1004話
地下通路から延びていたハシゴを最初に上ることにしたのはレイだった。
ビューネは自分が行くと態度で示したのだが、地下通路を使って逃げた錬金術師とマジックアイテム屋の店主がいる以上、どうしてもマジックアイテムを使った待ち伏せを警戒しない訳にはいかない。
そしてレイは自分なら何人が待ち伏せをしていてもどうとでも出来るという自信があった。
ビューネも一定の腕を持っている盗賊ではあるのだが、基本的に盗賊というのは戦闘には向いていない。
勿論全く戦闘が出来ないという訳ではないのだが。
ビューネは長針を使った遠距離攻撃や、背が小さく体重が軽いことを活かした短剣を使った攻撃を得意としている。
それでも、レイやエレーナ、ヴィヘラといった面々に比べると、どうしても戦闘力は落ちる。
だからこそ戦闘力に自信のあるレイが最初にハシゴを上ることにしたのだ。
ドラゴンローブという強固な防御力を持つマジックアイテムや、いざという時には切り札の炎帝の紅鎧もあるというのは大きい。
「……誰もいない、か」
ハシゴから頭を出して周囲の様子を窺うも、そこにあるのは古く、いつ壊れてもおかしくはないような建物のみ。
自分を待ち伏せしている類の敵はどこにもその姿はない。
そのままハシゴから上がると、周囲の様子を改めて確認する。
どうやらこの場所は家というよりは物置小屋の類らしいと判断すると、近くにある扉へとそっと手を伸ばす。
そうして開けた扉から見えてきたのは、夕日に照らされた幾つもの廃屋のような建物。
とても掃除をしているとは思えないような建物が幾つも並んでいた。
その光景を見たレイは、ここがどこなのかを理解する。
「スラム街、か。まぁ、自分が隠れていた場所を見つけられたんだから、ギルムの中でもそう簡単に逃げ込める場所はないか。そう考えれば、スラムに逃げ込むのはおかしな話って訳でもないんだな」
取りあえずこの周辺に人の気配はない……正確には人の気配は幾つもあるが、自分に対して殺意や害意、敵対心といった感情を持っている相手がいないのを確認すると、ハシゴが延びている穴へと声を掛ける。
「大丈夫だ、取りあえず周辺に敵の姿はないから、上ってきてくれ」
その言葉に、アジモフ、ビューネ、エレーナ、ヴィヘラの順番で上がってきたのだが……
「この人数だと、狭いな」
元々小屋そのものがスラムにある小屋だけあって、それ程広い訳ではない。
当然そこに何人も人が集まれば、狭くなっても当然だろう。
それでもレイとビューネは背が小さく、エレーナとヴィヘラは女で専有する幅は小さい。……胸や尻の部分が大きく発達しているので、そのような部分で場所を取ってはいるのだが。
アジモフも成人している男だが、筋骨隆々の大男という訳ではなく、研究に集中して食事を抜くことも多い為にどちらかと言えば痩せている方だ。
五人共普通の成人男性よりは小さかったり細かったりするので何とか小屋の中に全員が収まることが出来ていたが、それでも人数が多い為に息苦しいのは間違いなかった。
「それで、外の様子は?」
「この外はスラムだな。随分と遠くまで脱出路を掘っていたらしい。……まさか、手で直接掘ってた訳じゃないんだろうから、多分何らかのマジックアイテムとかを使ったんだろうが」
エレーナにレイが答えると、全員が呆れや感心といった様々な感情を浮かべる。
マジックアイテム屋があったのが裏路地で、比較的スラムに近かったのは事実だ。
だが、そこからここまで地下を掘るというのは、色々な意味で常識外の出来事なのは事実だった。
「こっちを探っている奴もいないし、取りあえず外に出ても問題ないだろ。この狭い場所にいるよりは楽だし」
レイの言葉には全員異論がなかったのか、大人しく小屋を出る。
すると目の前に広がってきたのは夕焼けに照らされたスラム街の街並み。
赤く染め上げられたその姿は、火事でも起きているのかと疑問に思う程の姿を周囲に見せていた。
レイ達が小屋から外へと出てスラム街へと視線を向けている頃、警備兵の手から逃げ出したアドリアは周囲の様子を確認しながらスラム街へと到着していた。
当然ここに来る途中で香水を盗み、自分が一時的にせよ捕らえられる原因となった臭いを消してはいる。
それでも完全に安心出来ないのは、森で香炉を置いてあった場所に立ち寄った日から暫く経っており、その間に水浴びや身体を拭いたりもしていたのに、それでもまだ腐臭をセトに嗅ぎつけられた為だ。
セトの嗅覚の良さを考えると、例え香水で臭いを誤魔化せたとしても完全に安心するというのは不可能だった。
「あの人の多い中を抜けてきたんだから、多分大丈夫だとは思うんだけどね。……どうやら追跡の手はまだこっちに届いていないか。まぁ、あたしを逃がした場所の騒動を治めるのに一苦労してるだろうから、仕方がないんだろうけど」
煙が充満した様子に右往左往しているだろう警備兵を想像すると、アドリアの口元には自然と笑みが浮かぶ。
だが、その笑みもすぐに消え、歴戦の冒険者の顔へと変わる。
一瞬だけ走ったアドリアの鋭い視線に、絡んで金を巻き上げようと――女だと知れば身体も求めて来ただろう――していた男達が、自然とその足を止めていた。
もしこのまま自分達が絡めば間違いなく手痛い目に遭ってしまうというのを、スラムに住んでいる住人独特の嗅覚で嗅ぎ取ったのだろう。
実際アドリアの力量はその辺の冒険者に比べると高い。
そして今のアドリアは自分が警備兵に捕まりかけたということに面白さを感じているのと同時に、先手を取られたという苛立ちも若干ながら存在している。
男達が足を止めずにアドリアに絡んでいれば、その時点で手足の一本や二本はへし折られることになっていただろう。
最悪の場合、命すら失っていた可能性もあった。
それを思えば、ここで足を止めた男達は命拾いをしたということになる。
「残念」
自分の湧き上がってきた思いの丈をぶつける相手がいないのを残念に思いながら、アドリアは気軽にスラム街の中へと入っていく。
(襲ってきてくれれば、多少なりとも予備に使えそうな武器も手に入ったんだろうけど)
元々アドリアが身を隠していたマジックアイテム店から外に出たのは、地下にいるのが退屈になったというのもあるが、同時に食料の類を買ってくる為でもあった。
ズボズは錬金術師ということで、最近の活動を考えると外に出るのは止めておいた方がよく、何より本人も街へと出るよりは錬金術の実験をしている方が楽しいという性格だ。
また、ズボズがもし街中でレイの姿を見てしまえば、発作的に行動を起こしてしまう可能性もあった。
レイの顔は直接見たことがないので、女顔、背が小さいといった特徴しか知らないズボズだったが、グリフォンを連れているという、これ以上ない程に分かりやすい特徴がある。
ズボズもグリフォンを連れている人物を見てレイと分からない筈がなく、出来ればまだ現状では大きな騒ぎにはしたくなかった。
(折角の祭りなんだから、もっと大きな舞台を作る必要があるしね)
その時のことを考えながら歩いているアドリアは、やがてスラム街の中でも人の少ない場所へと到着する。
ここまで来れば、入り口にいたような中途半端な者達だけではなく、それこそ一流と称してもいい程の強さを持った者もいた。
何らかの理由で表世界から追放され、ここに落ちてきた者達。
そんな者達だからこそ、いざという時には死に物狂いの力を発揮して相手へと襲い掛かるだろう。
(そう、例えばこんな人とか……ね)
アドリアが来るのを待っているかのように姿を現したのは、一人の男。
ただし顔中が髭に覆われており、何歳くらいの男なのかを見て取ることは出来ない。
買い物に出るつもりだったアドリアだけに、持っている武器は予備の長剣だけだ。
もし男と戦いになれば、恐らく……いや、間違いなく苦戦するだろう。
負ける可能性だって大いにある。
「こっちだ」
……そう。戦えば、だが。
「久しぶり、ダイアス。やっぱりズボズ達も逃げてきたの? まぁ、あたしが店から出たところで捕まったんだから、それも仕方ないけど」
自分が捕まった時のことを考えれば、どうあっても店を調べられることになる。
今までは他にもよくある店ということで注目を浴びるようなことはなかったが、注目を浴びてしまえば色々と不都合なことも出てくるのは当然であり、何より店の中を詳しく調べられれば見つけられてはいけないものを見つけられてしまう可能性は高かった。
その危険を考えれば、まだ店の中を調べられる前の自由に動けるうちに逃げ出すというのは決して悪い選択肢ではなかっただろう。
「ズボズは不満そうだったぞ。急いで逃げることにしたせいで、ただでさえ少ない素材を殆ど持ち出すことが出来なかったらしい」
「やっぱり? いや、でもあたしが買い物に行くことになったのって、ズボズの用事もあったんだけど。……錬金術師も素材がなければただの人、か」
歩きながらダイアスと会話を交わすアドリアに、ダイアスは特に何も感じていないように口を開く。
「何も出来ないということはないだろう。錬金術師だって魔法使いだ。ある程度の魔法を使いこなすことは出来るし、ズボズの場合は幾つかのマジックアイテムを肌身離さずに持っている」
「それでも錬金術師ってのは戦うのには向いてないよ。……それより怒っていたのはズボズだけかい? ポールの方は?」
アドリアの脳裏に、巨漢で静かな山を思わせる人物の姿が過ぎる。
何故あのような人物がベスティア帝国の手の者なのかはちょっと分からないくらいに不思議な人物。
ポールの店がもう使えなくなったということは、当然そこにあった数多くのマジックアイテムを取り戻すことも不可能に近い。
どう考えても、自分達のせいで巻き添えを食ってしまったとしか言えないだけに、アドリアとしても多少悪いと思う気持ちはあった。
だが、ダイアスはそんなアドリアの様子に構わずに口を開く。
「内心でどう思っているかは分からないが、外から見る限りだと特に怒っている様子はないな。いつも通り静かなものだ」
「そうかい。なるべく早い内にどうにかしてやりたいとは思うんだけどね」
そうして話をしながら進み、やがて目的の場所へと到着する。
外から見る限りでは、周囲の離れた場所に建っている他の建物と同じように何かあればすぐに倒れてしまいそうな半ば廃屋のようにすら見える。
だが、アドリアがいざという時の為に用意して置いた隠れ家が、その外見通りの筈はない。
見た目は廃屋のようにすら見えるが、それはあくまでもそう見せ掛けているだけに過ぎなかった。
そんな建物の中へ、アドリアとダイアスは特に緊張する様子も見せずに入っていく。
すると、中にあったのは普通に過ごす分には全く問題ないだろうだけの家具が揃っている。
他の建物のようにゴミだらけという訳でもなく、その辺の安宿よりは余程すごしやすいのは間違いない。
そんな部屋の中に、二人の人物がいた。
一人は今回の件においてアドリアの相棒とも呼べる存在のズボズで、もう一人はアドリアとズボズが匿って貰っていたマジックアイテム屋の店主、ポール。
ズボズはアドリアと一緒にここまでやって来たダイアスから聞いた通り、非常に不機嫌そうな表情を浮かべている。
その理由が多くの素材をマジックアイテム屋に置いてきたからだというのは聞いていたが、それでもズボズが不機嫌なのはアドリアにとっても面白い出来事ではなかった。
そんなズボズに比べると、ポールは特に何も動揺した様子を見せない。
素材の多くをなくしはしても、本当に貴重な代物は持ってきているズボズと、店に置いてあったマジックアイテムの全てをなくしてしまったポール。
普通に考えれば、明らかにポールの方がショックは大きいだろう。
だがこうして傍から見ている限りでは、ポールは殆どショックを受けているようには見えない。
それどころか、いつもと変わらないようにすら見えている。
そんなポールの様子を面白く思いながらも、アドリアはこのままここにいる訳にもいかないことを思い出す。
「あたしが捕まった理由を知ってる?」
その問い掛けに、その場にいる三人は誰も答えない。
当然だろう。アドリアが捕らえられていた時、ポールは店の中にいたのだし、ズボズは地下の隠し部屋にいた。ダイアスにいたってはずっとこのスラム街にいたのだから、アドリアがどうやって捕らえられたのかを知る術はない。
誰も答えないのを見たアドリアは、仕方がないと思いながらも口を開く。
「臭いよ。あの、香炉を置いた場所の件。その腐臭がまだ残っていたらしくて、グリフォンに嗅ぎつけられたの」
そう告げた瞬間、ズボズの視線は鋭くなる。
「それはつまり、レイがいたということでしょうか?」
「ええ、そうなるわ」
「……そうですか。仇がそこにいるというのに、あの店から逃げ出してしまったのは失敗でしたね」
「じゃなくて、取りあえずズボズもこれを使っておきなさい。腐臭を誤魔化す程度にはなんとかなると思うから」
香水を見せながら告げるアドリアに、ズボズはそんな場合ではないと口にしかけるが、その前に一人の男が建物の中へと入ってくる。
密かに武器へと手を伸ばすアドリアを気にした様子もなく、小屋の中に入ってきた男はダイアスの下へと向かい、耳元で呟く。
それを聞いたダイアスは、苛立たしげに舌打ちをする。
「どうやらお客さんらしい」
それが誰を意味しているのかというのは、考えるまでもなかった。