1329話
スラム街を進んでいたレイ達だったが、やがて遠くに先程聞いた情報通りの建物を見つけると、動きを止める。
「それで、これからどうするの? 向こうが出てくるのを待つ?」
興味深い様子で周囲を見回すセトを撫でながら、マリーナがレイに尋ねる。
いつものレイであれば、それこそデスサイズや黄昏の槍を持って目の前にある建物に突入してもおかしくはない。
スラム街にあるのが相応しいような、かなりの年月放っておかれたような、二階建ての建物。
それでいながら、マリーナの目から見ればところどころしっかりと補強されているのも見える。
一見すればスラム街にあるのに相応しい建物だが、実際にはしっかりと手入れをされているという時点で、ここが普通のスラム街の建物ではないというのは明らかだった。
更に決定的だったのは、その建物の側には明らかに護衛と思われる者達の姿があったことだろう。
露骨に武器を抜いたりはしていないが、それでも緊張した様子で周囲の様子を窺っている。
寧ろ、緊張しすぎじゃないかと、そんな風な心配を抱いてしまってもおかしくない様子。
実際にはレイ達がスラム街に入ったという情報が入り、それを聞いてスレインの部下達が神経質になっているというのが正しい。
「さて、どうするか……建物の外にプレシャスがいれば、そこまで考える必要はなかったんだけどな」
「プレシャスだって、何か用事があってスラム街に来たんだから建物にいるのは当然でしょう? 誰かと会ってるんでしょうし」
少しだけ呆れを込めて呟くヴィヘラの言葉に、マリーナが悪戯っぽく笑みを浮かべて口を開く。
「もしかしたら、何かを探しに来たのかもしれないわよ? スラム街は見ての通り凄い煩雑だし、何かを隠すのにここ以上の場所はそうないし」
「そうかもな。……あ」
レイがマリーナの言葉に頷くと、ふと視線を感じてそちらに目を向ける。
レイ達がスラム街に入ってきた時から多くの視線を向けられてはいたのだが、今向けられた視線は明らかにレイをレイとして認識したものであり……同時に、強い警戒や恐怖、緊張というものを感じたからだ。
その視線を向けていたのは、レイ達が見ていた方向……二階建ての建物の護衛をしていた者達だった。
(いや、当然か。俺達は色々と目立つし)
まだ建物からはかなり離れているのだが、間に視界を遮るようなものはない。
そんな中で体長三m近いセトがいて、その周囲に人がいれば当然目立たない方がおかしかった。
ましてや、ドラゴンローブを着てフードを被っているレイや小さなビューネはともかく、マリーナとヴィヘラは遠目からでも色々と違和感があるのだから。
貴族が開くようなパーティに着ていくようなパーティドレスを身に纏い、弓を持ち、矢筒を背負っているマリーナ。
娼婦や踊り子が着ているような薄衣を身につけながら、手甲足甲を身につけているヴィヘラ。
普通に考えれば、これで目立つなという方が無理だった。
「どうするの?」
ヴィヘラに視線を向けられて尋ねられたレイは、どうするか迷う。
元々はプレシャスに意図的に顔見せし、自分はお前を疑っているのだと、そうプレッシャーを掛けるのが目的だったのだが……それをするよりも前に、向こうに見つかってしまってはどうしようもない。
(なら……考え方を変えればいいだけだ)
数秒で考えを改め、レイは口を開く。
「もう向こうに見つかってしまったのなら、堂々と姿を見せて声を掛けるのはどうだ?」
「……まぁ、レイがそれでいいのなら構わないけど。向こうに対するプレッシャーにもなるでしょうし」
ヴィヘラがそう告げると、マリーナとビューネも特に異論はないのか頷きを返す。
セトは、特に何も考えた様子もなく、喉を鳴らす。
ただ、少しだけ嫌そうにしているのは、ここはスラム街だからだろう。
スラム街というからには当然不衛生であり、つまり表通りや……ましてや裏通りに比べても、様々な悪臭が漂う。
ただでさえ五感が敏感なセトにとって、この悪臭は我慢出来ない程のものではないが、それでも不愉快なものだった。
「特に反対意見もないようだし、なら堂々と進むか」
そう告げ、レイはセトと共に道を進み、目的の建物に向かう。
当然建物の護衛をしていた者達は何か対処をしなければならないのだが……スレインの部下としてそれなりに情報に詳しい者達は、自分達に近付いてきているのが誰なのかを知っていた。
「ちょっ、おい、どうするんだよ! あれってレイだろ!?」
「ああ。しかもランクBパーティ紅蓮の翼が勢揃いとか、どうしろってんだよ」
「とにかく、スレインさんに知らせ……」
護衛に最後まで言わせるよりも前に、レイは一気に建物との……そして護衛達との距離を詰める。
そんなレイの動きと、何よりもいきなり目の前に現れたレイにどう対処すればいいのか分からず……それこそ下手に動けばレイに攻撃されるのではないかという思いから、護衛の者達は動きを止める。
そんな護衛達の前でレイは足を止め、大きく息を吸ってから口を開く。
「プーレシャースくーん、あーそびーましょー!」
周囲に響き渡ったのは、そんな声。
普通に聞けば、それは子供が友達を遊びに誘うような声だろう。
それこそ、表通りとかでは子供達がこのようなことを叫んでいるのを聞くのは珍しいことではない。
だが……ここはスラム街、それもスラム街の中でもかなり奥まった場所だ。
当然のようにここで今のレイのような言葉を口にする者はそういないだろうし……何より声を掛けた先がスレインの所有している建物とあっては、自殺志願者くらいしかそのような真似はしないだろう。
しかし、それが出来るのがレイなのだ。
多くの者が圧倒されるだけの実力を持ち、だからこそそのような真似をしてもそう簡単に手を出すことは出来ない。
建物に向かって声を掛けたレイは、向こうから反応があるまで黙って待つ。
護衛達もここで何かを喋れば、自分にとって不利になるというのは理解しているのだろう。じっとしている。
そして周囲は静寂が広がり……そんな中、マリーナ達が歩いてくる足音が聞こえてきた。
「それで、どうなの? 向こうから何か反応があった?」
「いや、残念だけどまだ何もないな。……もしかして聞こえてないとか? なぁ、一つ聞くけど、もしかしてこの建物は外からの音を完全に聞こえなくしているとか、そういうのはないよな?」
尋ねられた護衛は、悲壮な表情を浮かべながら頷きを返す。
何故自分がレイと相対して言葉を交わさなければならないのかと、そう思いながらも。
「はい。防音設備のようなものはなく、外からの声は……先程のレイさんのような大きな声であれば、間違いなく聞こえている筈です」
レイを少しでも怒らせないようにと言葉に気を使いながら、男は答える。
身長二mを超え、身体にもしっかりと筋肉がついている、まさに巨漢と呼ぶのに相応しく、顔には幾つも斬り傷がついており、外見的な迫力という意味ではレイは足下にも及ばない人物。
だが、今はその強面の人物がレイに対して少しでも機嫌を損ねないようにと、気を使って話していた。
もしこれを何も知らない者が見れば、笑い話になるだろう。
だが……この場にいる者で、それが出来るような者はいない。
自分達を率いているスレインがプレシャスからの依頼で何をしたのか……そしてレイがどのような実力を持っているのかというのを、よく理解している為だ。
レイがどこまで自分達の情報を掴んでいるのかは分からない以上、ここで下手な返答をした場合どうなってしまうのか。
それは、裏社会を生き抜いてきた男にとっても想像したくない出来事だった。
自分がそんな風に思われているとは考えていない……いや、この場合は気にしていないと言うべきか、ともあれレイは男の返答に納得しながら視線を建物に向ける。
もっとも、どこにプレシャスがいるのか分からない以上、建物の中に入っても目的の人物を見つけるのは難しいのだろうが。
(それに、こういうのだとどこかに隠し通路とかがあるってのがパターンだし)
もし無理に建物の中に突入した場合、それで向こうが危険を感じて隠し通路から逃げ出されでもしたら、それこそ折角スラム街にまで来た意味がなくなってしまう。
……勿論こうして外で待っている間にも、プレシャス達が隠し通路から逃げ出すという可能性はあったのだが。
「なあ、お前の上司ってどんな奴だ?」
「はい、立派な人物です」
「……具体的には?」
「いつも俺達のことを考えてくれていて、何かあったら酒を奢ってくれたりします」
「なるほど」
取りあえず太っ腹なのは理解出来たレイだったが、ふとヴィヘラが自分に呆れの視線を向けているのに気が付く。
「どうしたんだ?」
「あのね……そもそも、なんで向こうの連中と仲良くなってるのよ」
「いや、別に仲良くなったりはしてないだろ?」
「なってると思うんだけど」
そう告げるヴィヘラだったが、レイは本当に男と仲良くなっているつもりはない。
ただ、建物についての話を聞いただけだ。
「……ん」
そんな中、不意にビューネが呟く。
何故かその言葉は素直に耳に入り、その場にいた者達がビューネに視線を向ける。
するとビューネがどこか一ヶ所をじっと見ているのに気が付き、その視線を追う。
ビューネが見ていたのは、建物の二階にある一室。
レイがそこを見ると、何故ビューネがその部屋を見ていたのかが分かった。
何故なら、そこにはプレシャスの姿があったからだ。
レイがいる場所から自分達が見つけられるとは思わなかったのか、レイがその部屋に視線を向けたのに気が付いたプレシャスは、驚いた様子を見せる。
だが、やがてこの距離からでもレイに見つかってしまっては隠れようがないと判断したのだろう。やがてプレシャスは中にいる者達に言葉を掛けている様子がレイからも見えた。
そして数分後……建物から、護衛を連れたプレシャスが姿を現す。
ただし、やって来たのはプレシャスだけで、そこにスレインの姿はない。
プレシャスは、出来ればスレインにも姿を現して欲しかったのだが……レイの知り合いの錬金術師に危害を加えるような真似をするように指示を出したスレインは、レイの前に姿を現すようなことは絶対に出来なかった。
もし姿を現せば、自分の命がどうなるのかは容易に想像出来たからだ。
……勿論、レイが自分のことを知っているとは思わないので、それはあくまでも可能性にすぎない。
だが、それでも万が一の可能性があるのを考えると、自分が呼ばれている訳でもないのに進んで姿を現すような真似をしたくはなかった。
結果として、こうしてプレシャスとその護衛……そして厳つい顔をした男が一人姿を現す。
(あいつがプレシャスの交渉相手か?)
プレシャスと一緒に出て来た相手だけに、レイがそう思っても仕方がない。
しかし、実際にはその男はスレインが自分の身代わりとして……いや、正確には自分から名乗り出て影武者としてこうして姿を現したのだ。
「それで、レイさん。こんな場所で顔を合わせるとは思いませんでしたが、どうしたのですか?」
「いや、偶然スラム街にやって来たら、偶然プレシャス達がいるって話を聞いて、道を歩いていたら偶然プレシャスがいる建物が近くにあったから、顔を見せようと思ってな」
偶然が三つも重なるということは、普通ない。
ないのだが……レイはそれを偶然で押し通すつもりだった。
勿論プレシャスもそれは分かっているのだが、ここで自分が下手なことを言えば、それはそのまま自分に不利な言葉となって返ってくる可能性が高い。
自分がここにいるのも、トリスに対する手を打って貰う為なのだから。
もし何かの間違いでそれが知られ……そこからアジモフの一件が知られてしまえば、自分がどうなるのかは考えるまでもない。
「そうですか。私もレイさんと顔を合わせることが出来て嬉しいですよ。……それにしても、以前一度あっただけの私に会いに来てくれるとは……この場合、嬉しいですと言えばいいんでしょうか?」
「そうだな、俺もそう言って貰えば助かる。……ああ、そうそう。実は風の噂で俺の知り合いに手を出した犯人がスラム街にいるのかもしれないって話だったんだが……何か知らないか? うん? そう言えば……」
そこで一旦言葉を切ったレイは、視線をプレシャスの隣にいる男……スレインの影武者に向けられる。
その態度はあまりにもわざとらしく、明らかにレイがその男を……そして男と一緒にいるプレシャスを疑っているというのを示している。
だが、プレシャスはそんなレイの思惑を理解していながらも、笑みを浮かべて首を横に振る。
「それは大変ですね。……彼は私の古い友人でして。こうして久しぶりに会いに来ていたのですよ」
「ほう」
プレシャスの言葉に、レイはフードの下で満面の笑みを浮かべながらそう言葉を返すのだった。