第五十二話
何も見えない闇の中、支える物も掴まる物も無く、今俺は生まれたままの姿で水中にぷかぷかと浮かんでいる。
水中なのに浮いているという表現は変に感じるかもしれないが実際そうなんだから仕方が無い。
ただ残念な事に、周囲がどのような状況なのかは本当の意味で真っ暗なので見ることが出来ず、音位でしか様子が分からない。
……こうしているとまるで宇宙に漂っているようだ。
勿論、実体験として宇宙へ行った事等無いが、多分こんな感じでは無いだろうか。
違いが有るとすれば、重力のおかげで上下がはっきりと分かるという事と、ここには夜空に輝く星が一切無いという事くらいか?
それにしても驚いた。
俺の予定では今頃うまく森の中に逃げ込んでいて、追ってくる襲撃者達からその身を隠しているはずだった。
それが何故か、目の前の柵を越えるために使ったはずの力で自分の足元の地面までが消滅してしまい、そのままの勢いで俺は地面に穴を開けて地下深くへと落っこちている。
何がなんだかさっぱりだ。
……ふぅ。
落ちてきた穴から地上の様子が見えないか、頭上を見回してみても光の漏れている箇所がどこにも無い。
どうやら俺が落っこちてきた時に作った筈の穴は崩れてしまったのか、それとも角度的にここからは見えないみたいだ。
まあ、トンネル工事と違い、穴の周囲を補強しながら落っこちていた訳ではないので多分俺が通過した後に穴はすぐに崩れてしまったんじゃ無いだろうか。
そんなことを考えているうちに、走り回らされた所為で激しく脈打っていた心臓も少しは落ち着きを取り戻した。
走った所為で喉が渇いていた俺は、綺麗だとか汚いとかは考慮せず半ば無意識で手を動かし、廻りにある水を手のひらで掬い口元に持ってきて飲もうとし……。
なぜか確かに掬ったはずの水が手のひらの中から消えていて、口をつけても何も飲めないことに驚いた。
「え?」
だが、良く考えてみれば俺の頭を覆っている小さい領域は入ってくる物を、俺以外全て空気へと変換していたのでこれはこれで正しい事なのだろう。
しかし困ったな、このままでは水を飲む事も出来ない。
廻り中に水はあるのに飲む事が出来ないとか、新手の嫌がらせですかこれは……。
水を飲む為に一旦領域を解除する事も考えたが、俺はその手段を取ることをためらった。
というのも、実はさっきから加速度的に何かが崩れるような音がしているのと、俺の周囲の水の圧力がどんどん高くなっているのだ。
最初はゴトとかボトンとか聞こえていた音が今ではズドドとかゴガガとかそんな音になっている。
今のところ音と水圧以外に実害は無いのでそれほど危機感は感じていないが、このまま放置していていいともあまり思えない。
何が起こっているのか良く分からないが、どうせ碌な事では無いだろうしな。
とりあえず、光のあるところまでどうにかしてたどり着き、現状を把握したい。
今の俺は水で出来た球体の中に裸で立ち泳ぎしているような状態だったので、もしかしたら上に向いて泳げばそのまま地上に出られるんじゃないか? と思って試しに泳いでみた。
すると、バタ足で水を蹴った分だけ確かに俺の体が上昇しているような気がする。
まあ、真っ暗なのであくまでもそう感じる、というだけなんだが。
それと、泳げば泳ぐほど俺を押し上げるような水流が生まれ、その流れのおかげで更に俺は泳ぎやすくなった。
楽でいいけど、この水流は何だろう?
そこで、泳いでいる間にさっきまでの俺の状況を少し考えてみる事にした。
まずはじめに俺は地中深くにむかって穴を開けながら落っこちてきて、そこで墜落死を避けるために周囲の物を水へと変換した。
その副作用として発生した大量の水は、周囲の土砂を崩落させてそれが更に土砂を領域へと接触させ、その結果、新しい水を生み出し、その繰り返しによって俺の周囲は水が……というか多分泥水が大量に発生していたんじゃないか?
で、その繰り返しが連鎖的に加速してあの何かが崩れるような音が聞こえて来ていた、と。
でも、水になるのはあくまでも直接領域に触れた部分だけなので精々俺の頭を中心に2m程度の範囲だからそれ以外の部分は周囲の土砂が崩落して土砂に圧迫された水が俺を取り囲む水の圧力を上げていたのか……ってまてよ?
領域で発生して外に出た水は再び領域に触れたときどうなっているんだろう?
水がもう一度水に変換されているのか、それとも水は水のままなのか?
覚えてたら後で友ちゃんに確認してみるか。
実際に何が起こっているのかは不明だが、とりあえず俺の頭では変換に関する一寸した疑問と状況に関する考察が出来ていた。
そんなことを考えながらも俺は体の感覚を信じて水面……いや、地面か。地面を目指して土の中を泳ぐ。
モグラやミミズはこんな世界で生きているんだろうか?
そうやって上に向いて泳いでいると先ほどまで聞こえていた音が段々聞こえなくなってきている事に気が付いた。
いや、音が聞こえないというよりも俺を押し上げる水の勢いが激しすぎてそれしか分からないというべきか?
水の勢いはますます激しくなり、俺が自分で泳がなくても地表へと押し上げられる程だ。
何となく水流を背中で受け止めるように姿勢を変えてみると勢いはもっと増した。
こりゃ楽でいいや、と最初は思っていたが、どんどん勢いは強くなり、今は一寸激しすぎてつらい。
何か対策を考えないと不味いか? と思ったとき突然周囲が明るくなった。
「!?」
――光だ!
俺は絵本の登場人物のように地面から噴出した水に押し上げられて地中から飛び出し、空へと打ち上げられた。視界いっぱいに空が広がっている。太陽の光が心地よい。
首を捻って領域が形作る水の壁越しに地面を見下ろすと、地表は俺を打ち出した部分を中心にクレーターのように陥没していた。
多分、地中で突然発生した水の所為で地盤沈下を起こしてしまったのだろう。
そして俺をここまで押し上げた水は、領域に触れる直前までは茶色い泥水の塊で、領域に触れた瞬間から透明な真水へと変換されているので、遠くから見ているものが居れば、茶色い噴水の上に真水を撒き散らす何かが乗っているような不思議な光景が見れた筈だ。
……打ち上げられた勢いがようやく無くなり、俺の体は頂点へと到達し、ゆっくりと落下が始まる。
高い、20mくらいは打ち上げられたんじゃないだろうか?
地表へ向けての落下はジェットコースターの下り始めのような恐怖を感じさせる。
……おいおい、一寸待てって。
流石にこんな高さから地面に落ちたら死んじまう。
地表20mから紐無しバンジージャンプとか誰得だよ!?
俺は落下の恐怖から、出来る。とか出来ない。とか関係なく、反射的に手を羽ばたかせて鳥のようにじたばたして……そして、その時気が付いた。
全ての物を水へと変換する領域のなかで俺が羽ばたいたりバタ足をすると、その反作用で俺の体は思った方向へと動くのだ。
まるで鳥が空を羽ばたくように。いや、この例えは変だな。……水中で人が自在に泳げるように。
通常、領域で変換された水は放っておけば重力に従って勝手に落下していく。
しかし、その中心に居る俺は生み出された水を押しのけたり掻き分けたり出来る。
それで生み出された反動エネルギーは水中で人が泳ぐのと代わらない効果を生み出す。
つまり、俺は空を水中へと変換しながら泳いでいるのか。
――俺は、この時、空を泳げるようになった。
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