1304話
街の中を走るレイ達だったが、当然のようにビューネが遅れ始める。
瞬発力という意味では、レイ達には及ばないが高い能力を持っているビューネだったが、それでも年齢による体力の差というのは大きい。
少しずつ、だが確実に遅れて行くビューネ。
それを見かねたヴィヘラが、素早くビューネの身体を捕まえるとセトの背の上に乗せる。
レイ以外の者を乗せて空を飛ぶのは難しいセトだったが、誰かを乗せて走ったり前足で掴んで空を飛ぶのであれば、それこそ相当の重量でも問題ない。
そんなセトにとって、小柄なビューネの体重はあってないようなものだった。
もっとも、子供一人程度なら背中に乗せて空を飛ぶことも可能なのだが。
ともあれ、遅れがちだったビューネがセトの背に乗ったことにより、レイ達の速度は数秒前より格段に上がった。
そうして街中を走っている中で、やがて周囲の景色がレイにとって見覚えのあるものになってくる。
「これは……まさか……」
この道の先にあるのは、普通に暮らしている一般人であれば全く行く必要のない場所だ。
だが、色々と特殊なレイは何度も足を運んだことがある。
そう……この先にある、貴族街に。
周囲の様子を気にしない速度で走るレイ達は、当然のように目立つ。
セトの存在で、走っているのがレイだというのは分かるだろう。
普通に歩いて移動しているのであれば、そんなレイ達を見ても貴族街を見回っている冒険者や私兵の類は軽く挨拶をするだけで済ませる。
しかし、周囲の様子にも構わず走っているのであれば、話が違ってくる。
貴族街の警備を任されている者として、そのような人物を……例え顔見知りであっても、放って置く訳にはいかない。
「ちょっ! 待て、レイ! お前何をそんなに急いで走ってるんだ! 止まれ、止まれって言ってるだろ!」
「馬鹿! あの様子を見ろ、レイは全く俺達を相手にしていないぞ。このままだとセトの体当たりをまともに食らうことになる!」
「回避、回避ぃっ!」
丁度タイミング良く貴族街を見回っていた冒険者達が、必死に叫ぶ。
レイがどれだけの力を持っているのかというのは、このギルムの冒険者であれば誰もが知っている。
知らない者はモグリと呼ばれても仕方がないだろうというくらいには。
だからこそ、そんなレイが……そしてセトが突っ込んで来るのを、自分達で止められるとは思わなかった。
特に先頭を走っているセトは、今でこそギルムで愛玩動物のような扱いを受けているが、実際には高ランク冒険者でも一生に一度会えるかどうかといったランクAモンスター……いや、希少種であることを考えると、ランクSモンスター相当となる。
そうして三人の冒険者が回避した場所を、セトが、レイが、ヴィヘラが走って行く。
スレイプニルの靴の件で頭に血が上っているレイは、そんな三人に目もくれない。
「ん」
「ごめんね、少し急いでるのよ」
そんなレイとは違い、通り抜けざまにセトの背に乗っているビューネと、レイの後ろを走っているヴィヘラが短く声を掛けていく。
当然この程度で話が済むとは思っていないのだが、それでも何もしないよりはいいと考えたのだろう。
事実、三人の冒険者はそんなヴィヘラの態度から、何かあると判断したのだろう。
冒険者達はすぐにパニックになるような真似はせず、仲間と視線を合わせる。
「おい、どうする?」
「どうするって言ってもよ。……レイに戦いを挑みたくはねえが、だからってレイみたいな奴が我を忘れて貴族街に入って来たのを、黙って見逃すような真似は出来ないだろ。取りあえず執事にでも報告しておこうぜ」
自分達を雇っている貴族の家の執事……直属の上司となっている人物にこの件を知らせた方がいいだろうと告げる仲間に、他の二人も頷く。
「そうだな。レイが暴れたら、それこそ周囲に大きな被害が出る可能性がある。だとすれば、前もってそれを知らせておく必要はあるか」
三人はそれぞれに頷き、自分達を雇っている貴族の屋敷へ向かう。
出来れば余計な騒動が起きないように……そこまでいかなくても、レイを怒らせた相手の貴族の屋敷の敷地内だけで騒動が収まるように、と。
この三人は数年前に行われたベスティア帝国との戦争に参加した経験の持ち主だ。
それだけに、レイの放つ火災旋風の恐ろしさを直接見て、その威力も規模も十分に理解している。
そんな攻撃がこの貴族街で起こるようなら……と。
レイの使う火災旋風は今ではより進化して、ある程度自由に動かせるようにすらなっていることをこの三人が知らなかったのは、幸福だったのだろう。
もしそれを知っていれば、それこそレイを怒らせた相手の屋敷だけではなく、貴族街……下手をしたらギルムそのものまで消滅していた可能性があるのだから。
それを知らない三人は、そのまま急いでその場を後にする。
……レイが向かった方向と、自分達がこれから向かう方向が違ったのは、間違いなく三人の動揺をある程度ではあるが安堵させることに成功した。
「グルゥ!」
「ここか!? ……ここか?」
先程擦れ違った三人の冒険者が肝を冷やしているというのには全く気が付かないまま、レイはセトが足を止めて視線を向けた先にある屋敷を眺める。
その屋敷は、レイも以前見慣れた場所だった。
以前見た時は悪趣味と言っていい程に飾り付けられていた屋敷だったが、今は落ち着いた姿になっている。
だが、屋敷そのものは以前見た時と特に変わっていないのだから、それを見間違う筈はない。
それでも目の前の屋敷の人物が今回の件に関わっていると信じることが出来なかったのは、以前自分に手を出してきたその人物は既にギルムにおらず、その後を継いだ人物は下手にレイに手を出すのは危険だと理解していた筈だったからだ。
……そう、目の前にあるのは、アゾット商会の会頭を引き継いだガラハトが住んでいる筈の屋敷だった。
元々はレイの持っている各種マジックアイテムやセトに目が眩み、このギルムで武器屋に強い影響力を持つガラハトの兄、ボルンターが強硬的……いや、傲慢にレイにマジックアイテムとセトを引き渡せと命令したことから始まった一件。
結果として、今までアゾット商会の会頭を務めていたボルンターは失脚……どころか、レイの怒りに触れて魔法を使われ、毎晩の如く恐怖に怯えることになった。
そのボルンターの異母弟が最終的にはアゾット商会を引き継ぎ……それ以降、レイとは特に問題を起こすようなこともないままやってこられたのだ。
「ガラハトの命令か? ……いや、あいつがそんな真似をするとは思えないが」
アゾット商会の中で、レイの実力を一番知っているのは間違いなくガラハトだ。
アゾット商会と揉めた一件では、レイが戦う姿を何度も近くで見てきたのだから。
そんなガラハトが、今更自分を怒らせるような真似をするとは思わなかった。
いや、商売上の問題でやむを得なくということであれば、レイを怒らせるようなこともあったかもしれない。
だが、今回はアジモフを襲ってスレイプニルの靴を強奪したと思われるような行動だ。
明らかにレイに対して喧嘩を売っているとしか思えない。
ガラハトの性格を知っているだけに、レイにはとてもではないが信じられない。
(いや、アゾット商会は以前よりも小さくなったけど、それでもギルムの中では大きな商会に入るのは変わらない。つまり、それだけ多くの人がいるんだから、ガラハトに内密で今回の件を企んだ奴もいるかもしれない、のか?)
視線の先にある屋敷を見ていたレイだったが、そんな真似をしていれば当然屋敷の門番をしている者に見つかる。
いや、屋敷を見ているだけであれば、それ程珍しいものではない。
今は以前と比べて大分大人しくなった屋敷だったが、それでも下手な貴族の屋敷よりは大きく、一見の価値があるのは事実なのだから。
実際に今まで何度もそのような者はいたのだが……レイ達はかなり目立つ。
デスサイズや黄昏の槍を出していないレイや小さなビューネはともかく、ヴィヘラは非常に目立つ美貌をしており、着ているのも向こう側が透けて見えるような薄衣だ。
ましてやそこに、この冬を越えて体長三m近くになったセトがいれば目立たない筈がない。
そして何より……その門番の片方は、以前にもレイを見たことがあった。
そう、アゾット商会に呼び出されたレイが最初にこの屋敷にやってきた時、門前でレイを追い返した男。
結果として上司にも酷く叱られるという失態を起こしたのだ。
「レ、レイ? え? 何でここにいるんだよ。それもじっと屋敷の方を見ているし……おいおい、騒動はごめんだぞ」
「先輩、どうしたんですか? あの人って深紅のレイですよね?」
「……ああ。以前アゾット商会とは揉めたことがあるんだよ。……最終的には手打ちをして、お互いに関係の修復をした筈だけど……」
言葉を濁す男。
普段であれば問題ないと言い切ることが出来たのだろうが、今のレイはどこか物騒な雰囲気を発しているように思えたからだ。
また、こちらもいつもなら穏やかな愛玩動物と呼ぶに相応しい様子のセトが、鋭い視線で屋敷の方を見ている。
とてもではないが、友好的な態度とは思えない。
だが、門番の男はここで自分から動くような真似をしなかった。
出来ればこのまま、何事もなかったかのように立ち去って欲しい。
そんな思いを抱いた男だったが……残念なことにその願いは叶わず、レイ達はそのまま屋敷の方へ……正確には屋敷に入る為に門の方に近付いてくる。
「……何か御用ですか?」
最初の時とは全く違う、丁寧な言葉遣い。
だが、レイとアゾット商会の関係を考えれば、これは当然だった。
現在アゾット商会の会頭を勤めているガラハトは、レイに強い恩を感じている。
……何だかんだと兄を失脚させたことに色々と思うところはあれど、街を……そして国を裏切るような真似をしていた兄を止めて貰ったのは嬉しいのだが、兄の最期――死んでいないのだが――を思えば多少思うところはあった。
ともあれ、そんな理由からガラハトはレイに対して個人的にも友好関係を結んでいる。
アゾット商会の会頭の友人が尋ねてきたのだから、門番として以前のように追い返す訳にもいかなかった。
ましてや、レイだけではなくセトもいるのだから、力ずくなどという選択肢は一切ない。
「ガラハトはいるか。少し話を聞きたい」
門番に尋ねる声は、自分の中の感情を無理に抑えつけているような声。
それが分かるだけに、初めてレイと会った新人の門番の方も余計な口を利くことは出来ない。
それどころか、何故かレイの側にいるだけで背筋に冷たいものを感じてしまう。
レイの前に立っているだけで、急速に消耗してくような感覚。
「……はい。ガラハト様は今日は屋敷にいます」
「そうか。なら、すぐに面会したいと連絡を取って欲しい。それと、今から誰も……一人の例外もなく、この屋敷から出さないようにと」
「は?」
男は最初レイが何を言っているのか分からなかった。
普通、尋ねた相手に対して……それもアゾット商会の会頭という立場にいる人間に対し、そのような要求を口にするというのは、有り得ないことだからだ。
だが、目の前に立っているレイは大真面目にそれを要求している。
それが分かると、レイの様子から予想はしていたが間違いなく何か大きな面倒事が起きていると、門番の男はそう判断せざるをえなかった。
「分かりました。レイさんの希望に添えるかどうかは分かりませんが、こちらも最大限譲歩させて貰います。……おい、上の人達に話を通してこい」
「はっ、はひっ!」
新人の口から奇妙な声が上がるも、話し掛けた門番の男はそれを責めるつもりはない。
それどころか、気絶しなかっただけでも十分肝が据わっていると、そう思ったからだ。
初めてレイと会うというのに、その時がこんな……怒り狂っているレイだったというのは、あの男にとって災難でしかない。
そう思ったからこそ、新人の男を行かせたのだ。
正直なところ、本来なら自分が真っ先にこの場から消えたかったのだが。
だが、自分も先輩である以上は後輩の面倒を見なければならない。
そんな思いから、屋敷に知らせる様に告げ……新人の男は少しふらつきながらも門の奥へと消えていく。
「それで、一応聞きたいんですが……何かあったんですか? その、アゾット商会とレイさん達が揉めたという話は聞いてないのですが」
恐る恐るといった風に尋ねる門番の男。
少しでも情報を引き出そうという思いからの言葉だったのだが、レイは首を横に振る。
「悪いが、この件はガラハトに直接言う。迂闊に人に言えることではないんでな」
「そ、そうですか」
そう言われれば門番の男も何も口に出来ず……屋敷に行った新人が戻ってくるまで、レイの放つ威圧感に何とか耐えながら、意識を逸らす意味も含めてヴィヘラの美貌と肢体に目を向けるのだった。