1099話
口の中に入ったその食べ物は、薄く焼かれた生地の柔らかな食感と共に肉汁と野菜の歯応えが同時に広がり、少し遅れて生地の中から溢れたソースが自己主張をする。
「美味い、な」
パニータというゴーシュの名物料理に舌鼓を打つレイが呟くと、テーブルの向こう側にいるオウギュストが嬉しそうに笑みを浮かべて口を開く。
「でしょう? 妻の料理は絶品なんですよ。特にパニータは得意料理で、正直毎日食べても飽きない程です」
「やだ、もう。オウギュストったら、大袈裟なんだから」
「ちっとも大袈裟なんかじゃないさ。私はいつでもキャシーの手料理を食べたいと思っているよ。仕事をしている時も、いつでも食べたいと思っているんだ」
「やん。オウギュストったら。仕事の途中でそんなことを考えてるの? 集中しないと駄目でしょ?」
いきなりレイの前で始まったその行為に、レイは溜息を吐く。
(これさえなければな……)
この短時間で既に何度も見せられた行為。
何度見てもうんざりとしてしまう。
だが、ここがオウギュストの家である以上、その行為を咎める訳にもいかない。
レイが出来るのは、ただひたすらその行為が終わるのを待つということだけだった。
幸い今はパニータという美味い料理が目の前にある。
であれば、自分を置いて二人だけの世界に入っているオウギュストとキャシーは放っておいて、食事に専念するのが最善なのは間違いがなかった。
テーブルの上にはパニータ以外にも色々と料理がある。
焼かれた肉、煮物、シチュー。そしてレイにとっては少し信じられなかったが、蒸し魚までもが存在していた。
(……何で砂漠で魚が?)
これが魚の干物であれば、レイも納得しただろう。
元々干物というのは保存食として考え出されたものなのだから、砂漠にあっても不思議ではない。
勿論砂漠まで運んでくるのだから、その値段はとてつもなく高価になるだろう。
それでも干物であれば納得出来たのだ。
だが、今レイの前にあるのは蒸し魚。
干物を蒸したのではなく、生の魚を蒸した料理だった。
最初はゴーシュの名物料理だというパニータに意識を取られていたレイだったが、テーブルの上にそっと置かれた皿を見てしまっては、それを見逃すようなことは出来ない。
(考えられる可能性としては……)
目の前で愛を囁く二人に視線を向け、次にレイは自分の右手首を見る。
そこに嵌まっているのはミスティリング。
ミスティリングの中では腐るといったことはないのだから、生の魚を運んでくることも可能だろう。
事実、レイのミスティリングには以前港街のエモシオンで購入した魚が未だに新鮮なままで入っているのだから。
(けど、俺のミスティリングを見てオウギュストは驚いていた。もしアイテムボックスを持っている者がここにいるのなら、そこまで驚くとは思えない。となると……エレーナが持っていた簡易版か?)
以前見た、エレーナの持っていたアイテムボックスの簡易版を思い出すレイだったが、すぐにそれを否定する。
(簡易版の方は収納こそ出来るものの、中に入れている物は普通に時の流れの影響下にある筈だ。だとすれば、やっぱり簡易版というのは有り得ない。となると、氷の魔法で凍らせて? うーん、でも魔法使いが少ないのに……)
何故ここに魚が……それもレイが見たことがないような魚があるのかというのを疑問に思っていると、そんなレイの姿を疑問に思ったのだろう。オウギュストがキャシーとの愛の語らいを止めて口を開く。
「どうしました、レイさん。不思議そうな顔をして。もしかして何か食べられないものでもありましたか? キャシーの料理は全て美味しいので、苦手な食べ物は誰でも食べられると思うのですが」
オウギュストの言葉に、いやん、もうと言っているキャシーを見ながら、レイは首を横に振る。
「そんなことはない。どの料理も美味く食べさせて貰っている」
レイの口から出たのは、紛れもない事実だった。
オウギュストとキャシーのイチャつきは見ていて胸焼けがしてくるが、この屋敷に向かってくる途中で説明されたキャシーの料理は美味いというのは決して嘘ではない。
それは色々と料理を食べてみたレイも納得せざるを得ないことだった。
「じゃあ、どうしたんです?」
キャシーの料理が口に合わないのかと、少し……少しだけ怒りそうになっていたオウギュストだったが、レイの口調からそうではないと理解したのだろう。落ち着いた様子で尋ねてくる。
そんなオウギュストに、レイは魚の蒸し料理へと視線を向ける。
「この魚の料理がちょっと気になって。何で砂漠なのに、干物とかじゃなく生の魚があるんだ?」
「……ああ、そういうことですか。そう言えばその辺は言ってませんでしたね。普通であればゴーシュのような街で魚が出てくるのを見れば驚くのは当然ですし」
レイの言葉に納得したように頷いたオウギュストは、辛味のあるソースを掛けられた蒸し魚へと取り分け用のフォークを伸ばし、器用に骨から身を外すとソースと共に皿へと移す。
パニータの生地に魚の身を乗せ、巻いてから口の中へと入れる。
(美味そうだな)
パニータは肉と野菜を巻いて食べるものだと説明されていただけに、今のオウギュストの食べ方は少しだけ意外だった。
「この魚は、ゴーシュにあるオアシスから獲れたものなんですよ」
「……オアシスで魚が獲れるのか?」
レイのイメージとしては、オアシスというのはただ湧き水が存在するだけで生き物の類がいるとは思えないというものだった。
それだけに、目の前にある魚の蒸し料理がオアシスで獲れた魚だと聞かされれば驚きを覚える。
「ええ。勿論大量に獲れるという訳ではないです。獲れる量は決まってますし、厳重に管理されていますが。それでもオアシスで魚が獲れるというのは、非常に嬉しいことです」
「……生きられるのか? いや、こうして獲れている以上、きちんと育ってるんだろうが……」
「ええ。いつからオアシスに魚が育っているのかは、私にも分かりません。私が物心ついた時には既に魚はいましたから。ですが、この魚はゴーシュに住む者にとっては非常に稀少な代物なのです」
「だろうな」
レイが日本にいる時にTVで見たのは、砂漠で住んでいる人物に生きている魚を見せるという番組だった。
それが何なのか理解出来ないと、砂漠に住んでいる者達は恐怖すら覚えていたのだ。
砂漠に生まれた以上、それは当然と言えたが……それだけに、レイの目から見てもどこか奇妙に感じていた。
「オウギュストのお客さんが来るんですもの。ご馳走を用意するのは当然でしょう? ……喜んで貰えたかしら?」
笑みを浮かべつつ尋ねてくるキャシーに、レイは笑みを浮かべて頷きを返す。
実際魚料理が出て来たことには驚いたレイだったが、それを含めて出て来た料理の味は間違いなく美味いのだ。
これで文句など出る筈もなかった。
キャシーも、レイがお世辞の類ではなく本気で美味いと言っているのが分かったのだろう。笑みを浮かべてオウギュストの方へと視線を向け……
(このままだとまた始まる)
目の前でまた先程の光景が繰り返されるのかと思うと、レイもたまったものではない。
それを何とか阻止しようと、視線を周囲に巡らせ……料理を見た瞬間に現在の状態で最善と思われる行動を取る。
「美味い料理のお礼に、これを食べてみてくれないか?」
そう言ってミスティリングから取り出されたのは、小さめの鍋。
その鍋から周囲に漂う匂いは、食欲を掻き立てるものだ。
香辛料や調味料の違いから、オウギュストやキャシーは嗅いだことのない匂いではあったが、それでも食欲を掻き立てる匂いであるのは間違いない。
キャシーはレイがどこからこの鍋を取り出したのかという疑問を抱くも、その夫のオウギュストはレイがアイテムボックスを持っているのを知っている。
それ故にそこまで驚くことはなく、そんなオウギュストの姿を見たキャシーも驚いてはいても表情には出さない。
「砂漠にはいないモンスターの肉だ。……冬って分かるか?」
「ええ、聞いたことはあります。ここは一年中同じ天気で、数年に一度雨が降るくらいですから」
そのくらいしか雨が降らないのに、よく生きて行けるなと思うレイだったが、それだけゴーシュのオアシスは豊かだということなのだと判断すると説明を続ける。
「ガメリオンって冬にしか出ないモンスターがいるんだが、その肉は非常に美味で冬の名物でもある。それを使った料理だ」
「ガメリオン、ですか? 以前他の商人から聞いたことがありますね。何でも巨大で狂暴なモンスターだとか」
「そんな感じだな」
ガメリオンの耳は刃の如く鋭く、牙は安普請の鎧であれば噛み砕く。身体が大きいので、体当たりされただけでも致命的な威力を発揮し、何よりウサギのモンスターということで非常に高い脚力を持っている。
動きは素早く、蹴りの威力も非常に高い。
冒険者になったばかりの者がガメリオンと遭遇した場合、余程の幸運がなければ生き残ることは出来ないだろう。
ガメリオンというのは、それ程の相手なのだ。
レイの口から語られたガメリオンの説明に、オウギュストとキャシーの二人は頬を引き攣らせる。
それだけの凶悪なモンスターを、何故わざわざ倒すのかと。
二人の表情からその疑問を読み取ったレイは、ガメリオンのシチューを近くの皿へとよそう。
……本来であれば、このような真似はメイドがやってくれる。
だが、今のオウギュストには常時メイドを雇うだけの金銭的な余裕はない。
そういう意味では門番のギュンターを雇うのも厳しいのだが、ギュンターは元々オウギュストの父親に命を……それも一度だけではなく二度、三度と助けられたことがあり、それを恩に感じている。
だからこそ安い報酬で門番を引き受けているし、何よりエレーマ商会と……ダリドラと敵対している今の状況でこの屋敷にキャシーだけを残しておくことは出来ない。
特に今回は街の外ではあっても、エレーマ商会に雇われただろう砂賊による襲撃すらあった。
そういう意味では、レイを屋敷で寝泊まりさせるというのはこれ以上ない護衛を雇ったと言えるのだろうが。
ともあれ、レイが取り分けたガメリオンのシチューに、オウギュストとキャシーの二人は恐る恐るではあるが、スプーンを伸ばす。
ガメリオンがどれだけ狂暴なモンスターなのかを説明されたのだから、このような態度になってしまうのも当然なのだろう。
そっとスプーンでガメリオンの肉をすくい、スープと共に口へと含む。
瞬間、これまで味わったことのない衝撃が口の中を走り回った。
濃厚でいて複数の野菜を材料が溶けてなくなるまで煮込んだスープ。
柔らかく、煮込んでいるというのに噛むと口の中一杯に肉汁が広がる。
それでいて肉本来の噛み応えはきちんと残っており、噛むごとにスープと味が組み合わさっていつまでも味わっていたい気持ちにさせられてしまう。
溶けてスープになった野菜の他に、しっかりと具としての野菜もシチューの中には入っており、肉一辺倒だけではなく口直しも可能だ。
一口食べて動きを止めたオウギュストとキャシーの二人は、やがて我に返ると口の中に入っていたものを飲み込み、二口目、三口目……といった具合に、次々とシチューへとスプーンを伸ばす。
そのまま数分、皿に盛ったシチューが全てなくなったのを確認すると、レイは嬉しそうに笑みを浮かべて口を開く。
「おかわり、いるか?」
無言で頷く二人に、シチューを入れてやる。
自分が好きな食べ物を言葉も出ない程に喜んで食べて貰えるというのは非常に嬉しいものであり、それは当然レイも同様だった。
「パニータも美味いけど、ガメリオンの肉も負けてないだろ?」
「そうですね。味で言えば決してパニータも負けていません。特にキャシーが作ってくれたパニータはゴーシュの中でも最高峰の味ですから。ですが……この肉は初めて食べる肉ですし、シチューに使われている調味料も私が知らない物が多いです」
「そうね。多分このガメリオンの肉というのはかなり肉汁が多いんでしょうけど、それを口の中でさっぱりさせる調味料は私も知りたいわ」
オウギュストは新たな調味料に商売の種を見つけたといった表情を浮かべ、キャシーの方は純粋に愛するオウギュストにもっと美味い料理を食べさせたいとレイに視線を向けてくる。
だが……残念ながら、それにレイが返したのは首を横に振るという行為だ。
「残念だけど、俺がこの料理を作ってる訳じゃなくて、出来ている料理を買ってるんだ。どうやって作ってるのかというのは知らないよ」
「……じゃあ、このガメリオンというモンスターのお肉は?」
「そっちならまだ多少余裕はあるけど」
多少と口にしているレイだったが、ミスティリングの中には多少どころではないガメリオンの肉が入っている。
去年の冬にダンジョンで虐殺と表現してもいい程に殺しまくったガメリオンの肉だ。
「よければ、すこし貰えないかしら?」
「ああ、宿泊費代わりにそのくらいなら」
そう答え、レイはキャシーへと一kg程のガメリオンの肉を渡すのだった。