1151話
ゴーシュを発ってから数日……生憎というか、やはりというか、何度か道に迷いながらも、レイは何とか無事ギルムへと戻ってきていた。
もしレイがセトに乗ってではなく、普通の冒険者と同じように馬車や馬、歩きといった移動方法しかなかった場合、恐らくレイがギルムに戻ってくる頃には既に冬……もしかしたら翌年に持ち越されていたかもしれない。
いや、ソルレイン国の位置を考えると、下手をすれば年単位の時間が掛かった可能性もある。
元々レイは常にトラブルに巻き込まれる体質だ。
おまけに気が強く、売られた喧嘩は買ってしまう性格をしている。
特に盗賊狩りを半ば趣味で行っていることもあり……もしかしたら、レイが通った後には盗賊が全滅している可能性すらあった。
もっとも、それは普通の人間にとっては喜ぶべきことだろうが。
ともあれ、道に迷いやすいレイとセトが無事にギルムに戻ってくることが出来たのは僥倖と言えるだろう。
まだまだ夏真っ盛りといった暑さの中、レイはセトと共に道を歩く。
そうなれば、ドラゴンローブを身に纏っているレイはともかく、セトは非常に目立つ。
そしてセトと一緒にいるのが誰なのかというのは、ギルムの住人であれば誰でも分かっていることだった。
「あ、セト!?」
「え? 本当だ、セトだ。セトがいる!」
「セトちゃん、急にいなくなったから、心配したんだよ? あ、でも多分レイが何かの依頼を受けて、それについていったんだと思ってたけど」
「ふんっ、久しぶりだなセト。取りあえずこれでも食え。……言っておくけど、別にお前の為に用意したんじゃないからな!」
「セトちゃん? うわぁ……何だか随分と久しぶりに見た気がするわね」
そんな声が、瞬く間に周囲へと広がっていく。
そしてセトを撫で、食べ物を与えと、皆が皆セトを甘やかす。
勿論セトに気が付く者はレイにも気が付き……
「お、レイ。商人に追われて逃げ出したんだって? 安心しろよ、あの商人達はもうギルムにいないからよ」
「異名持ちの冒険者にも、勝てない相手がいるんだねぇ」
「私からセトちゃんとの触れ合いの時間を奪い取った罪は万死に値する。だからあんな奴等は追い出されて当然。レイも私に感謝して、もっとセトちゃんとの触れ合いの時間を作るように」
レイに向かってそう声を掛けてくる者も多い。
(セトとの違いは一体何だ)
溜息を吐きながらセトと歩いていたレイは、やがて当然のように顔見知りの屋台で食べ物を買っていく。
ゴーシュに比べると、信じられないほどの過ごしやすさ。
……もっとも、ゴーシュでも簡易エアコンともいえるドラゴンローブを着ていたのだから、レイの体感的には殆ど差がないのだが。
(それにしても、あの商人達は追い出されたのか。ざまあみろって言いたくなるのは、きっと俺だけじゃないよな)
自分にあれだけ群がってきていた商人達だけに、恐らくギルムにいる他の面々にも色々と迷惑を掛けたのだろうというのは、容易に想像出来る。
それだけに、レイとしては気分が清々するというのが正直な気持ちだった。
……ただし、レイがそんないい気分でいられたのも、次の瞬間までとなる。
「あら、レイ。お帰りなさい。私を置いてどこかに旅行に行ってたみたいだけど……随分と楽しめたみたいね?」
そう声を掛けてきたのは、レイもよく知っている相手。
向こう側が透けて見えるような薄衣を身につけ、手甲、足甲を身につけた絶世のという形容詞が似合う美しさと妖艶さを持つ女。
そんな美女が、笑みを浮かべてレイの進行方向に佇んでいた。
もしこれが心からの笑みであれば、レイも笑みを浮かべて目の前の相手と……ヴィヘラと挨拶を交わしただろう。
だが、ヴィヘラの口に浮かんでいるのは笑みであっても、目の中に笑みは存在していない。
そして魅惑的な肢体から溢れているのは、紛れもない怒気。
(これが殺気とかじゃない分だけ、いいんだろうけど)
冒険者ではない者にも、ヴィヘラの身体から溢れる怒気は感じることが出来るのだろう。
レイの周囲にいた者の大半が殆ど言葉も発することが出来ずに黙り込む。
黙り込んだのだが……中には最近ギルムに来たのか、レイやヴィヘラのことを知らない男二人が近くを通りかかり、ヴィヘラへと声を掛ける。
「お、姉ちゃん。色っぽい格好をしてるな。手甲とか足甲をつけているのは残念だけど」
「へぇ、随分とまぁ、……姉ちゃん、どこの娼館の娼婦だ? ああ、幾らになる?」
その二人は、危険を察知する能力があまりに足りていない。
何より致命的だったのは、今のヴィヘラに話し掛けたことだろう。
少し周囲を見れば、ヴィヘラから距離を取っている者は決して少なくない。
だというのに、その男達は全くそれに気が付かずにヴィヘラに話し掛け……その上、ヴィヘラの外見から考えれば仕方がないのだが、娼婦と勘違いしたのだ。
……これがまだ、ヴィヘラの機嫌が悪くない時であれば、少しからかわれる程度で済んだのだろう。
だが、男達にとって不運なことに、今のヴィヘラの機嫌は最悪と言っても良かった。
「触らないでくれる? 残念だけど、私は貴方達程度の人達を相手にしている程、暇じゃないの」
自分の肩に伸ばされた男達の手を避けながら、ヴィヘラの口から冷たい言葉が発せられる。
二人の男は一瞬何を言われたのか分からなかったように唖然としたが……すぐに自分達が馬鹿にされたと思ったのだろう。顔を赤くして怒鳴りつけようとし……
「聞こえなかった? 今は貴方達を相手にしている程、暇じゃないの」
その言葉と共に、いつの間にか……本当にいつの間にか伸びていたヴィヘラの両手が、二人の男の喉を掴んでいた。
喉を潰すような真似をされた訳ではない。
ただ、喉に指が触れているだけだ。
ほっそりとした、とてもではないが格闘を得意とする人物の指とは思えないような、白い指。
それが自分達の喉に触れており……声を発することも出来なくなっている。
いや、指はただ触れているだけなのだから、声を出そうと思えば問題なく出せるだろう。
だが、何故か男達は声を発することが出来なかったのだ。
荒事には殆ど関わったことがない男達だから、理解出来ない。
レイやエレーナといった規格外の存在と、曲がりなりにも戦うことが出来るだけの実力を持ったヴィヘラの力を。
自分を見る目が、情欲から混乱、理解出来ない相手への恐怖へと変わっていったのを見たヴィヘラは、ようやく指を離す。
その瞬間、二人の男達は自分でも理解出来ないままに腰を地面へと落とした。
そんな二人の男を一瞥すると、ヴィヘラは再びレイへと視線を向ける。
……そんなレイの横ではセトが微妙に怖がっているのだが、この光景を見ている周囲の者達にしてみれば、怖がって当然だろうという思いしかなかった。
明確なレイの敵であれば、セトもこのように怖がったりはしない。
だが、残念ながらと言うべきか、今こうしてレイの前に立つヴィヘラは敵ではない。
レイに対しての怒気は存在するが、敵意は存在しないのだ。
だからこそ、こうしてセトはレイを庇うような真似をしていなかった。
そんなセトをそっと撫で、レイはヴィヘラを落ち着かせるように口を開く。
「何にそんなに怒ってるんだ? 勿論俺がお前を連れて行かなかったのは悪いと思うけど、そもそも俺がソルレイン国に向かう時にヴィヘラはいなかっただろ?」
「ええ、そうね。残念ながら、私が帰ってきた時には既にレイがギルムを発ってから数日が過ぎていたわ」
「だろ? あの状況で俺がヴィヘラを待っていられなかったのは事実なんだから、そんなに怒らなくてもいいと思うが?」
「……そうね。これが半ば八つ当たりに近いというのは分かっているのよ? でも、レイだけが砂漠のモンスターと戦うなんて、少しずるくない?」
そこかよ! 周囲でヴィヘラの話を聞いていた者達は、全員が思わず内心で叫ぶ。
てっきり色恋沙汰の揉めごとかとばかり思っていたのだが、まさか自分も砂漠のモンスターと戦いたかったから怒っている……というのは、周囲にいる者達全員にとって完全に予想外だった。
唯一、その中で何故ヴィヘラが怒っていたのかを知っていたのは、ヴィヘラの戦闘欲とでも呼ぶべきものを理解しているレイのみだ。
食欲、睡眠欲、性欲……人間の三大欲求と呼ばれるこの三つの欲求の他に、ヴィヘラは戦闘を求める戦闘欲求とでも呼ぶべきものがあった。
砂漠という、ヴィヘラにとっても殆ど行ったことのない――ダンジョンは別だが――場所に姿を現す、未知のモンスター。
そんなモンスターとの戦いを、どうしようもなかったとはいえ自分が参加出来なかったというのは、ヴィヘラにとっては悲しみ、嘆く……文字通りの意味で悲嘆しか存在しないのだろう。
その胸の中にある複雑な思いをぶつける相手として、レイの姿があった。
「そう言われてもな。まさかああいう事態になるなんて、思いもしなかっただろ?」
レイにも言い分はある。
どこまでもしつこく言い寄ってくる商人を相手にして、ヴィヘラを待っている訳にはいかなかったのだ。
そもそも、ヴィヘラはビューネを連れてエグジルへと里帰りをしていた。
そんな、いつ戻ってくるかも分からないような相手を待っているような真似は出来なかった。
もしそんな真似をしていれば、下手をすると四肢を切断された商人の身体が量産されることになっていたかもしれないのだから。
「それは分かってるんだけど……ね」
レイの口から出た言葉にも理解出来るところがあるためか、ヴィヘラから発せられている怒気が若干だが緩む。
その緩んだ隙に、先程までヴィヘラに絡んでいた二人の男は、腰を抜かしたまま這うようにその場を去っていく。
普通であれば、そんな姿を見れば笑う者もいるだろう。
だが、今この場所に、そんな者は存在しなかった。
「それより、ビューネはどうしたんだ? エグジルでの里帰りは済ませたんだろ?」
「ええ。ただ、少し問題があってね。その揉めごとが片付くまではエグジルに残るそうよ。それが終わったら、またここに来るらしいけど」
「いいのか、それ。エグジルからここまで、結構な距離があるだろ?」
少なくても、ビューネのような子供一人でエグジルからギルムまでやって来るというのは、レイが考えても色々と無理があった。
それはヴィヘラも知っている筈……という思いで視線を向けると、その視線を受け取ったヴィヘラは当然のように頷く。
「大丈夫よ。向こうもしっかりと分かってるから、ビューネだけでこっちに送ることはしないわ。きちんと護衛を雇って来るそうだから」
「なるほど」
そこまでするのか? という思いもあったが、ヴィヘラが言う以上、それは出鱈目の類ではないのだろう。
「それで、砂漠にはどんなモンスターがいたの? せめてそのくらいは教えてくれるわよね?」
「そう、だな。なら、いつまでもここで騒いでる訳にもいかないし……場所を移さないか?」
レイと話している内に、ようやく怒気が収まってきたのだろう。
ヴィヘラはレイの言葉に、周囲を見回しながら考え……やがて頷く。
そもそもレイとヴィヘラが向かい合っているこの場所は、ギルドへと続く大通りだ。
そんな広い道が、レイとヴィヘラのせいで移動するに移動出来なくなっている。
レイとヴィヘラのいる場所を避けるようにして移動は可能だったが、道のど真ん中で二人が向かい合っているのだから、このままでは確実に渋滞になってしまうだろう。
ヴィヘラの怒気が収まってきたこともあり、その渋滞も多少は混雑が解消されているのだが……それはあくまでも多少でしかない。
このままここでヴィヘラと話をしていれば、通行の邪魔をしたとして警備兵が来る可能性もある。
ギルムに帰ってきたばかりで、いきなり警備兵の世話になるのは避けたいというのがレイの正直な気持ちだった。
「それで、どこに行くの? 出来ればきちんと話を聞きたいから、余計な邪魔が入らない場所がいいんだけど」
そう告げるヴィヘラの視線は、先程自分に声を掛けてきた男達が逃げていった方へと向けられている。
ヴィヘラも、自分が男を惹き付けるのは知っているし、その情欲を引き立てる服装をしているのも理解している。
それでも、レイと話をしている……それも未知のモンスターとの戦いについての話を聞くような時に邪魔をされるというのは避けたかった。
「そう、だな。屋台はヴィヘラの要望に合わないだろうし……なら、どこかの食堂にでも入るか? 俺も久しぶりにギルムの料理をしっかり食べたいし」
「グルゥ!」
自分も! と喉を鳴らすセトを撫でたレイが視線を向けると、ヴィヘラは頷きを返す。
「分かったわ、それで妥協しましょう。……レイと二人きりでゆっくりと食事を楽しむというのも魅力的だったんだけどね」
艶然と笑いながら、ヴィヘラは呟くのだった。