1186話
「……消えた、な」
「ええ」
黒い霧が……アンブリスが地中に沈んでいったのを眺め、レイが呟く。
ヴィヘラもそれに同意するように言葉を返す。
アンブリスは、レイやヴィヘラ、セトの存在に全く気が付いた様子もなく、地面へと沈んでいった。
(さっきの様子を見る限りだと、アンブリスに自分の意志があるとは思えないんだが……やっぱりモンスターじゃないのか?)
レイは、自分達の視線の先で何をするでもなく地面に沈んでいったアンブリスの姿を思い出しながら考える。
もしアンブリスに何らかの意志があるのであれば、レイ達の姿に何らかの反応を示してもおかしくはなかった。
だが、実際にアンブリスが見せた反応らしい反応は何もなく、ただ地面に沈んでいっただけだった。
地面に沈んだという行為がレイ達の存在に対する反応だったのかもしれないが、そうでないというのは地面に沈んでいく光景を見て理解出来た。
レイ達の姿を見て、急いで逃げ出す為に地面に沈んだのなら、もっと急いで地面に沈んでも良かった筈なのだ。
しかしアンブリスが特に急いだ様子もないまま、本当に自然体の動きで地面へと沈んでいった。
それを見て、レイ達に対して脅威を抱いた……と思うのは、どう考えても無理がある。
そもそも自意識すらあるかどうか分からない存在である以上、レイ達の存在に気が付いて逃げたと考えるより、元々地中へ沈み込もうとしていたところに偶然レイ達がやってきた……と表現する方が正しいだろう。
「出来ればアンブリスの姿を見つけた瞬間に仕留めたかったんだが……」
「あの状況だと、無理でしょう? アンブリスは基本的に物理攻撃は効かず、魔法を含めて魔力を使った攻撃でなければ効果はない。ただし、魔力異常から生み出された存在だから非常に高い魔法防御力を持っている」
アンブリスを見つけてから、地面に消えるまでの短い間にそれだけの攻撃は出来ないでしょう?
言外にそう告げてくるヴィヘラに、レイが返すことが出来るのは、ただ肩を竦めるだけだった。
(魔力を流したデスサイズや、炎帝の紅鎧を展開していれば何とか出来たかもしれないけど……それが出来たかどうかとなると、ちょっと難しいしな。デスサイズを持った状況なら話は別だっただろうけど)
林の中を歩くのに邪魔だということもあって、デスサイズはミスティリングに収納している。
そこから取り出すのは一瞬で、魔力を流すのも一瞬、距離を詰めるのも一瞬、振り下ろすのも一瞬で出来ただろう。
だが一瞬が四度も続ければ、あのタイミングでアンブリスを仕留めることは出来なかったという確信がレイの中にはある。
「そうだな。どっちかと言えば、浸魔掌を使えるヴィヘラの方が効果的だったんじゃないのか?」
「無理よ。私の浸魔掌は、あくまでも相手の内部に衝撃を通すスキルだもの。アンブリスは、肉体その物がないんだから、威力は大きく削がれるわ。それでも同じようなモンスター……ゴーストとかそういうのであれば、何とか出来るだけの自信はあるけど。マリーナが言ってたくらいの魔法防御をアンブリスが持っているのなら、無理ね」
残念そうに告げるヴィヘラの言葉に、レイは溜息を吐く。
最後にセトへと視線を向けるが、セトの使用出来るスキルの中で最もレベルが高いのは毒の爪だ。
アンブリスに効果があるかどうかは不明だし、それを行う前に地中に潜られてしまう可能性も高い。
「結局アンブリスをどうにかするには、空中にしろ地上にしろ、攻撃出来る場所にいるというのが大前提か」
「そうでしょうね。……ま、ここで逃がしたのは痛いけど、少なくてもアンブリスが黒い霧っていう、マリーナが言ってた通りの姿だったことは確認出来たんだし、何の収穫もなかったって訳じゃないと思うわよ?」
慰めるように告げるヴィヘラだったが、それは間違いのない言葉だ。
ここ暫くのリーダー種による群れの増殖から、いるとは言われていたものの実際にその姿を確認されていなかったアンブリスを直接その目で確認出来たのだ。
これは、間違いなく収穫と言えた。
……もっとも、この初遭遇の場面でアンブリスを倒すことが出来ていれば最善の結果だったのだろうが。
それでも最低限の役目を果たしたのは間違いのない事実だ。
実際、多くの高ランク冒険者がアンブリスの姿を探し回っているにも関わらず、今までその姿を確認出来なかったのだから。
「そうだな、この件はギルドに知らせるとして……出来ればアンブリスが地中移動してどこに向かっているのかを知りたいな」
空や地上を移動するのであれば、その姿を追うのはセトには容易だ。
だが、地中という外から見えない場所を移動されてしまえば、どこに向かったのかを確認することは出来ない。
出来るのは、どこに移動したのかを予想するだけだ。
そして自我のないアンブリスがどこに移動するのかを予想するのは非常に難しい。
それはヴィヘラも理解しているのだろう。美しく整った眉を、微かに顰めて口を開く。
「そうね。後を追えないというのは痛いわね。……一応聞いておくけど、セトの嗅覚でも無理なの?」
非常に鋭い嗅覚を使い、セトはゴブリンの臭いを辿ってここまでやって来た。
そうしてやって来た先にアンブリスの姿があったのだから、もしかしてアンブリスの臭いを追えるのではないか。
そんなヴィヘラの言葉に、嗅覚上昇のレベルが五であれば……と考えるレイだったが、二人の視線を向けられたセトは申し訳なさそうに下を向く。
魔力異常によって生み出されたアンブリスは、魔力そのものが霧になったような姿をしている。
結果として、魔力を感じることが出来る能力を持っているセトもアンブリスの魔力を感じることが出来ないし、霧状の存在だからか臭いというものも存在しない。
いや、普通の霧であれば水の臭いや、その水があった場所の臭いのように色々な臭いがあるので、セトも嗅ぎ分けることが出来るだろう。
だが、アンブリスの場合はやはり魔力異常という要素から、臭いそのものが存在しない無臭の存在なのだ。
「そうか、セトでもやっぱり無理か。……ま、しょうがない。なら、これ以上ここにいても意味はないし、ギルムに戻るか。ギルドに報告すれば、また何か新しい情報があるかもしれないし」
レイの言葉に異論はない……と言うより、これ以上ここで粘っても無意味だと理解しているのか、ヴィヘラはレイの言葉に頷きを返す。
セトも特に異論はないらしく、喉を鳴らして同意する。
「じゃ、行くか」
その言葉で背にレイを乗せ、前足にヴィヘラをぶら下げたセトはギルムへと向かって飛び立つのだった。
「アンブ……」
レイからアンブリスを発見したと聞かされたレノラは思わず叫びそうになるものの、何とか口を押さえることに成功した。
ギルドには午後を回ったばかりだとは思えない程の人数が集まっている。
そして今回の騒動の理由はアンブリスという存在だというのは、既に情報として知れ渡っていた。
当初は物理攻撃が効かず、高い魔法防御力を持っているアンブリスの存在を知らしめることにギルド職員からの反対もあったのだが……人間というのは、未知を恐れる。
全く正体不明の何か……もしくは、理由も何もなくリーダー種が増えているというままにするよりは、非常に強敵――アンブリスに自我のようなものはないのだが――な存在が今回の出来事を起こしているといった方が動揺は広まらないだろうと判断された為だ。
事実、敵の存在がはっきりとしたことで冒険者達の動揺は以前よりも小さくなっている。
……もっとも、アンブリスの居場所を知らせた者には高額の報酬が用意されているという理由もあるが。
それにより、依頼を受けることが出来る高ランク冒険者達はこぞってアンブリスの行方を捜していた。
だが、アンブリスがいるというのは、あくまでもギルド側の予想……もっと正確には、百鬼の谷の件を知ったギルドマスターのマリーナが予想したものにすぎない。
事実、アンブリスの存在が公表されてから今まで一度もその姿を確認されていないこともあって、冒険者の中には今回の件はアンブリスは関係ないのではないかと思っている者もいる。
しかし、今回レイとヴィヘラがアンブリスの姿を確認したことにより、今後その存在を疑問視する者はいなくなるだろう。
ギルムで非常に名前が知られ、異名持ちの高ランク冒険者。
レイの肩書きを考えれば、アンブリスを見たのが出鱈目だと言う者は殆どいない筈だった。
ここで殆どとしたのは、未だにグリフォンという高ランクモンスターがギルムに入って来ているのを面白くなく思っている者がいるというのもあるし、その性格からレイは敵を作りやすいというのもある。
それでもそのような者達は少数派なので、大勢に影響はないのだろうが。
「詳しい話を聞かせて貰ってもいいですか?」
「ああ、それは構わないけど……ここで?」
周囲には大勢の冒険者がいる。
こんな中でアンブリスがどうこうという話をしようものなら、間違いなく周囲の注目を集めるだろう。
ギルドが聞き取り調査をし、しっかりとした情報を得てからではないとアンブリスについての話を広めるのは困る筈だった。
レノラもそれを理解しているのだろう。レイの言葉に即座に頷きを返す。
「二階の会議室で待ってて貰えますか? 上の人を連れていきますので」
「そう言えばそんなのもあったな」
「……レイさん、もしかして忘れてたんですか?」
レイの口から出た言葉に、レノラが溜息と共に呟く。
だが、ここ暫く何か用件があれば二階の会議室ではなく、ギルドマスターのマリーナが使っている執務室に呼ばれることが多かったのだ。
結果として、会議室はあまりレイの意識に昇らなくなっていた。
「とにかく、会議室で待っていて下さい。すぐに向かいますから」
レノラがそう告げ、会議室に連れてくるという上の人間を呼ぶ為にカウンターから離れる。
ケニーが冒険者の相手をしながら、レイの方へと視線を向けていたが……すぐにまた仕事に戻っていく。
そんなケニーの視線には気が付かないまま、レイはヴィヘラと共に会議室へと向かう。
ヴィヘラは当然ケニーの視線に気が付いてはいたのだが、ここで自分が何かを言うのもなんだろうと何も口に出すことはなかった。
ギルドの中にいる冒険者の中でも、目敏い者は二階へと上がっていくレイとヴィヘラの姿に気が付いた者もいた。
何か現在の状況に進展があったのか、それとも別の件で何かあったのか。それを疑問に思うが、それ以上は特に何も口に出したりはせずに二人を見送る。
気になることはあったが、レイに深入りをすれば……ましてや不快な思いをさせればどうなるのかというのは、よく分かっていた為だ。
そんな視線に見送られたレイとヴィヘラは、特に邪魔をされることもないまま、二階にある会議室へと到着する。
当然ながら会議室の中には誰の姿もなく、レイとヴィヘラの二人だけだ。
そのまま会議室の中にある椅子へと座ると、最初に口を開いたのはレイだった。
「どうなると思う?」
「どうなるって? アンブリスの件よね?」
「ああ。一応その姿は確認出来た。出来たけど……問題はあのまま逃がしてしまったことだよな。今回の騒動をどうにかするには、とにかくアンブリスを何とかしないといけない。けど、そのアンブリスを見つけるのは非常に難しい」
「そうね」
ヴィヘラもレイの口から出た言葉に反論はない。
事実、霧状のアンブリスを見つけるというのは酷く困難だ。
臭いでも魔力でも見つけることが出来ない以上、今回自分達が見つけたように偶然接触したばかりの亜人型モンスターがやって来た方を探すか、それこそ偶然遭遇するしかないのだから。
(三百年前のアンブリスも、やっぱり地中に潜ることが出来たのかしら? 百鬼の谷ということは、多分土じゃなくて岩だったんだろうけど)
自分達が見たアンブリスの様子から考えると、それが正しいようにも思える。
だが、その辺りの様子を見たことがある者がいるのであれば、情報が残っていてもいい筈だった。
(だとすれば、やっぱり同じアンブリスでも三百年前のものとは違う、とかかしら?)
情報に残っているだけで、今回が二例目だ。
どうしてもアンブリスという存在そのものに対する情報が足りず、思い込みで考えてしまいそうになる。
「お待たせしました」
「悪いな、今回の件で少し忙しくてな」
そう言い、会議室に入ってきたのはレノラともう一人。
片耳が欠けている、筋肉質の大男。
その人物の名前をレイは当然知っていた。
何故なら、共にオークの集落を襲撃した戦友なのだから。
「ボッブス?」
「おう。今回の件は俺が話を聞かせて貰うことになった」
そう言いながら、ギルド職員にして元ランクB冒険者のボッブスが男臭い笑みを浮かべるのだった。