1002話
大通りを警備兵に引き連れられて行くアドリアは、表面上は既に観念しているかのように大人しくしている。
左右にいる警備兵に両腕をしっかりと捕まえられており、前後にも警備兵がいて逃げられないようにしっかりと警戒をしていた。
もしこの状況で逃げ出すとすれば、それはアドリアがどうこうするのではなく、外側から何とかするしかないような、そんな厳重な連行。
事実、アドリアを詰め所まで連行している警備兵達も、アドリアの動きを警戒しつつ周辺の状況もしっかりと警戒していた。
内と外の両方を警戒するというのは注意力が散漫になりかねないのだが、高ランクの冒険者を含めて多くの冒険者が集まるギルムという辺境で警備兵として働いてきただけあって、今まで幾つもの修羅場を潜り抜けてきた男達は当然このような事態を何度か経験していたこともあり、手慣れた様子でアドリアを詰め所まで連行していたのだが……
(さて、そろそろいいかな? 深紅や姫将軍も離れたようだし)
顔を動かさず、目の動きだけで周囲の様子を確認したアドリアは内心で呟く。
そこには深刻な表情の類は一切なく、寧ろこの状況を楽しんでいるようですらあった。
目の動きそのものも、自分の両腕を掴んでいる警備兵に見つからないようにしながら周囲を見回すという熟練したものだ。
一見すると、戦士ではなく盗賊に必要な能力に思えるその動きだが、対峙した相手に自分の視線を読ませないというのは戦士としても十分以上に必要とされている技能だった。
そんな動きで周囲の様子を確認していたアドリアは、十分にレイやエレーナから離れたと判断すると行動を起こす。
「ねぇ、ちょっといいかい?」
軽い様子で話し掛けたアドリアに、右腕を掴んでいた警備兵は警戒しながら口を開く。
「何だ、悪いがお前の要求は何も聞くつもりはない。何かあるのであれば、詰め所についてからにしてくれ」
「いやいや、あたしが言いたいのはそういうことじゃないんだ。ただちょっと聞きたいことがあってね。こうして大人しく君達に連行されているんだから、少しくらい話をしてもいいんじゃないかな?」
すぐにアドリアの言葉を却下しようかと思った警備兵だったが、何気ない会話から重要な手掛かりを得られるというのは、これまでの経験で学んでいた。
だからこそ、アドリアの動きに警戒しながらも口を開く。
「話を聞くのは、詰め所までの間だけだ」
「おい!」
アドリアの右腕を掴んでいた警備兵の言葉に、左腕を掴んでいる男が咎めるように鋭く叫ぶ。
だが、右腕を掴んでいる男はその言葉に油断しないという意味を込めて左腕を掴んでいる警備兵に視線を送り、アドリアへと向かって口を開く。
「それで、聞きたいことってのは何だ?」
警備兵はアドリアが妙な動きをしないように注意し、何かあっても掴んでいる腕を決して放さないつもりで尋ねるが、それに対してアドリアは笑みすら浮かべて口を開く。
「あたしの両腕をこうして掴んでるんだけど、女としての柔らかさはどうかな? 魅力はあるかい? 例えば、夜に寝所に忍び込みたくなるような」
「……は?」
一瞬何を言われたのか分からず、警備兵の口からは間の抜けた声が発せられる。
当然だろう。まさかこの状況でこんなことを言われるとは思ってもいなかったのだから。
これが、もし娼婦であったり踊り子であったり、色気自慢の女からの言葉であれば、多少驚きつつも油断なく反応出来ただろう。
だが、アドリアは女の艶とは正反対の位置にいる人物だった。
身につけているレザーアーマーで身体付きがどうとは正確には言えなかったが、それでもこうして近くで見てようやく女だと理解出来るような、そんな身体つきだ。
それでいて、髪も動くのに邪魔だからか非常に短く切り揃えられている。
まさかそんな人物から女としての意見を聞かされるとは思ってもおらず、アドリアと話していた警備兵だけではなく、周辺を固めていた警備兵達までもが一瞬唖然とする。
その一瞬の隙こそ、アドリアが欲していたもの。
銀貨や金貨といったものより、更に貴重な一瞬の時間。
警備兵達が唖然としたのはほんの一瞬。それは間違いなかったが、アドリアにとってはその一瞬があれば全く問題なかった。
最初に行ったのは、自分の右腕を掴んでいる警備兵の処理。
もっとも、処理と言っても殺す訳ではない。
身体の力を抜き、自分の右腕を掴んでいる警備兵の動きに合わせて腕を動かす。
その動きを感じた警備兵は反射的にアドリアの腕に力を入れ……次の瞬間にはその動きを逆に利用され、気が付けば右腕を掴んでいた警備兵の男は自分から地面へとその身を倒していた。
「なっ!?」
いきなり仲間が地面に倒れた行動に、左腕を掴んでいた警備兵が掴んでいた場所に力を入れて地面に押さえつけようとするが、顎先に軽い衝撃が走ったかと思うと、その警備兵も地面へと崩れ落ちる。
そしてアドリアの前後に存在していた警備兵が動こうとした時には、既にアドリアは懐から指先程の大きさの水晶球を取り出して魔力を流し、地面へと叩きつけた。
その水晶球が破壊された瞬間、煙が溢れ出る。
周辺一帯を包み込む煙は、ズボズが生み出したマジックアイテムなのだから、勿論ただの煙という訳ではない。
魔力によって生み出された煙である以上、当然その煙にも魔力が込められているのは当然だった。
そこまで大量の魔力という訳ではなく、それこそ魔法使いであれば楽に生み出せる程度の魔力ではあったのだが、それでも魔力は魔力だ。
もし警備兵に魔力を感知出来る者がいたとしても、すぐにアドリアを探し出すことは不可能だったろう。
更に周辺一帯を煙で覆ってしまった以上、被害を受けたのは警備兵だけではない。
今は夕方で、街中を歩いている者も多く、その者達も当然煙の被害を受ける。
これが冒険者や傭兵、兵士といった風に荒事に慣れている者であればある程度このトラブルにも対応出来たかもしれないが、街中を歩いている中には荒事に全く関わり合いのないギルムの住民も多くいた。
そうなれば当然そのような者達が騒ぎ出すのは当然であり、周辺は完全にパニックになっていた。
そんな人々の中を、アドリアは縫うように走る。
煙で周囲の視界が見分けにくくなっている以上、煙に巻かれた人々も何かが通ったかもしれない、としか感じられなかった。
(ここであたしが見つかってしまった以上、もう親父さんの店には戻れないだろうね。だとすれば、親父さんもズボズももう店を脱出している筈。合流場所は以前話しておいたから、特に問題なくこれる筈だけど……店から脱出する前に深紅達に踏み込まれてないことを祈るしかないか)
合流場所のことを考えるとうんざりとするものがあるのだが、それでもこの後に待っているだろう楽しみを考えれば我慢する気にもなる。
(折角ここまでズボズをやる気にさせたんだから、せめてもう少し楽しませて貰わないと割に合わないしね。それに向こうは向こうで楽しむことが出来るかもしれないし)
ズボズ達と合流してからの楽しみを頭に思い浮かべながら、アドリアは煙に包まれた一画を抜け出して走り続ける。
尚、アドリアの手によって煙に包まれた一画は、数分程で煙が綺麗に消えてようやく落ち着きを取り戻す。
そしてこの場にいる誰もが気が付いていなかったが、アドリアを警備兵に引き渡した時から後を追っていた存在が、煙から逃げ出したアドリアの後を見失うことなく追っていた。
アドリアを警備兵に渡したレイとセト、それとエレーナの二人と一匹はマジックアイテムを売っている店の前へとやって来ていた。
そこには、店から誰かが出てこないように見張っていたヴィヘラとビューネ、アジモフの姿がある。
ヴィヘラは突然姿を現したエレーナの姿を大きく目を見開き、ビューネも普段の無表情さからは珍しく多少ではあるが驚きを露わにする。アジモフはただ呆然とエレーナの美貌に目を奪われていた。
「久しぶりだな、ヴィヘラ。……ビューネも相変わらず元気で何よりだ」
「あら、対のオーブで何度か会話をしてたじゃない。それを考えると、久しぶりという程でもないと思うけど?」
「対のオーブと直接会うのでは違うさ」
笑みを浮かべたやり取り。
エレーナとヴィヘラという、誰が見てもこれ以上の美人はいないだろうと言い切るレベルの美貌を持つ二人が揃っているのだから、ここは裏路地だというのに大輪の華が咲き誇っているかのような華々しさを周囲にもたらしている。
それを一番実感出来ているのが、アジモフだろう。
普段は殆ど女に興味はなく、女よりも自分の研究の方が大事で時々娼館に出向く程度のアジモフだったが、今はこうしてエレーナとヴィヘラに目を奪われている。
ヴィヘラだけであれば、アジモフも多少感じるものはあったが、それを表に出すような真似は殆どしなかった。
だがそこにエレーナが加わった瞬間、相乗効果でも起きたかのように二人に意識を奪われ、目が離せなくなってしまう。
そんなアジモフを見て、エレーナはレイにこの人物が誰なのかと説明を求める視線を向ける。
この場で唯一知らない相手だけに、その仕草は当然だったのだろう。
エレーナに視線を向けられたレイは、アジモフの方へと視線を向けて口を開く。
「こいつはアジモフ。錬金術師で、今回の件でちょっと協力して貰っているんだ」
「なるほど。では、よろしく頼む。私はエレーナだ」
「あ、ああ」
エレーナに目を奪われるあまり、アジモフが口に出来たのはどこか要領を得ない返事のみ。
基本的に世の中のことに疎く、レイの深紅という異名すら知らなかったアジモフだったが、それでも姫将軍という異名は知っている。
普段であれば、エレーナという名前を聞き、その外見を見れば目の前にいるのが姫将軍だというのは分かったのだろうが、今のアジモフはとてもではないがそんなことを理解出来なかった。
そんなアジモフとの挨拶を済ませたエレーナは、ヴィヘラやビューネが見ていた店へと視線を向ける。
そして扉の側に飾られているゴブリンの骨に、不愉快そうに綺麗に整った眉を顰めて口を開く。
「ゴブリンの頭蓋骨か。……悪趣味だな」
「マジックアイテムを売ってるんだから、その関係だろうな。……で、店から誰か出て来たか?」
レイの問い掛けに、ヴィヘラは首を横に振る。
「一応裏口の類があるかもしれないと思ってビューネに調べて貰ったけど、入り口はここだけだったそうよ」
「そうか。……さて、じゃあ、中には何があるんだろうな。出来れば件の錬金術師辺りがいてくれればいいんだけど」
錬金術師に関係しているだろう女がいる以上、何らかの手掛かりがあって欲しい。
そんな思いを抱きながら、レイは店の扉を開ける。
その際、扉の側に飾られているゴブリンの頭蓋骨の目が一瞬だけ光ったのだが、その光は夕焼けの光に誤魔化されて誰も気が付くこともなかった。
「……誰もいない、な」
店の中を軽く覗き込んで告げるレイ。
その口調は疑問や不信がこれ以上ない程に混ざっている。
先程の女……アドリアがこの店から出て来た以上、当然ながらこの店の中にはレイが会ったこともある店主がいた筈だった。
だが、こうして店の中を見回しても、今は誰の姿もなく、気配すらもない。
「この扉はきちんと見張っていたんだよな?」
確認するように尋ねてくるレイに、ヴィヘラとビューネは頷きを返す。
勿論レイも本気でこの二人が扉からこっそりと出てくる店主の姿を見逃したとは考えていない。
今のはあくまでも確認の為の問い掛けだった。
それが分かっているからこそ、ヴィヘラとビューネもすぐに頷いたのだろう。
「だとすれば、どこかに誰にも知られないような脱出路の類があるとしか思えないんだが……」
「けど、少なくてもこの建物の壁に隠し扉の類はないわよ? それはビューネが調べたから、間違いないわ」
「まぁ、ビューネでも見つけることが出来ない隠し扉ってのはちょっと考えられないよな」
レイもビューネの技量には信頼を置いている。
ヴィヘラと組むまで、ソロでダンジョンに潜っていたのだ。
盗賊として考えれば、間違いなく一定の腕を持っているのは間違いない。
そんなビューネの目でも見つけることが出来ない隠し扉の類があれば、それはもうレイでは見つけることが出来ない代物だろう。
(セトの五感とかなら見つけられるかもしれないけど)
自らの相棒のことを考えながら、レイはビューネに天井を指さして尋ねる。
「壁だけじゃなくて、上も調べたよな?」
「ん」
ビューネは当然と言いたげに、短く返事をする。
一階建ての建物である以上、ビューネ程の能力があれば屋根に上るのは難しい話ではない。
「壁が駄目、上も駄目。転移石を使う為の魔法陣の類もないとなると……残るのはここだけ、だろうな」
レイは床を軽く蹴り、隠し扉、もしくは脱出路の入り口があるのはここだろうと皆に示すのだった。