1200話
それは、本来自分の意志というものを持っていなかった。
ただ、そこにいるだけ……この世に生み出された時から、ただひたすらに自分の分身を生み出し、解き放つことしかしていない。
更には、自分の生まれた理由も分からない。……いや、そんなことを考えるような知性すらもなかった。
本当にその存在がやっているのは、本能に命じられるままに動いているだけで、もしその行動原理をレイが知ったらロボットか何かのようだと思ったかもしれない。
だが……そんな行動をしている中で、その存在はふと自分の分身の一つが消えたことを察知する。
それでも自我というものが存在しないので、特に何かあるとも思わなかったが。
それに、生み出した自分の分身の殆どは地面に潜って、常にそれと行動を共にしている。
時々何らかの理由から、それとは別行動をとるようになった個体もあったが、それは特に気にした様子もなく地面に潜ったり空を飛んだりしながら動き回っては分身を作りだし、亜人型のモンスターに遭遇すると本能からリーダー種へと進化させる。
淡々とそんなことばかりを行っていたそれ……アンブリスだったが、その日に限っては違っていた。
唐突に自分の身体の何割かが消滅したのだ。
アンブリスは自我がない故に、人間や生き物といった物を認識は出来るが理解は出来ない。
ゴブリンのような亜人型のモンスターに関しても、別にゴブリンと認識しているから進化させている訳ではなく、自分の中にある本能に命じられるままに行動しているにすぎないのだ。
それは、例えるのならば生まれた時から蜘蛛が巣の張り方を知っているようなもの。
あるいは、生まれたばかりの馬がその場で立ち上がるようなもの。
純粋に本能が命じるままに動いていたのだが……その本能の中には、当然自分が生き延びるというものがある。
そんな本能に従って、自分の身体を消滅させようとする相手に触れないようにする。
ここで、もしアンブリスにもっと明確な自我があれば、自分を消滅させる相手から距離を取る……逃げるという行為をしただろう。
だが、アンブリスの中には自我がなく、ただ場当たり的に行動をするだけだった。
そうして自分の脅威から距離を取ったものの、その脅威はまったく行動を止める様子がなく自分の身体を消滅させていく。
この時点でアンブリスの中には自分でも理解出来ないような、奇妙な感覚が存在していた。
もしアンブリスに自我があれば、その感覚をこう表現していただろう。……恐怖、と。
自分の身体が次々に消滅させられていく恐怖、分離していた存在を吸収しても、それはまるで意味がないと言わんばかりに全てが消えていく。
そして自分を消滅させていく行為を淡々と行っている存在。
それは、まさに恐怖以外の何ものでもなかった。
しかし……自我のないアンブリスには、それが恐怖であるということは分からない。
だが、その何かに突き動かされるように更に自分を消滅させる相手……レイとの距離を広げる。
距離を開けてもアンブリスの中にある不安は消えない、消せない、残っていた。
そしてレイが放った魔法により自分の全てが燃やしつくされるのではないかと、そんな不安に苛まれ……そこでようやくアンブリスは自分が消えるという恐怖を実感した。
自我が芽生えたと言ってもいい。
本来なら魔力異常から生み出された自然現象であるアンブリスには絶対に芽生えない筈のもの。
その自我が芽生え……そして、すぐに理解する。
このままでは自分は何もせずに消滅してしまう、と。
勿論自我が芽生えたといっても、そこまで明確に考えることが出来るような知性がある訳ではない。
それでも自我と自己保存という本能により動かされ、レイの放った強力な魔法による炎で身体を燃やされながらも何とか自分が生き延びる手段を探す。
これもまた、どこをどうするといった明確な思考ではなく、半ば本能に動かされてのものだ。
アンブリスは何とか生き延びる道を探そうとして周囲の様子を探る。
自分を消滅させようとする存在……レイは問題外。少しでも離れたい。
地中に潜ってしまえばレイからは攻撃手段がなかったのだが、そこに考えがいたらなかったのはレイという存在に恐怖を覚えていたからか。
そうなると残っているのは空を飛んでいる存在だったが、魔力異常から生み出されたアンブリスだからこそ、セトとレイの間に存在する魔力を感じることが出来た。
自分の天敵とも呼べるレイと繋がっている存在には触れたくないと考え……最終的に残っているのは、セトの前足にぶら下がっているヴィヘラだけだった。
明確に頭で考えたのではなく、本能に動かされたアンブリスは身体の中に残っていた魔力のほぼ全てを使う。
魔力異常で生み出されたアンブリスが自分の身体を形成している黒い霧……魔力のほぼ全てを使うというのは、半ば自殺行為に近い。
だが、そうしなければこのままレイの魔法により自分は消滅してしまうと理解していたアンブリスは、本能でその魔法を……転移魔法を自分自身に使う。
そして気が付けばアンブリスの最も濃い部分……自我が芽生えた部分はレイの生み出した業火の中から消え去り、目の前にあるのはヴィヘラの姿。
目の前にある存在こそ自分が生き残る為に必要な存在なのだと、そう理解しているアンブリスは、迷うことなくその身体へと沈んでいく。……いや、この場合は融合していくというのが正しいのか。
そう、このままでは死が免れられないと判断したアンブリスが選んだのは、ヴィヘラの中に逃げ込むということだった。
だが……アンブリスにとって唯一にして致命的なまでの誤算は、ヴィヘラという存在そのものだろう。
本来であればそのまま相手の身体を乗っ取るなり、もしくはヴィヘラ自身が気が付かないままにアンブリスとヴィヘラが融合して全く違う存在になっていたか……はたまた、それ以外にもどうにかなっていた可能性はある。
にもかかわらずヴィヘラの体内に染みこむように融合していったアンブリスは、強烈な意識に抵抗された。
本来であれば一瞬にしてその身体と融合する筈だったアンブリスが強固な抵抗を受けたのだ。
そのまま意識の中でお互いがお互いを食らい、浸食し、攻撃し、防御し、拒絶し、飲み込み……言葉にすら出来ないような多種多様な感触でお互いに相手を排除しようとする。
最終的にはお互いの意志が拮抗し……ヴィヘラの意識は失われることになり……そうなれば、当然のように今まで掴んでいたセトの前足から手が離れ、地上へと落下していく。
「ちぃっ! ヴィヘラ!」
アンブリスとの戦いの中で聞こえてきたヴィヘラの悲鳴に、咄嗟に振り向いたレイが見たのは、ヴィヘラがセトの前足から手を離して地上へと落下するという光景だった。
炎帝の紅鎧を使用している状態だった為、ヴィヘラが空から地上へと落ちるのを見た瞬間に動き出しても十分に間に合う。
ヴィヘラが落下する場所へと向かって移動し、そのままなるべく衝撃を殺すようにしてその身体を受け止める。
女の……それもレイよりも高い身長を持つヴィヘラの身体が、高度百m程の位置から落下してきたのだ。
その衝撃は、普通であればとても受け止められるものではない。
それでもレイが特に怪我をせず、そしてさせずに受け止めることが出来たのは、やはり炎帝の紅鎧を発動していたからというのが大きいのだろう。
炎帝の紅鎧の温度をある程度コントロール出来るようになっていたというのも同様に大きい。
ともあれ、落下してきたヴィヘラを無事に受け止めたレイは、そのままそっと地面へと下ろす。
レイが行動している間は、何が起きても大丈夫なようにセトが周囲を警戒していた。
だが、視線の先に残っていた黒い霧……アンブリスの残滓とでも呼ぶべき存在は、以前にレイが倒したアンブリスと同様に次第にその姿が薄くなって消えていく。
「本体のアンブリスが死んだ……いや、消えたから、他のアンブリスも消滅したのか?」
死んだと言い切れなかったのは、やはりアンブリスがヴィヘラの身体の中に消えたからだろう。
亜人型のモンスターをリーダー種に進化させる能力を持ったアンブリスだけに、ヴィヘラの身体の中にいるのであれば何か悪影響があるのではないか。
そう思うも、今のレイに出来ることは……と考え、ミスティリングの中からポーションを取り出す。
世界樹の雫を使って作り上げた、ポーションとしては最高峰の品質を持つそれだ。
アンブリスが体内に入ったことに対して、どう反応するのかはレイにも分からなかった。
そのポーションを飲ませようとし……躊躇する。
ポーションの効果がヴィヘラにいい結果をもたらすのであれば、何も問題はない。
だが、現在ヴィヘラの身体の中にはアンブリスが……それもレイの攻撃によりかなりのダメージを負ったアンブリスの本体とも呼ぶべき存在がいるのだ。
だとすれば、ヴィヘラにポーションを飲ませた場合、そちらにも何らかの良い結果が出るのではないか……そう思ってしまう。
数秒の間考え、持っていたポーションは再びミスティリングへと戻す。
自分だけで判断出来ない以上、マリーナのような者達に聞いてみるのが一番手っ取り早いと判断した為だ。
「セト、悪いけど急いでギルムまで戻って欲しい。一刻も早くヴィヘラをマリーナや医者に診せる必要がある」
「グルゥ!」
レイの言葉に、セトは素早く鳴く。
ここ暫くの間ヴィヘラと一緒に行動していることもあって、セトはヴィヘラに好意的だ。
それだけに、自分が一緒にいるところでアンブリスに襲われて意識不明になってしまうというのは、悔いを覚えて当然だった。
勿論、まさか今まで一切自我のようなものを感じさせなかったアンブリスが、突然転移してヴィヘラの体内に逃げ込むなどといった真似をするとは思っていなかったというのも大きい。
レイに対してアンブリスがとっていた行動は、何か反撃をするといったようなものではなく、距離を置くというものだった。
レイとの距離を取るという意味では、転移という能力を使えるようになったのも不思議ではないのかもしれないが。
とにかく急いでヴィヘラをギルムまで連れていかなければならない。ならないのだが……ここで再び、セトの習性が足を引っ張る。
背中に乗せることが出来るのは、基本的にレイのみ。
子供程度であれば何とか乗せることも可能なのだが、ヴィヘラはとてもではないが子供とは言えない。
意識がなければもしかして? と考え、レイがヴィヘラを横抱きにした状態でセトに乗ったのだが……それでもやはり無理だった。
いや、少しの距離であれば飛ぶことが出来たかもしれないが、ここからギルムまでというのは確実に不可能だったと表現すべきか。
そうして少し考えてレイが出した手段は……
「いつもと違うから、少し違和感があるな」
地上を見ながら呟き、次いで上を見る。
そこにあるのは、セトの腹。
……そう、現在レイは両肩をセトの前足で掴んで貰いながら飛んでいるのだ。
意識を失っているヴィヘラは、横抱きでレイの腕の中にある。
色々と考えた結果こうして運ぶことになったのだが、ヴィヘラはレイに横抱き……いわゆるお姫様抱っこと呼ばれている状態にあるにも関わらず、意識がない為に何の反応もない。
(直接セトにヴィヘラを掴ませれば、怪我をする可能性があるしな)
向こう側が透けて見える程の薄衣に身を包んでいるヴィヘラだ。こうしてレイに抱かれていても、とても高い防御力があるようには見えない。
勿論それは見掛けだけなのだが、それでもレイとしては意識を失っているヴィヘラをそのように運ぶような真似はしたくなかった。
(セトか……今はヴィヘラだけだから、セトの前足に掴まって移動してたけど、それはあくまでもヴィヘラのような身体能力があってこそのことだ。ビューネもそのうちこっちに戻ってくるんだろうし、そうなれば……)
そこまで考え、ビューネはまだ子供だったことを思い出す。
短時間の移動をする場合なら問題はないか……と。
セトの翼を用いての短時間だ。
そう考えれば、それこそ短時間であってもどれだけの距離を移動出来るのかは想像に難くない。
(けど、遠距離を移動する場合のことを考えると、やっぱり何か手段が必要だよな。今回みたいに意識を失った誰かを運ぶ時とかも……だとすれば、籠、とか?)
レイの脳裏を過ぎったのは、木で出来た籠。
その中にヴィヘラやビューネを乗せて、セトに運んで貰うという手法だった。
そんな風に考えながらも、レイは自分の腕の中にいるヴィヘラに心配そうな視線を向ける。
どうでもいいことを考えているのは、ヴィヘラのことを考えると際限なくマイナス思考に陥る為。
それが分かっていて意図して別のことを考えていても、やはりヴィヘラのことはどうしても心配だった。
少し前にアロガン達を追い越したのだが、それにもレイは気が付いていない。
「グルゥ!」
セトの鳴き声に、レイは視線を前方へと向け……そこにギルムの姿を見て、口を開く。
「助けてみせる……絶対にだ」
決意と共に呟かれたレイの声を聞きながら、セトは地面へと降下していくのだった。