1011話
全てを打ち砕くだけの威力を持った刃が、ヴィヘラのすぐ側を通り過ぎて行く。
すぐ側……それは普通に考えればすぐ側と表現してもいいのだろうが、ヴィヘラがいつも戦う時に敵の攻撃を回避する動きからすれば、明らかに大袈裟とすら呼べるだけの動きだった。
だが、それは何の意味もなくそうしている訳ではなく……
「厄介、ね!」
自分が回避したクレイモアが地面へと叩きつけられていないのに、何故か地面に幾つもの切断跡が生まれたのを見て、ヴィヘラは厄介そうに吐き捨てる。
……それでいながら口元には薄らと笑みが浮かび、口では厄介だなんだと言っていても今はその厄介さを楽しんでいるというのは明らかだった。
風の鱗という名を与えられたその魔剣は、外から見る分には普通のクレイモアにしか見えない。
一般的にクレイモアというのは大剣の一種で、柄から剣先の長さは二m近くあり、その巨大な重量で敵を斬るというよりは叩き潰す、または叩き切るといった使い方をする武器だ。
だが、ダイアスが使っている魔剣の特性はそれだけではない。
ただでさえ巨大な刃の周辺に、風を……鋭い風とでも表現すべき風を纏っているのだ。
その結果、刃に当たらずとも刀身が纏っている風により周辺を斬り刻む。
ただでさえ大剣であるクレイモアが、目に見えない風を纏っていることで更に攻撃可能範囲が広がっているという、ヴィヘラにとっては非常に戦いにくいことこの上ない相手だった。
更にダイアスもかなり腕の立つ人物であり、決して風の鱗の能力に頼り切っているだけではない。
「うおおおおおっ!」
雄叫びと共に、風の鱗を強引に横薙ぎに振るう。
力に任せた一撃ではあったが、その振るう一撃の威力と鋭さは普通の人間であれば間違いなく回避は不可能だと思わせる程のものだ。
だがそれを言うのであれば、ヴィヘラも到底普通の人間という括りに当て嵌めるのは無理な存在だった。
横薙ぎに振るわれた風の鱗の一撃を、後方へと跳躍することによって回避する。
軽く跳んだその様子は、身につけている服のこともあって踊り子が踊りを披露しているようにすら見えた。
武は舞に通ずという言葉を体現しているかのような、そんなヴィヘラの身のこなし。
そうして一瞬前までヴィヘラの身体があった場所を、風の鱗が空気を砕くかのような速度で通り過ぎて行く。
後方へと跳躍したタイミングが早かったおかげだろう。その見切りの早さがあってこそ風を纏ったクレイモアの攻撃を、ヴィヘラは次から次に、ある程度の余裕すらもって回避出来ていた。
いや、傍からは余裕をもって回避しているように見えるのだろう。
それはヴィヘラが口元に笑みを浮かべている為というのが強い。
戦闘を楽しむヴィヘラだからこそ、こうして笑みを浮かべながら戦っているのだが、実際にはそこまで余裕がある訳ではなかった。
純粋な身体能力という意味では、ヴィヘラの方が明らかに上だ。
それは、こうしてダイアスの攻撃を回避し続けているのを見れば明らかだろう。
だが、それを覆すのがダイアスの持っている風の鱗。
極限の見切りで敵の攻撃を回避し、カウンターとして攻撃を当てていくという戦闘スタイルのヴィヘラにとっては、その極限の見切りが出来ないというのは大きい。
つまり、単純に言えば戦闘における相性が悪かった。
それでもヴィヘラの身体能力の高さや戦闘における勘の鋭さは、風の鱗の攻撃を無傷でやり過ごすことに成功していた。
お互いが距離を取ったのを幸いとダイアスは風の鱗の剣先をヴィヘラへと向け、ヴィヘラはどんな攻撃が行われても対処出来るよう油断せずに構える。
「どうした? 逃げるだけか? 俺が聞いていたヴィヘラという人物であれば、戦闘を楽しむ為に攻撃を躊躇うといった真似はしないと聞いているんだけどな」
髭に包まれた口に笑みを浮かべて告げるダイアス。
それは明らかな挑発であったが、ヴィヘラは敢えてその挑発へと乗る。
「そう? じゃあ、私も少しは本気で戦おうかしら。どうせ戦うのであれば、手応えのある相手の方がいいでしょうしね」
「……ほう、俺を相手に手加減をしていたとでも言うのか?」
「手加減というのとはちょっと違うわ。どうせ戦うのであれば、強い相手と戦いたいでしょう? それを確認させて貰ったのよ」
力量を測る為にあえて好き勝手に戦わせていたと告げるヴィヘラの言葉に、ダイアスは風の鱗を構えながら呆れたように口を開く。
「噂に違わぬ戦闘狂ぶりだな。本当にベスティア帝国の皇女様なのか?」
「元、だけどね。こういう性格だから、大人しく城で暮らしていたりというのは性に合わなかったのよ」
「はっ、よく言う。城にいれば食うものにも困るようなことはなかっただろうに。それを捨ててまで戦いを求めるのか?」
「そうよ。人に分かって貰おうとは思っていないけど、これが私の生き方だもの。それに……こんな生き方をしてきたからこそ、私はレイに出会うことが出来た。もし皇女として生きていれば、レイのような人と会うことは出来なかったでしょうね」
数秒前までは戦いについての話をしていたのに、いつの間にか惚気のような内容に変わっているヴィヘラの言葉に、ダイアスは小さく溜息を吐く。
戦闘の中で気が抜けるような真似は出来ればして欲しくなかった。
……もっとも、そんなやり取りをしながらも、お互いに相手の隙を探るような動きをしており、決定的な隙を見せれば次の瞬間には先程のように激しい戦闘が繰り広げられることになるだろう。
それが分かっているだけに、ダイアスは目の前のヴィヘラを食えない女だと認識する。
「そうかい。それは羨ましいことだな。けど……そうやって女の幸せを掴んだのなら、わざわざこんな場所にやって来て戦ったりしなくてもいいだろうに」
「あら、そんなの駄目に決まってるじゃない。さっきも言ったけど、折角強い相手と戦えるんだから、その辺はしっかりと楽しませて貰わないと」
「……戦いを楽しむ、か。その感覚は俺には分からないな」
ダイアスにとって、戦いというのは自分が生きるための糧を稼ぐ手段でしかない。
それだけに、戦いそのものを面白いと思ったことは……少なくてもこのスラム街で暮らすようになってからはなかった。
それでも日々の訓練を止めないのは、自分が生き残る為にはその強さが必要だと理解しているからだろう。
戦いを楽しむというヴィヘラの気持ちは、全く理解出来なかった。
自分が楽に生きることが出来るのであれば、戦いはなくてもいいというのがダイアスの正直な気持ちだったからだ。
「そう? なら……その楽しさを、少しでもいいから教えてあげる!」
鋭く叫ぶと共に、ヴィヘラは地面を蹴ってダイアスとの間合いを詰める。
高い瞬発力と柔軟な筋肉により、相手を幻惑するかのようにダイアスに近づきつつも、微妙に速度を緩めたり、速めたりといったことを繰り返す。
そんな緩急自在な動きと複雑な足運びにより、ダイアスの目から一瞬ヴィヘラの動きが揺れたと認識される。
身体を動かしているのだから、揺れるというのはそうおかしな話ではない。
それでも、間違いなくダイアスの目はヴィヘラの動きが揺れたと感じたのだ。
一定以上の力量がない者には、ヴィヘラが普通に動いているようにしか見えないだろう。
だが、一定以上の力を持っている者には、今のヴィヘラの動きの意味をしっかりと理解出来る。
幻惑するかのようなその動きに、微かにだが反応が遅れるのだ。
見えるが故に、どうしても反応をしてしまう一瞬。
そして強者同士の戦いとなれば、その一瞬こそが決定的なまでに勝負の行方を左右する。
「ちぃっ!」
予想外のヴィヘラの動きに、風の鱗を振るうダイアスの一撃が乱れる。
ダイアスにとって幸運だったのは、風の鱗という魔剣がその刃以上に大きく、広い攻撃範囲を持っていたことだろう。
そのおかげでヴィヘラの幻惑的な歩法により間合いを狂わされても、完全に攻撃を外すということはなかったのだから。
「ふふ」
風による一撃を左手の手甲で受け止めながら、ヴィヘラは笑みを浮かべつつ右手をそっとダイアスの胴体へと伸ばす。
「っ!?」
その、何でもない……それこそ、白魚のような手と表現すべきヴィヘラの手が胴体に触れようとした瞬間、ダイアスは背筋に冷たいものが走り、強引に後ろへと跳躍する。
風の鱗を振るいながらの跳躍であっただけに、空中で姿勢を崩すことになり……そんなダイアスの動きを見逃す筈もなく、ヴィヘラは更に地面を踏んで距離を縮め、右足の足甲へと魔力を流して刃を生み出しながら蹴りを放つ。
肉感的な、いっそ芸術とすら表現してもいいヴィヘラの太股を鑑賞する余裕もなく、足甲の刃と風の刃がぶつかる甲高い音ともに襲ってきた衝撃でダイアスは吹き飛ばされる。
それでも足甲の刃を風の鱗で受け止め、致命傷を避けたというのは、ダイアスの非凡な戦闘能力を現しているのだろう。
二mを超え、身体中に鋼の如き筋肉が付いているその身体が五m近くも吹き飛ばされたのだ。
それでいながら右手を地面についてすぐに体勢を立て直し、自分の方へと向かってきているだろうヴィヘラに風の鱗を構える。
だが……クレイモアである風の鱗は当然その分の重量があり、取り回しも難しい。
気が付けば、風の鱗を構えた時にはヴィヘラの姿は既にダイアスのすぐ横にあった。
「くっ!」
ほぼ密着状態に近いこの距離は、完全に格闘を武器としているヴィヘラの間合いだ。
そっと自分の身体に伸ばされる手を見たダイアスは、殆ど反射的に風の鱗の柄の部分をその手へと叩きつける。
ヴィヘラの手甲と風の鱗の柄がぶつかり、甲高い金属音が周囲に鳴り響く。
だが、所詮ダイアスの振るう柄の一撃は咄嗟の一撃でしかなく、出来るのは精々ヴィヘラの手の狙った場所をずらすということだけだった。
本来は腹を狙ったヴィヘラの手は、柄の一撃により狙いが逸れ、ダイアスの脇腹へと触れ……
「がはぁっ!」
脇腹に命中したその一撃は、決定的な致命傷にはならずとも、ダイアスに苦痛の悲鳴を上げさせるには十分な威力を持っていた。
魔力によって直接相手の体内に衝撃を送り込む浸魔掌だったが、命中する直前に風の鱗の柄に当たり、結果として狙っていたのとは別の場所へと命中したことにより大幅に威力を減じさせていた。
それでもレザーアーマー越しに体内へと直接衝撃を叩き込まれるという体験は、ダイアスにとっても初めてだったのだろう。
浸魔掌の命中した脇腹から体内へと広がる衝撃の威力は、数秒息を止めるのに十分なものだった。
そして、ヴィヘラやダイアスのような高い次元の戦闘能力を持つ者達の戦いにおいては、その数秒というのは限りなく大きな意味を持つ。
浸魔掌の威力に数歩後退ったダイアスへと向かい、追撃を掛ける為にヴィヘラは更に前に出る。
そんなヴィヘラへと、レザーアーマー越しに体内へ直接衝撃を通されたにも関わらず、それでも風の鱗を手放さなかったダイアスは強引にその魔剣を振るう。
息が出来ない状態からの一撃である以上、とても鋭いと表現出来る程の一撃ではないが……
「っ!? やる!」
まさか当たり損ないではあっても浸魔掌を受けて即座に反撃をしてくるとは思わなかったヴィヘラは、そんなダイアスの動きに感嘆の声を上げ、それでいながら口元に笑みを浮かべつつ素早くしゃがむ。
一瞬前までヴィヘラの身体があった場所を通り抜けて行く風の鱗の刀身。
空気を斬り裂くような一撃とはとても言えない、鈍いとすら呼べる攻撃。
それでも風を纏ったその刃は、地面へとしゃがんで攻撃を回避したヴィヘラの髪を一房切断する。
だが……ダイアスに出来たのはそこまでだった。
最後の一撃とばかりに放った横薙ぎの一撃も回避され、先程の浸魔掌によって受けた体内の衝撃によるダメージは、未だ回復することなくダイアスの身体を苛む。
寧ろ、最初の一撃で気を失っていれば苦しみを長引かせるようなことはなかったのだろうが……
そうして地面にしゃがんだヴィヘラは、大地に右手を触れさせたまま素早く回転して薙ぐような蹴りを放ち、目の前にある足を刈り取る。
「ごっ!」
背中から地面に倒れ込んだダイアスは、とうとう手にした風の鱗を手放す。
クレイモアという大剣だけに大きな音を立てながら地面を転がっていくが、今は誰もそれに手を伸ばす者はいない。
そして……
「久しぶりに楽しい一時だったわ。……じゃあ、眠りなさい」
優しげとすら思えるような、そんな言葉と共にダイアスの腹部へとヴィヘラの右手が触れ……次の瞬間には浸魔掌の一撃により、ダイアスの意識は闇へと沈むのだった。