1303話
研究室の中に入った瞬間、鉄錆の臭いがレイの嗅覚を刺激する。
普通の人間よりも遙かに鋭い五感を持つレイ。そしてレイより更に鋭い五感を持つセト。
アジモフの家の前で寝転がっているセトだが、普段であればこれだけの血が流れているのならその臭いに気が付いただろう。
レイやセトが血の臭いに気が付かなかった理由、それはアジモフが研究室で使っているマジックアイテムが理由だった。
錬金術で何かを作る場合、成功や失敗に関わらず強烈な悪臭が漂うことがある。
それこそ、家の外……それどころか、この辺り一帯に悪臭が広がる可能性もあった。
いや、実際以前に一度そのような真似をしたことがあり、それを聞いたパミドールにより半ば強制的に消臭のマジックアイテムを作らされたのだ。
その効果は間違いなく一級品であり、事実レイやセトに血の臭いを感じさせるようなことはなかった。
だが、今回はそれが完全に仇となってしまったのだろう。
研究室の中に入ったレイは、目の前に広がる光景に一瞬だけ目を見開くものの、すぐに次の行動に移る。
床の上に広がっている血の量は相当なものだ。
それこそ血の海と表現するのは多少大袈裟かもしれないが、血の川、血の沼、血の湖と表現してもおかしくないくらいには。
まだ血が殆ど渇いていないところから、何者かに攻撃されてから数分と経っていないのだろう。
それこそ、レイ達がアジモフの家にやって来たのと前後するように襲撃が行われた可能性が高かった。
アジモフに近寄りながら、レイはミスティリングの中からポーションを取り出す。
それも、そこらの店で普通に売ってる物ではなく、かなり高品質なポーションだ。
辺境であるが故に、他の街や村よりも大量の金を稼ぐギルムの冒険者でもそう簡単に購入することは出来ない金額の代物だ。
金に困っていないレイだからこそ、買えた代物。
そんな高価なポーションを手にしたレイは、床に伏せているアジモフを仰向けにする。
「私が」
レイの行動よりも一瞬遅れたが、マリーナがアジモフの服を破り、傷口を露わにする。
そこにあったのは、刃で大きく斬られた傷。
服の下にあるアジモフの身体からは、今も血が流れ続けていた。
そんな二人を眺め、ヴィヘラとビューネは周囲の警戒に移る。
傷口と流れている血を見る限り、アジモフが斬られたのはほんの少し前だ。
であれば、まだ犯人がこの近くにいてもおかしくはない。
そしてアジモフの治療をしているレイ達を見れば、それを邪魔する意味で姿を現す可能性は皆無とはいえなかった。
そんな二人がいるからこそ、レイとマリーナはアジモフの治療に専念することが出来る。
マリーナは仰向けにしたアジモフの服を破り、傷口を露わにする。
右肩から左の脇腹に大きく残る傷跡は、今も血を流し続けていた。
それ程の傷を受けたにも関わらず、内臓の類にまで達していないのは運が良かったからか、それとも他に何か理由があるのか。
その正確な理由はレイにも分からなかったが、それでも現在のままでは出血量の多さからそう遠くない内に死ぬのは間違いなかった。
「感謝しろよ」
短く告げると、レイは手に持っていたポーションを意識のないアジモフの傷口に掛けていく。
高い効果を持つポーションだけあって、それこそ傷口は見る間に閉じていった。
その光景は、慣れない者が見ると少しだけ気味悪く思うのではないか……といった速度で、だ。
アジモフの意識が失われていなければ、どんな気分なのかを聞いてみたい。
そんな風にレイが思うことが出来たのは、やはり傷の回復が出来たからだろう。
もっとも、ポーションでは傷を癒やすことは出来ても失った血まで元に戻せるわけではない。
ポーションのおかげで死ぬことはなくなったが、それでも流れ出た血の分、暫くは安静にしておく必要があるだろう。
「敵は?」
レイによるアジモフの治療が一段落したと安堵したマリーナが、敵の襲撃を警戒しているヴィヘラに尋ねる。
だが、返ってきたのは首を横に振るという行為のみだ。
「……そう。どうするの?」
視線を向けられたレイは、難しい顔をして周囲を見回す。
アジモフとはそれなりに親しいレイだったが、それでもこの研究室のどこに何があるのかを完全に把握している訳ではない。
もし研究室から何らかのマジックアイテムが盗まれたのだとしても、元々この部屋にどんなマジックアイテムが置いてあったのかが分からない以上、それを察することは出来ない。
(ん?)
そこまで考え、ふとレイは気が付く。
この部屋のどこにもスレイプニルの靴がないことに。
元々今日はレイが改良の終わったスレイプニルの靴を受け取る為にやってくるというのは分かっていた訳で、そうであればアジモフなら当然のようにスレイプニルの靴の最終確認をしていた筈だろう。
こうしてアジモフがこの研究室で倒れている以上、ここでスレイプニルの靴の最終確認をしていた可能性が非常に高い。
つまり、本来ならここにスレイプニルの靴がなければおかしいのだ。
「ちっ、スレイプニルの靴狙いか!?」
焦燥を滲ませ、レイが叫ぶ。
最初からスレイプニルの靴を狙ってアジモフの家にやって来たのか、それとも他にも幾つかマジックアイテムを奪っていった中に偶然スレイプニルの靴が混ざっていたのか。
そのどちらかは分からないが、とにかく部屋の中にスレイプニルの靴が見当たらないのは確実だった。
もしかしたら最終確認は既に済んでおり、スレイプニルの靴は別の場所にあるという可能性も否定は出来ない。
だが、そんなお気楽な思いに身を委ねておいて、もし本当にスレイプニルの靴が盗まれたのが事実だった場合……その時は後悔してもしたりない。
(けど、どうする? どうやってここから逃げ出した相手を追う? 既に手掛かりは……いや、臭いがある!)
既にここには誰もいないが、誰かがいた以上臭いがあるのは確実だった。
マジックアイテムにより部屋の外に臭いは漏れないようになっているが、それは逆に言えばこの研究室の中にはまだ今回の一件を起こした人物の臭いがあるということになる。
一瞬迷ったが、今は犯人を捕まえるのが最優先だと判断し、叫ぶ。
「セト!」
レイ達がアジモフの家に入っていったのを見届けたセトは、春らしい暖かな日射しを浴びながら寝転がっていた。
いつもであればこうして寝転がっていると誰かが構ってくれるのだが、残念なことに今は誰も近くを通ることはなく、日向ぼっこを楽しむ。
冬の寒さの中……それこそ気温が氷点下になっても、全く気にすることなく眠っていられるセトだったが、それでも暖かな太陽の光を好むのは当然だった。
そうして半ば微睡みの中にいたセトだったが……その鋭い聴覚は、アジモフの家の中から自分を呼ぶ声を聞き逃すことはない。
大好きなレイが自分を呼んでいる。それも、遊びたいといった理由ではなく、何か切羽詰まった様子で。
レイの叫びを理解した瞬間、半ば眠っていた意識は瞬時に覚め、いつもは円らな瞳を鋭くアジモフの家に向ける。
アジモフの家の扉は、セトが入れる程に広くはない。
サイズ変更のスキルがあるが、それでもアジモフの家の中を進める程ではない。
そう考えたセトの行動は、素早かった。
扉から入ることが出来ないのであれば、直接レイが呼んでいる場所に行けばいいと。
そう判断し、立ち上がるとアジモフの家の中ではなく、庭の方へと向かう。
冬が終わり春になっても全く手入れしていなかったのだろう。
荒れ放題になっている庭を一瞬で通りすぎたセトは、そのままレイの声の聞こえてきた研究室の窓の外に到着する。
そして窓を破壊しながら顔を突っ込む。
錬金術の研究をしている部屋ということで、その研究室は当然のように壁や窓は頑丈に作られているし、錬金術を使って強化すらしていた。
だがセトの身体能力に掛かれば、多少強化されていようが何だろうが、全く構わなかった。
自分を呼ぶレイの声には、いつものように柔らかく優しい色ではなく、切羽詰まったものが感じられた。
それこそ、レイに何か身の危険が迫っているのではないかと。
だからこそ、セトもいつもはしないような強引な真似をしたのだろう。
窓を突き破り、半ば強引にセトは研究室の中に入る。
……窓だけではなく、窓枠の周囲の壁も壊されていたのを思えば、被害はかなり大きいのだろうが。
また、そんな風にしてセトが飛び込んできたのだから、当然研究室の中にある資料やら資材やら、それ以外にもレイにはどう使うのかが分からない物が次々と床に落ちる。
だが、当然そんな些細な――レイ達にとっては、だが――ことを気にしているような余裕はない。
窓と壁を壊しながら突入してきたセトに向かい、レイは鋭く叫ぶ。
「セト、この部屋の中で俺達とアジモフ以外の者の臭いがあるのは分かるか?」
「グルゥ……グルルルゥ!」
レイの言葉に、セトは鋭く返事をする。
それが何を意味しているのかは、考えるまでもなく明らかだった。
特に嗅覚上昇のスキルを発動させれば、ただでさえ鋭い嗅覚がより鋭くなるのだから当然だろう。
そしてすぐにセトは部屋の中からレイ達、そしてアジモフ以外の臭いを嗅ぎ取ることに成功する。
「グルルゥ」
セトの視線が向いたのは、丁度自分が突っ込んできた場所の外側……つまり、アジモフを襲った者はこの窓から逃げていったということになる。
(いや、考えてみればそれは当然か。そもそもの話、アジモフが襲われたのと俺達がこの家にやって来たのはそう時間差がない。それこそ、もしかしたら俺が呼び掛けた時にはまだこの研究室に何者かがいた可能性は十分にある)
いきなりの展開に、自分では冷静でいたつもりだったがやはり動揺していたのだろう。
数秒だけ反省し、やがて口を開く。
「俺と……ヴィヘラ、ビューネはセトと後を追う。マリーナはアジモフを安全な場所に運んで、警備兵と……そうだな。パミドールにも連絡をしてくれ」
その言葉にそれぞれが頷き、マリーナは精霊魔法を使って水を生み出し、その上にアジモフを乗せる。
不思議なことに、アジモフが水に沈むようなことはなかった。
本来なら精霊魔法を使えるマリーナは追跡に一緒に来て欲しかったのだが、こちらも追跡に向いている盗賊のビューネを連れていきたい。
だが、レイはビューネの言葉を正確には理解出来なかった。
勿論ある程度なら理解出来るようになっているのだが、それでもやはり急を要することだと考えれば、ビューネと意思疎通の出来るヴィヘラは連れて行きたい。
また、ビューネだけをここに残すようなことになれば、アジモフを運ぶのにも一苦労だというのは分かっていた。
結果として、レイが選択したのがマリーナにここに残って貰うことだった。
つい一時間くらい前までギルドマスターだったということもあり、警備兵に対する信用度の高さもレイやヴィヘラと比べて圧倒的に上だったというのもある。
「アジモフは任せて頂戴。レイ達も気をつけてね。……ヴィヘラ、レイをお願い」
「ええ、任せて」
マリーナとヴィヘラが短く言葉を交わし、レイ達はそれぞれ動き出す。
マリーナは水の精霊魔法で意識を失ったアジモフを連れて研究室を出て行き、レイはヴィヘラとビューネと共にセトが開けた穴から外に出る。
「セト、頼む」
「グルルルゥ!」
レイの呼び掛けに、セトは鋭く鳴き声を上げるとそのまま先程自分が通った道を戻る……のではなく、庭の奥に向かって走り出す。
少し意外に思ったレイだったが、レイ達が来た時にまだ研究室にアジモフを襲った犯人がいたのであれば、それは当然の逃げ道だった。
レイ達から逃げるのに、セトがいる場所に逃げようなどとは普通考えないだろう。
「厄介な相手じゃないといいんだけどな」
「それを言っても仕方がないでしょ。そもそも、こんなことをするんだから自分の腕に余程の自信がある相手よ? でなきゃ、ただの馬鹿か」
「ん」
セトの後を追いながら呟くレイに、ヴィヘラとビューネがそれぞれ答える。
レイとアジモフが親しいというのは、それなりに知られている事実だ。
黄昏の槍の件もあるし、アンブリスの件で錬金術師達が集められた件もある。
それを知っている者であれば、レイと親しいアジモフを襲い……ましてやレイのマジックアイテムを盗み出すような相手がいるというのは、自殺行為のようにヴィヘラには思えた。
異名持ちのレイを怒らせるような真似をするのだから、恐らく何らかの勝算はあるのだろうが、と。
(しかもスレイプニルの靴……レイの戦闘能力を支えるマジックアイテムの一つを盗んだんだから……自殺行為にしか思えないわね。間違いなくレイは途中で諦めるような真似をするとは思えないけど)
そうして考えながら、ヴィヘラはレイとビューネと共にセトの後を追うのだった。