1066話
蝉の蛹の背に裂け目が入って羽化が完了しようとも、デスサイズの一撃が命中すれば大きなダメージを与えることが出来る。
また、完全に羽化が完了する前の蛹の状態であれば、羽化前に強力な一撃を与えることで仕留めることが出来るかもしれない。
そんな考えがレイの脳裏を過ぎる。
蛹を守るように障壁の結界が姿を現すが、次の瞬間にはデスサイズの一撃によりあっさりと破壊される。
ガラスを割る時のような音が周囲に響き、同時に濡れた紙が破ける時のように障壁の結界が斬り裂かれ、消えていく。
飛斬ですら防いだ障壁の結界だったが、デスサイズの一撃には全く敵わなかった。
障壁の結界を斬り裂いた一撃の勢いをそのままに、デスサイズの刃は真っ直ぐに脱皮しつつある巨大蝉へと向かって行き……
ふわり、とした暖かい何かがレイを包み込んだ瞬間、ふと気が付けば何故かレイは青空を見上げていた。
「……なん、だ?」
何が起きた? 自分に何が起きたのか全く分からない。
ただ分かるのは、自分が何故か地面に寝ていること。
完全に記憶が飛んでいる中で起き上がろうとすると、身体中に痛みが走る。
「痛っ!」
久しぶりに感じる痛みに怪我をしたのかと驚くも、ドラゴンローブは特に破けたりはしていない。
だが、何かが流れるような感触を覚えて頬へと手をやると、そこにあるのは何か濡れた感触。
その何かを拭って手を目の前に持ってきてみると、そこにはレイの異名の深紅と呼ぶのに相応しい赤い色の液体。
「……血?」
そう、間違いなくレイの指についているのは血だった。
「グルルルルゥ」
そんなレイのすぐ近くで、セトの鳴き声が聞こえる。
いや、すぐ近くではない。レイの身体の下になっているのだ。
そして光球もレイを心配するように真っ直ぐ飛んでくると、激しく明滅する。
「何が起こったんだ?」
呟きながら立ち上がったレイだったが、身体全体が痛むのに眉を顰める。
どこか一ヶ所が痛むのではなく、身体全体が満遍なく痛むのだ。
どのような攻撃をされればこうなるのかが理解出来ないまま立ち上がり、世界樹の方へと視線を向けたレイは驚きの目を見開く。
そこに広がっていたのが、完全に予想外の光景だった為だ。
世界樹を中心にして、全方位へと向かって衝撃が……それこそ爆発でもあったのではないかと思われる光景。
地面から生えている草が外側へと倒れていた。
「攻撃、されたのか?」
「グルゥ」
レイの呟きに同意するようにセトが喉を鳴らす。
改めてレイがセトへと視線を向けるが、そこにはレイと同じく何ヶ所か傷を負ったセトの姿があった。
胴体には傷がなく、手足といった末端部分に多くの傷が……切り傷が存在している。
レイの一撃の後に追撃を仕掛ける為、後ろにいたのが幸いした形だろう。
「痛っ!」
身体を少しでも動かせば、微かな痛みに襲われる。
とても致命傷と呼べる程の痛みではないが、身体中が満遍なく痛むのだ。
「何だ、どんな攻撃を食らった?」
攻撃を食らった瞬間のことは全く覚えていない。
レイの身体を暖かい何かが一瞬フワリと包んだかと思った次の瞬間にはこうして吹き飛ばされていたのだから。
その痛みを我慢し、レイの視線が改めて世界樹へと……その幹へと向けられる。
自分を吹き飛ばし、更には数秒程度なのだろうが気絶させるような真似をしておきながら、何故追撃を仕掛けなかったのかと。
一瞬自分を敵とすら思っていないのではないかと思ったレイだったが、それならそもそも障壁の結界で攻撃を防いだり、何らかの手段を使って攻撃をしたりはしないだろうという思いもある。
だが、世界樹には未だに巨大蝉の蛹がしがみついており、背の割れ目から巨大蝉の本体が姿を現そうとしているのを見れば、追撃をしなかったのではなく、出来なかったのではないかと思う。
(まだ脱皮が完了していない? じゃあ、さっきの攻撃は何だったんだ? ……爆発? いや、それにしては俺に火傷の跡はない。ドラゴンローブに覆われている場所はともかく、顔とかにも一切火傷がないってのは妙だ)
火傷の代わりに頬にあるのは斬り傷。
それ以外の身体全体にあるのは斬り傷ではなく打撲。
(本当にどんな攻撃をされたんだ?)
同じ攻撃をされたのに、受けたダメージの質が違いすぎるということにレイは混乱しつつも改めてデスサイズを握る。
敵の攻撃方法は全くの正体不明だった。それでもこのまま様子見をしているという訳にはいかない。
レイが気を失う前と比べても世界樹の葉の枯れている部分は多くなっており、明らかに世界樹は弱まっている。
このまま大人しく巨大蝉の羽化を待っているようでは、世界樹がどうなるのかというのは明白だった。
「やるしかない、か」
敵がどのような攻撃をしてきたのかは全く分からなかったが、それでもレイの中にこのまま蛹の羽化を待つという選択肢はない。
「それに、あれだけのモンスターだ。魔石があれば確実にスキルの習得が出来るだろうしな。ここで見逃す手はないだろ」
デスサイズを手に、レイは立ち上がる。
未だに身体中から鈍い痛みが微かに感じられるが、その程度の痛みであれば強引に無視するのは難しくはない。
戦闘になれば、その興奮や緊張といったもので痛みを感じなくもなるだろう。
「取りあえず、向こうがどんな攻撃をしてきたのか理解する必要があるから……マジックシールド」
その言葉と共に、レイの近くに光の盾が生み出される。
一度だけではあるが攻撃を防いでくれるマジックシールドがあれば、先程食らった正体不明の攻撃であっても防いでくれるだろう。
そんなレイの思惑を受けての防御方法だった。
「セト、悪いけど今回は遠距離からの援護に徹してくれ。向こうがどんな攻撃手段を使ったのか分からない以上、迂闊に近くにセトがいれば、また巻き込んでしまう可能性がある」
「グルゥ……」
レイの声に、セトは心配そうに喉を鳴らす。
先程の攻撃がどのような攻撃なのかはセトもしっかりと理解している訳ではない。
だが、それでもレイや自分がいつ攻撃されたのかも分からずに吹き飛ばされるような攻撃なのだから、尋常な攻撃ではないのは明らかだ。
そんなセトの頭を、レイはそっと撫でる。
「大丈夫だって。今まで俺が戦いで負けたことがあったか?」
「グルルルゥ!」
セトは首を横に振る。
事実、今までレイが明確なまでに戦いで負けたということは、セトの記憶にはない。
勝利を譲られたという戦いはあったが、それでも途中までは互角に戦っていたのだから。
戦えば勝つ。それがレイのこれまでの戦績だった。
「だろ? なら、今回だって大丈夫だ。任せておけって。それに……時間はあまり残ってないみたいだし」
世界樹に抱きついている蛹の背は既に完全に開かれており、脱皮が完了するまでの時間はもう決して多くは残っていない。
そうである以上、ここで必要なのは巧遅よりも拙速だった。
(欲を言えば巧速がベストなんだろうけどな)
マジックシールドを動かしながら内心で呟き、次に光球のほうへと視線を向ける。
そこにある光球は、レイの視線を受けて明滅する。
何を言いたいのかは全く理解出来なかったレイだが、それでも先程と比べて光球の明るさが減ってきているのは事実だ。
そちらの面でも、今は少しでも早く巨大蝉から世界樹を解放する必要があった。
「お前もセトと一緒に少し離れてろよ。戦いに巻き込まれても知らないぞ」
光球はレイの言葉に頷くかのように、何度か短く明滅する。
(ちっ、予想以上に弱ってるな。……となると、出来るだけ早くあの蛹をどうにかする必要があるか)
時間があまりないというのは、レイにもしっかりと分かった。
こうしている今も、巨大蝉は世界樹から魔力や樹液といったものを吸収しているのだから。
「けど、俺が……このままやられっぱなしで、世界樹を見殺しにするような真似をする訳には、いかないだろ!」
地面を蹴って、真っ直ぐに世界樹との……その幹にしがみついている巨大蝉との距離を縮めていく。
デスサイズには先程と同様……否、それ以上の魔力が流されており、その威力はより強力となっている。
「はあぁぁぁぁあっ!」
スレイプニルの靴を起動し、一歩、二歩と空中を駆け上がって行く。
そのままデスサイズを振るい、殆ど手応えすら感じさせずに障壁の結界を斬り裂く。
ここまでは先程と同じで、何も問題はない。
(ここからだ!)
内心で叫ぶのと、羽化が完了寸前の……背中の裂け目から本体を現しつつある巨大蝉が攻撃を開始するのは殆ど同時だった。
何か甲高い音が一瞬だけ聞こえたような気がすると、次の瞬間にはマジックシールドが光の粒となって消えていく。
そして再び世界樹を中心にして、周囲一帯に攻撃が行われる。
マジックシールドが消えたのと周囲に行われた攻撃を見て、レイはようやく自分がどんな攻撃を食らったのかを本能的に理解する。
「超音波の類か!」
勿論純粋な超音波という訳ではない。
二十mの全長を持つ巨大蝉型のモンスター……それも、人外と呼ばれるだけの魔力を持つレイの魔力や世界樹の樹液を吸収して成長した相手だ。
放たれる超音波の類も当然普通の超音波という訳ではなく、魔力によって強化されているのだろう。
そんな無数の音の刃とも呼べる攻撃だったが、ドラゴンローブを斬り裂くことは出来なかった。
だがそれでも、ドラゴンローブを身に纏っているレイの身体に衝撃は伝わる。
これが、レイの身体に全身満遍なく衝撃を与えた攻撃の正体。
「けど、種が割れればその程度の攻撃、どうということはない!」
先程はデスサイズを振り下ろすよりも前に超音波による全周囲攻撃を食らってレイは吹き飛ばされた。
だが、今回はマジックシールドのおかげでその攻撃を凌ぐことには成功している。
つまり、レイの放つデスサイズの一撃を防ぐことは、巨大蝉には不可能だった。……そう、不可能だった筈なのだ。
しかし振り下ろされたデスサイズは、蛹を斬り裂く手応えをレイの手に与えはしなかった。
それどころか、激しい金属音が周囲に響き渡る。
「なっ!?」
目の前に広がっている光景に、レイは大きく目を見開く。
本来であれば蛹を……または成虫になったばかりの柔らかいだろう巨大蝉を斬り裂いていた筈のデスサイズの一撃が、蛹の内部から伸びている何かに防がれていたからだ。
見る者が見れば、それが何なのかはすぐに分かっただろう。
レイもまた、日本にいる時には何度となく見たことがあるから、それが何なのかを知っていた。それは即ち……
「巨大蝉の、足?」
そう、間違いなくデスサイズを受け止めていたのは巨大蝉の足だった。
脱皮したばかりの足であるにも関わらず、弱さや柔らかさといったものは一切存在せずにデスサイズを受け止めたのだ。
そしてこの巨大蝉はモンスターであり、通常の蝉ですらないモンスターの足は一本ではなく……
「ちぃっ!」
蛹から飛び出すようにして放たれた一撃に、レイは最初の足に受け止められたデスサイズはそのままに、石突きを足へと突き出す。
「ペネトレイト!」
石突きに風を纏わせ、突きの威力を上げるスキル。
そんな一撃ではあったが、魔力を流されたデスサイズの一撃を封じる足に通用する筈もなく、再び周囲に激しい金属音が響く。
(生き物の足とぶつかって金属音がするってのは、どうなんだよ!)
今までにもデスサイズを防いだ敵はいた。
だが、脱皮したての足を使って防ぐ……というのは、レイにとっても初めての経験だった。
ペネトレイトが弾かれた勢いを利用して巨大蝉との距離を取るレイ。
それでも地面に着地した瞬間には再び前へと進み出る。
まだ完全に脱皮が完了した訳ではないのだが、それでもレイの一撃を防ぐだけの力を持っているのだ。
このまま完全に脱皮を終わらせられてしまえば、間違いなく自分にとって……そしてこの集落にとって大きな脅威となる。
それを理解しているからこその前進だった。
「セト、援護を!」
「グルルルルルゥ!」
レイの言葉にすぐに戻ってくる叫び。
同時に背後からは風や氷の矢といったものが幾つも飛んでくる。
レイの速度を理解し、その上で当たらないように放つのはレイの相棒であるセトならではだろう。
だが……そんな無数の攻撃も、不意に蛹の中から姿を現した透明の何か……羽根に命中するとあらぬ方へと逸らされていく。
「厄介な真似を!」
叫びながら間合いを詰め終わったレイは再びデスサイズを振るうが、羽根が素早く震えると同時に周囲に突風が吹きすさぶ。
空中にいたレイがその突風に抗える筈もなく、吹き飛ばされる。
ダメージそのものはないが、再び巨大蝉との距離を空けられてしまい……その距離は絶望的なまでに大きなものだった。
そう、レイが地面に着地して吹き飛ばされた勢いを殺した時、巨大蝉はとうとう蛹から完全に姿を現したのだ。