1050話
「ふーん。……で、結局世界樹の件はまだ解決していなかった、って認識でいいのね?」
エレーナ達が借りている家の、庭。
そこに広げられたテーブルの上にある朝食を食べながら、ヴィヘラが呟く。
現在この庭には、今回の件に関わっている全員が集まっていた。
レイの相棒であるセトの姿もあるのだが、少しいじけたように尻尾を振っているのはレイが世界樹へと向かう時にセトを置いて行ったからだろう。
当然セトもラグドが自分達の家に近づいてくるのは察知していたし、レイがそのラグドと話していたのも理解していた。
だが、まさか自分を置いて世界樹の下へと移動するとは思っても見なかったのだ。
てっきり自分を迎えに来るものだとばかり思っていただけに、置いていかれたセトはその不満を態度に表している。
レイはそんなセトの方を一瞥し、テーブルの上にある皿からサンドイッチを数個手に取ると、話し掛けてきたヴィヘラへと頷きを返す。
「ああ。何が原因なのかはまだ分からないが、それでもああやって世界樹が再び弱まってしまった以上、依頼された俺が何とかするしかないだろ。……まぁ、本当にどうしようもなくなったら、最悪何ヶ月かに一度この集落にやってきて世界樹を回復させるってことになるかもしれないけど」
そう言いながら、レイとしては出来ればそれは避けたい選択肢だった。
セトの飛行速度を考えればギルムからこの集落までやって来るのはそれ程苦労はしない。
それでも何ヶ月かに一度定期的にやって来るというのは面倒だったし、何より世界樹の結界の中に入るにはダークエルフと一緒でなければいけないという縛りもある。
セトに乗れるのは基本的にはレイだけであり、頑張れば子供が何とか……といったところだ。
つまりレイと気心の知れているダークエルフのマリーナを連れてくることも出来ず、毎回この集落のダークエルフに招いて貰う必要があった。
(まさか、強引に結界を突破する訳にもいかないだろうし)
世界樹の治療を引き受けた自分が、その世界樹に対して危害を加えるのは本末転倒でしかない。
(それに何より……)
レイの憂いを、マリーナが口に出す。
「そうね。世界樹の回復をするだけなら、レイに魔力を注いで貰えれば回復は難しくないわ。けど、レイの魔力は強すぎるのよ。弱っている世界樹にとって、全快と消耗を繰り返すというのがどれだけ負担になるのかは考えれば分かるでしょう?」
「……なるほど」
野菜のスープを飲んでいたエレーナが、納得して頷く。
ただでさえ弱っている世界樹だけにそんな真似をすれば、寧ろ寿命を縮めるようなことになるのは間違いない。
「ほら、セト。置いて行ったのは悪かったけど、これでも食って機嫌を直してくれ」
テーブルの方で会話をしているのを聞きながら、レイはセトへとサンドイッチを手に近づいて行く。
「グルゥ……」
だが、セトはそんなレイの言葉にふて寝をするように顔を背ける。
それでいながら尻尾はレイの様子を気にしているのを示しており、周囲を動き回っている。
軽く地面を叩く音が周囲に響き、それがまるで自分に構ってと態度で示しているようにレイには思えた。
普通であれば不機嫌なグリフォンを相手に近づきたいと思う者は少ないだろう。
しかし、レイは違っていた。
そんなセトに、レイは特に恐れる様子もなく近づいて行ったのだ。
(おいおい、本気かよ? 相手はグリフォンだろ? 幾ら従魔だっていっても、危険じゃないか?)
常日頃からポロによる電撃を食らっているアースは、レイの様子をただ見守ることしか出来なかった。
アースが意外だったのは、誰もがそんなレイに対して心配そうな視線を向けていないことか。
もしかしたらレイがセトに襲われるかもしれないというのに、と疑問に思う。
今まで話した経験から考えると、エレーナとヴィヘラの二人は間違いなくレイに対して好意を抱いている筈だった。
マリーナがどう思っているのかは、男女関係に疎いアースにはよく分からなかったが。
逆に言えば、そんなアースから見てもレイに対して好意を露わにしている二人が、何故危険かもしれないセトをそのままにしておくのかと。
それでも口に出さなかったのは、自分が部外者だと理解していた為だ。
元々アースは森の異変を調べる為にやってきただけであり、今話されているような世界樹の治療云々という話には全く関わっていない。
人間関係にしても、自分が迂闊に口を出せば妙なことになるかもしれないという予想があった。
(けど、世界樹の治療か。異名持ちのランクB冒険者ともなれば、大きな仕事をやるんだな。……俺もいつか、きっと……)
自分の目標に向かっての道のりの遠さに少しだけレイを羨ましく思いながらも、取りあえず他の皆が心配していないようであれば問題はないだろうと判断し、マリーナ達の話に耳を傾ける。
そんな風に思われているとも知らないレイは、そっとサンドイッチをセトの近くへと置く。
パシーン、と。尻尾が地面を叩いた音が響く。
態度では不満を表していても、内心ではサンドイッチに興味津々なのは間違いなかった。
レイもそれは分かっているのだが、大事な相棒であるセトが自分を置いて行ったことに怒っているというのは理解していた為、どうしてもそれを放っておくことは出来ない。
「ほら、機嫌を直してくれよ。な?」
「グルゥ……」
レイの言葉に、セトは猫が眠る時のように丸くなって視線を逸らす。
……それでも尻尾で地面を叩くのは続けているので、無理をしているというのは明らかだったのだが。
「ほら、ごめんって」
そっと手を伸ばし、セトの背を撫でる。
パシンッと、セトの尻尾がレイの手を弾くように叩くが、その勢いは決して強いものではない。
もしセトが本気であれば、骨を折る……とまではいかないが、それでも十分な痛みをレイへと与えていただろう。
それがないのは、やはりレイと仲直りしたいという思いがあるからか。
「グルルゥ……」
丸まった状態でそっと喉を鳴らすセト。
手を尻尾で軽く叩かれたレイだったが、それにも構わず撫で続ける。
撫でられる感触が気持ちいいのか次第にセトの身体からは力が抜けていき、頻繁に動いていた尻尾もやがてその勢いが弱くなっていく。
そうして丸まった状態からそっと顔を上げてレイの方へと視線を向け、レイと視線が交わるとすぐに下を向く。
そんなことを何度か繰り返し……その間もレイはセトを撫で続けており、セトの顔を上げ下げする間隔が短くなっていった。
数分後……セトは完全にレイへと頭を預けていた。
「グルルルゥ、グルルルゥ……」
レイの撫でる感触に気持ちよさそうに喉を鳴らすセト。
その姿を見て、ランクAモンスターだから危険だと思う者がどれ程いるだろうか?
そんなセトを撫でながら、レイは口を開く。
「置いていってごめんな?」
「グルゥ!」
もう気にしてないよ! と喉を鳴らすセト。
少し前までの機嫌の悪さはどこにいったのか、今はレイにもっともっとと撫でて欲しがっていた。
「はいはい、仲直りしたらこっちに戻ってきなさい。そろそろ今日これからどうするかをきちんと話し合うわよ」
マリーナの声に、レイとセトは座っていた場所から立ち上がり、テーブルの方へと移動していく。
その様子を見ていたアースは、レイとセトの関係にただ唖然とするしかなかった。
(グリフォンをこうまで手玉に取るなんて……凄いな。あの撫でる技術か?)
自分はいつもポロに電撃を食らっているだけに、レイがセトをあっという間に宥めたという光景は羨ましいものがあった。
出来れば自分もレイと同じように撫でる技術が欲しい。
アースがそう思っても仕方のないことだろう。
(それに俺の撫でる技術が上がれば、ポロも喜ぶことになるだろうし)
柔らかな白パンに柔らかくなるまで煮込まれた肉と野菜を挟んだサンドイッチを口へと運びながら、アースの目はテーブルの少し離れた場所で木の実を必死になって食べているポロへと視線を向ける。
「ポルルルルル」
「キュ? キュキュ!」
近くにいるイエロが近寄ってきたのを見て、ポロは自分の持っていた木の実を差し出す。
一緒に食べる? そう言っているように思えるのは、アースの気のせいという訳ではないだろう。
「それで、世界樹の件だけど……正直、どこをどうすればいいのかお手上げ状態ね」
ポロとイエロの仲が良さげな様子を……そしてレイと一緒にテーブルにやって来たセトが近くで機嫌良さそうに寝転がっている様子を眺めていたアースに、マリーナのそんな声が聞こえてくる。
「そうだな。……まず聞きたいのは、本当に昨夜から今朝に掛けて世界樹に近寄る者がいなかったのかということだが」
「ですが、エレーナ様。夜通し世界樹が見える場所で宴会をやっていたというのですから、誰かが……もしくは何者かが世界樹に近づくのは無理なのでは? それにこの集落には障壁の結界が張ってありますし、迷いの結界もあります」
チーズがたっぷりと入っていたサラダを食べていたアーラが、エレーナにそう尋ねる。
だが、エレーナはアーラの言葉に首を横に振って口を開く。
「世界樹が見える場所……大分近くで宴会をやっていたとしても、ラグドが世界樹の異変に気が付くまでずっとという訳ではないのだろう? それに、そもそも酔っ払っている者の言葉をそこまで信用は出来ん」
「それはまぁ、そうよね。ただでさえ昨日は世界樹が回復したということで、集落の全員が一日中陽気に騒いでいたんだし。そう考えれば、とてもじゃないけど注意深いとは言えないわ」
スープを食べているビューネの頬を拭きながら、ヴィヘラがエレーナの言葉に同意する。
そう言われれば、アーラもそれ以上は何も言えなくなる。
酔っ払っていても注意深く周囲の様子を確認出来るかと言われれば、首を傾げざるを得ないからだ。
また、酔い始めたばかりの時ならともかく、皆が一日中宴会をやっていたのだから、その注意力が落ちているのは当然だろう。
「だとすれば、誰がどうやって世界樹に干渉したのだろうな」
エレーナの視線が何か手掛かりはないのかとマリーナに向けられる。
そんなエレーナに対し、マリーナが出来るのは首を横に振るだけだった。
「残念ながら私にも見当が付かないわ。そもそも障壁の結界がある以上、普通なら侵入しようとしても無理な筈なのよ。考えられるとすれば……」
信じたくないといった様子のまま、それでもマリーナは言葉を濁すことなく説明を続ける。
「集落の中の誰かが、今回の件の犯人を招いた場合……でしょうね」
「可能性としては、それが一番高いか。……マリーナ、聞きにくいが心当たりはあるか?」
マリーナを気遣いながらも、エレーナはしっかりと尋ねる。
姫将軍として行動してきた経験から、この場でしっかりと聞き出しておかなければ、いずれ何かあった時にマリーナが苦しい立場に追いやられるかもしれないという思いからの行動だ。
だが……そんなエレーナに対し、マリーナは首を横に振る。
「私がこの集落に戻ってきたのは、約百年ぶりよ? ダークエルフにとって百年というのはそんなに長い時間という訳じゃないけど、それでも日々は移ろっていくわ。私がいない百年の間に何かが起きて、誰かが心変わりをしたかもしれないのよ」
だから分からない、と。
そう告げるマリーナに、誰も何を言うことは出来ない。
百年を生きるというのは、マリーナ以外はこの場にいる誰もが経験したことがないのだから。
レイやエレーナはそれ以上の年月を生きる事になるのは間違いがなかったが、それは将来的なことだ。
今のレイやエレーナは、まだ人間としても若いとしか言えない。
「なら、取りあえずこれからの行動は世界樹に何かをした存在を探す……ということになるのか?」
レイの口から出た質問に、マリーナは頷きを返す。
「そうね。同時に森のモンスターをどうにかしないといけないわ。昨日までは世界樹が回復したのだから、森の異変もいずれも収まると考えることが出来たけど、今の世界樹の状態ではそれも望めないし」
「その割りには昨日の時点で森に連れて行かれたんだけどね」
チクリと刺すように告げるヴィヘラだったが、マリーナはギルドマスターとして鍛えてきた面の皮の厚さでそれに答える。
「昨日も言ったけど、森の異変を少しでも早く終息させる為には必要だったことよ。それで、今日のこれからのことなんだけど……この人数を二つに分けるわ。集落の中で世界樹に手を出してきた相手を探すのと、森の異変を収める為に」
そう告げ、マリーナは誰をどちらに分けるかで頭を悩ませる。
これだけ有能な者達が揃っている以上、当然誰をどちらにやるかでそれぞれの作業効率は違ってくるのだから当然だろう。
(贅沢な悩みなのは分かってるんだけどね。……特にレイとセトはどちらに回しても間違いなく戦力になるでしょうし)
視線をレイとセトへと向け、マリーナは頭を悩ませるのだった。