1249話
迷宮都市エグジルに戻っていたビューネがギルムに戻ってきたのは、丁度レイ達がダンジョンへと向かってギルムを発った翌日だった。
エグジルで起きた問題を何とか解決し、ギルムへ戻ってきたのだが……そんなビューネを待っていたのが、ヴィヘラが意識不明になったという情報。
ダンジョンに向かおうかとも考えたのだが、入れ違いになるのではないかという思いや、自分が行っても足手纏いになりかねないと判断し、大人しく夕暮れの小麦亭で待っていた。
そして今日、ヴィヘラを始めとしてエレーナ達が戻ってきたのだ。
「あら、ビューネ。てっきりギルムに戻ってくるのは春になるかと思ってたけど……随分と早かったのね」
「ん」
ヴィヘラの言葉に頷きながらも、ビューネは自分より大分高い位置にある相棒の顔を見る。
相変わらずビューネの表情は殆ど変わっていなかったが、それでも付き合いの長いヴィヘラはビューネが何を言いたいのかを理解したのだろう。そっとビューネの頭を撫でる。
「心配を掛けたようね。私なら大丈夫よ。ほら、どこもおかしくはないでしょう?」
「ん……」
頭を撫でられながらも、ビューネはヴィヘラに少しだけ心配そうな視線を向ける。
瞳の色が以前と違って銀色に変わっていることに気が付くが、それを口にしてもヴィヘラが自分に気を使うだけだと知っていた。
ヴィヘラと付き合いが長いので、それだけにヴィヘラの性格をよく理解しているといったところか。
勿論それはヴィヘラにとっても同様であり、長い付き合いだけにビューネが何を考えているのかというのはよく理解している。
ん、という言葉だけしか使わないビューネだが、その言葉の意味を正確に理解出来るのはヴィヘラだけなのだから。
「ビューネ、元気だったか?」
ヴィヘラとのやり取りに一段落したところで、エレーナがビューネに声を掛ける。
ビューネがお気に入りのエレーナにとって、その姿は馬車の中でヴィヘラに言われたことを多少なりとも忘れさせてくれる存在だった。
また、ビューネもエレーナが自分を可愛がってくれているのは知っているので、エレーナに対して相変わらず表情が動かない状態で頷きを返す。
「ん!」
「そうか、元気だったか。エグジルからギルムまでの距離を考えると、一人で来たのか?」
「ん」
次に出たエレーナの問い掛けには、首が横に振られる。
実際ビューネはエグジルからギルムへと向かうという冒険者と一緒に旅をしてきた。
勿論ビューネの後見人のボスク・シルワが選んだ冒険者だけあって、多少粗野ではあってもビューネに危害を加えるような真似はしない。
意思疎通に多少戸惑いはしたものの、それでも無事にギルムへと到着したのだから、冒険者の技量という意味ではギルムの者達と比べても決して劣っている訳ではなかった。
その冒険者は、既にギルドへと向かって早速何かいい依頼がないのかを探しているのだが。
ある程度の金は持ってきたのだが、エグジルとギルムでは物価も色々と違う。
エグジルでは安い物が高く、高い物は安いといった風に。
その辺りを計算すると、手持ちの資金では冬を越すのが少し微妙といった感じだったのだ。
ビューネはそれを知っていたのだが、特に気にした様子もなく話し掛けられたエレーナの相手をしていた。
「エレーナ様、ここでこのように話をしていては、他の方々の邪魔になります。中に入ってから話した方がいいのでは?」
「うん? ……ああ、なるほど。では、そうしようか。アーラ、馬車の方は……」
「はい、私が宿の者に引き渡しておきますのでご安心下さい。レイ殿、セトも私が」
エレーナがアーラと話している間に、セトの近くへと移動していたビューネがそっとセトの頭を撫でているのを見たレイが、アーラの言葉に頷いて言葉を返す。
「そうか? 任せてしまってもいいなら、任せるけど」
「問題ありません。それより、この時間ですとそろそろ食堂が混んでくる頃だと思いますので、急いだ方がいいかと」
「ん!」
アーラの言葉に素早く返事をしたのは、レイでもエレーナでもなくビューネだった。
元々貧乏な暮らしをしてきたビューネにとって、食事というのは非常に大事なことだった。
ましてや、夕暮れの小麦亭は料理が美味い店としても知られており、食堂は宿泊客以外でも利用出来る。
その料理を食べることが出来ないかもしれないというのは、ビューネにとって絶対に許容出来ないことだった。
「ちょっ、ちょっとビューネ。分かった、分かったから!」
一瞬前までセトを撫でていたのを忘れたかのように、ビューネはヴィヘラを引っ張って食堂へと向かう。
そんなビューネの様子に、レイとエレーナは思わず笑みを浮かべて後を追う。
「ん! ん!」
「ちょっと、ビューネ。そんなに引っ張らなくてもいいでしょ? ほら、大丈夫よ。まだそんなに混んでなんかいないから。ちょっ、レイ、エレーナ!」
助けを求めるような視線を向けてくるヴィヘラだったが、レイとエレーナは特にそれを助けようとは思わずに後を追う。
馬車の中で果実水を飲んだのは事実だが、それで空腹が満たされる訳ではない。
いや、本当に果実水だけを大量に飲めば話はべつかもしれないが、折角食堂があるのにそれを利用しない手はない。
「ガメリオン料理が食いたいな。……銀獅子の肉の件はそろそろ落ち着いてきたみたいだし」
「ん?」
レイの言葉を聞いたビューネが、興味深そうに視線を向ける。
食べ物についてはうるさいビューネだけに、興味が惹かれたのだろう。
銀獅子というのはランクSモンスターとしてある程度は有名であり、特にこのギルム周辺ではダンジョンのボスモンスターとして知られていた。
ビューネはそれを知っているのかいないのか、ともあれ珍しい料理なら自分も食べたい! とレイに向かって上目遣いで見る。
小さい子供を好きな相手であれば、一発でビューネの罠に引っ掛かったかもしれないが、残念ながら――もしくは幸いにも――レイはその上目遣いに引っ掛かるような真似はしない。
……もっとも、レイとビューネでは他の者達のように身長差がないというのも大きいのだろうが。
「また今度な。あの料理は、迂闊な場所で食べると色々と危険だ」
危険? と無表情のまま軽く首を傾げるビューネだったが、そんなレイの言葉にエレーナやヴィヘラも頷きを返しているのを見れば、それを一概には否定出来ない。
事実、美味いという意味ではこれ以上ない程に美味い肉なのだが、美味すぎる為にいつまでも口の中に味が残ってしまい、それ以降は数日ほど何の料理を食べても満足出来ないという弊害がある。
「まぁ、まぁ、まぁ、まぁ!」
レイが銀獅子の肉についての説明をしようとした瞬間、そんな声が聞こえてくる。
聞き覚えのある声にレイがそちらへと視線を向けると、そこにいたのはやはり予想していた人物だった。
この夕暮れの小麦亭の女将で、恰幅のいい体型をしているラナが本当に嬉しそうに驚き、笑みを浮かべてそこにいたのだ。
ラナの視線の先にいるのは、ヴィヘラ。
ヴィヘラが意識不明になった状態の時、病院ではなく夕暮れの小麦亭でヴィヘラが借りている部屋で寝かされていた。
それだけにラナも何度か暇を見つけてはヴィヘラの下へと顔を出していたのだ。
そんなラナにとって、こうして意識のある……それどころか普通に笑って歩き回っているヴィヘラの姿を見れば、今のような状態になってもおかしくはなかった。
ヴィヘラもラナが何故これ程まで嬉しそうにしているのかは理解しているのだろう。こちらもまた笑みを浮かべて口を開く。
「どうやら色々と心配を掛けたみたいね。けど、見ての通り私はもう大丈夫だから、心配しないでちょうだい」
「まぁ、まぁ、まぁ」
驚きと嬉しさからか、ラナの口からはそんな声しか出てこない。
それでも自分の喜びを態度で示したいと思ったのか、ラナは思い切りヴィヘラを抱きしめる。
「良かった……良かったねぇ」
「ええ、レイや他の人達のおかげで、こうして無事に動けるようになったわ」
抱きしめてきたラナの身体を、ヴィヘラは抱き返して肩を軽く叩いてやる。
その仕草がより一層ラナの喜びを刺激したのだろう。最後に力強くヴィヘラを抱きしめてから離すと、満面の笑みを浮かべたまま宣言する。
「よし、今日は私の奢りだよ! 思う存分食べて元気を取り戻しておくれ!」
「いいの?」
そうヴィヘラが尋ねたのは、自分達だけが特別扱いされてもいいのかと、そう思ったからだ。
夕暮れの小麦亭の食堂には、大勢の客がいて入り口で行われた今のやり取りに集中している者も決して少なくはない。
そんな中で自分達にだけ贔屓をしてもいいのかという思いだったのだが、そんなヴィヘラに対してラナは嬉しそうな様子を隠しもしないで口を開く。
「それに、ヴィヘラさん達はずっと長い間この宿を利用してくれているお得意さんなんだから、このくらいは大丈夫ですよ」
少し前の多少馴れ馴れしいともいえる口調からいつもの口調に戻ったラナが、それでも笑みを消しきれずにそう告げる。
それだけヴィヘラが元気になったのが嬉しかったのだろう。
また、レイとヴィヘラが夕暮れの小麦亭のお得意様だというのも、間違いのない事実だ。
この宿はギルムの中でも高級宿に入り、それだけに宿泊料金も普通の宿よりは高い。
そのような宿を、ヴィヘラはレイがいるからという理由でずっと利用しているし、レイはセトの件や食事の件もあってギルムに来てから数年の間ずっと定宿としている。
……また、レイが泊まっているということでセトを見たいという者が来ることもそれなりにあり、そのような者達は殆どが食堂で食事をしていく。
レイとセトがこの宿にもたらした利益は、決して小さなものではない。
それを理解しているからこそ、ラナもこうして奢ろうとしているのだろう。……それでも一番大きな理由は、ヴィヘラが元気になったというのが大きいのだろうが。
「さぁさぁ、テーブルに座って下さいな。飲み物は、レイさんは酒以外の物でいいですよね?」
ラナに追いやられるように、食堂の中でも空いている場所へと案内される。
そうして椅子に座らせられると、すぐに注文を聞く。
「何を食べます? 今日のお勧めは、何と言ってもガメリオン料理ですね。去年と違ってかなり出回っているので、好きなだけ食べても大丈夫ですよ」
ラナの目に笑みが浮かんでレイへと視線を向ける。
その意味は、考えるまでもないだろう。
去年出回ったガメリオンの肉の量が少なかったのはレイが理由だと、そう視線で告げていた。
去年に比べると、今年出回っているガメリオンの肉の量が多いのは、やはり冒険者の中にも去年の件が強く印象に残っているからだろう。
少しでも多くガメリオンの肉を集める為に、頑張っているのは間違いない。
「うーん、そうね。じゃあ、私はガメリオンのシチューを貰えるかしら。それとガメリオンの肉のサンドイッチ」
「では、私はガメリオンのソテーとガメリオンの蒸し肉を」
「ん! ん!」
ヴィヘラとエレーナが注文した後でビューネが自分も、と主張する。
メニューに書いてあるのを次々に指さしていく様子は、本当にそれだけの量を小さな体で食べられるのか? と疑問にすら思う。
だが、ビューネは食べきるのだ。
レイもまた、適当にガメリオン料理をラナに注文する。
「ああ、それとアーラももうすぐ来ると思うから、そちらも適当に頼む」
「はい、かしこまりました。では、少々お待ち下さい」
注文の量に嬉しそうに笑みを浮かべたラナは、そのまま機嫌良く去っていく。
(良い人と言うか、人が良いと言うか……俺にとっては嬉しいんだけど、本当に大丈夫か?)
そんなラナの後ろ姿を見て多少不安に思うレイだったが、当然のようにラナは誰にでもこうして接する訳ではない。
数年ではあっても、それなりに長い間レイと接しているというのが大きい。
エレーナやヴィヘラといった面々との接点はそれ程多くはないが、それでも夕暮れの小麦亭という宿の女将としての経験から、人を見る目というのにはラナも自信があった。
その自信のある眼力でレイを問題なしと判断したのは、ラナの器が大きいのか、それとも人を見る目そのものが普通よりも優しいのか。
だが、レイは色々と問題があるのは事実だが、自分から宿に被害をもたらしたことはない。
……レイを追ってきたチンピラが宿にきたり、宿の裏庭でエルクと戦ったりといった真似はしたが、それはラナにとっては許容範囲なのだろう。
ともあれ、レイはエレーナ達と共にガメリオン料理が来るのを楽しみに待つのだった。