、マリーナは笑みを浮かべながらケーナとの会話を続けるのだった。