第二十話
暗闇の中、じわじわと額に伝わってくる熱に恐怖を感じながら、首を振ることでどうにか輪っかを外せないかと無駄な努力を繰り返した。
袋をかぶせて、その上からしっかりとはめられた輪っかを頭を振るくらいで外せるわけも無い。
理性では当然わかっていたが、俺はそんなことで納得して現状を受け入れるほど諦めが良い人間じゃない!
周囲が見えないのと、これから自分の身に何が起こるのかがわからない、という二重の不安が俺の精神をガリガリと削る。
発狂しそうな精神状態でそれこそ狂ったように頭を振った。
だが、自分では冷静なつもりでも、やはりどこか混乱していたようだ。
俺は輪っかを床に擦り付ければ簡単に外れるに違いないと今頃気がついた。
あほか俺は!
しかし、輪っかはよほどしっかりとはまっているようで床に頭をぶつけるような勢いで擦り付けても取れる様子は無い。
しばらく頭を擦りつけていたら、首を絞められた状態で動きすぎた所為か、それとも頭に血が上りすぎたのか目の前がチカチカしてきた。
これが目の前に星が見えると言うやつだろうか?
その内、段々目の前の光が大きくなってきた。
俺は今、袋を頭からかぶせられて、外の状況がまったく見えない状態なので、この光の原因は輪っか位しか心当たりが無い。
うわあああああああ。
……。
……あれ?
でも、明るくなっていくその光は恐怖を与えるものではなく、俺に安心を与えてくれた。
この光の向こうには何か、俺にとって大事なものがあるような気がする。
頭を振るのを忘れて、暫く大きくなっていくその光に意識を奪われる。
見慣れた明かり、懐かしい明かり。そう感じた。
光を意識する。
すると、その光の中にだんだん何かの風景が見えてきた。
……。
あれは……。
あれは俺のマンションの玄関だ!
最近切れかけでたまにチラつくようになった通路の照明の明かりだ!
……帰りたい。
あそこに、帰りたい。
理屈じゃなく、本能でそのドアに触れる事が出来れば俺は帰る事が出来るとわかった。
気付けば頭を覆っていたはずの袋も、腕を拘束していたはずの縄もいつの間にか消えていた。
額にぼんやり輪っかの感触だけがある。
俺は何も考えず、ただ無心でドアに向かって走った。
暗闇の中ぽつんと付いた明かりに照らされているドア。
あのドアにさえたどり着けば。
必死で走った。
どうなって居るのかわからないが遠いような近いような不思議な距離感でドアが見える。
分厚いガラス越しのような、深い水の底から見ているような。
走っているのに距離が縮んだ気がしない。
足元も何を踏んで走っているのか、頼りない柔らかさで踏ん張りが利かない。
真っ暗で見えない足元。
ぶにゃぶにゃと奇妙な感触を返してくる地面を、それでも懸命に走る。
もどかしい思いを感じながら俺は走った。
その時、遠く、凄く上のほうから誰かに呼ばれたような気がした。
……!
なぜか、その瞬間冷や汗がどっと出る。
見つかってしまった! という恐怖が背筋を這い上がってくる。
この声にこたえてはいけない。
この声の主が、俺をあそこへ連れ去った何かだ。
声が聞こえた瞬間から狂ったように足を動かし死に物狂いで走った。
唐突に周囲の音が変わった。
周りに壁でも出来たかのように、俺の走る音がすぐそばで反響して返ってくる。
がむしゃらに走る俺の体をなにか巨大なものが周囲から押しつぶすような勢いで覆い尽くしていく。
いやだ、俺は帰るんだ!
でたらめに手を振り何かを押しのけようとしたが、その何かはどんどんと俺の周りを埋めていく。
硬いわけでも強く押されているわけでも無いのに、俺にまとわりついて自由を奪っていく。
例えるなら布団の指をした巨人がいて、それが俺を手のひらに包み込もうと両手で押さえ込んでいるようなそんな感触だった。
優しく、しかし、絶対に逃がさないという意思をその動きから感じる。
押さえつけられてからも逃げ出そうともがいたが、段々体の自由が利かなくなってきた。
動けなくなるにしたがって額の輪っかの熱が抜けていく。
この場所で俺の体を動かすエネルギーは額の輪っかから出ている熱なんだとぼんやり感じた。
離してくれ、俺は帰るんだ。
離してくれ、頼む。
泣きながら訴えても巨人は拘束を緩める気配は無く、それどころか大切な物を抱き締めるみたいにそっと俺のことをさっきまで居た方へと引き寄せる。
柔らかく巨大ななにかが俺をその体の中に取り込もうとする。
急激に熱を失っていく輪っかが俺に絶望を感じさせる。
額の輪っかから完全に熱がなくなった瞬間、俺は……。
……。
気がついたらさっきの部屋の壁際に頭から袋をはずされた状態で転がされていた。
指揮官と兵士が少しはなれた所に見えるが、ついさっきまでの出来事がどこまでが現実でどこからが意識を失った後なのか、がわからず。放心状態になっていた俺にはどうでも良い事のように感じた。
床で擦られた背中が痛い。
最初に部屋の中央へ運ばれた時に付いた傷と、今転がっている壁際に運ばれた時付いた傷だろう。
傷口が心臓になったみたいに脈にあわせてずきんずきんと痛みを訴えかけてくる。
でも、その痛みもどうでも良い。
――帰りたかった。
――帰ることに失敗した。
仮にあれが夢だったとしても、手が届きそうなところで届かなかった所為で、ショックが大きく、今は何も考えたく無い。
俺は心のどこかであれは現実だったと確信している。
そして理由はまったく分からないが、さっきもし、光の中に見えたドアにふれることさえ出来ていれば、俺は帰る事が出来たはずだった。
理論的に考えれば、何の根拠も無い、それこそ恐怖の中で脳がみせた幻覚にすぎないと言われるだろう。
しかし、今の俺はそれを本能レベルでさっきの出来事が真実だと判断していた。妄信といっても良い。
じゃあ、あの輪っかが有れば俺は帰れるのか?
そう考えた瞬間、いままで放心状態だった意識がいきなり覚醒した。
輪っか!
あの輪っかはどこだ!?
どこにある!?
急激にクリアになった思考と、うまく動かないからだとのギャップで立ち上がろうとしてすっころんでしまった。
剥き出しの床に裸の尻をガツンとぶつけて、尻から脳天まで響いた痛みが少しだけ俺に冷静さを与えてくれた。
いつの間にか指揮官と兵士だけじゃなく、別にもう一人男が居た。
しかも、その一人はさっきの俺と同じような扱いを受けているようだ。
だが、違いもある。
一番の違いはその人物が服を着ているということだ。
服、つまり、人間扱いされていると言うこと。
よく見れば、その格好は兵士たちの物に近い。
しかし、片腕が無く、腰に紐を巻かれその紐に残った腕を縛り付けられ自由に動けないようにされている。
頭にはさっきの俺と同じように袋をかぶせられ、首の所で縛られている。
勿論、輪っかも額のところにセットされていた。
どういうことだ?
仲間じゃないのか?
これから何が起こるのか興味があったので座った状態で見学させてもらうことにした。
片腕の男は兵士達と同じ言葉がしゃべれるようで、袋越しでくぐもってはいるが、しきりに何かを訴えかけている。
聞いているのかいないのか、はじめからいる兵士はさっきも最初にしていたのと同じように、埋まってしまって今は見えていないが布のあった位置の四隅に光る宝石を4つ置いた。
その間も片腕の男はしきりに話しかけて、いや、哀願しているのか?
なんだか聞いていて切なくなるような声を出している。
それを聞いているはずの指揮官と兵士はまったく相手にせず、左右から片腕の男を挟みこんで肩の辺りをつかみ強制的に部屋の真ん中へと連れて行く。
そして、乱暴にひざの裏を蹴り飛ばして転がした。
その時、俺が意識をなくしている間に連絡でもあったのか、部屋の外からぞろぞろと兵士達が入ってきた。
指揮官は入ってきた兵士達に気付くと部屋の入り口に戻り何かを話している。
もう一人の兵士も急ぎ足で指揮官の後ろに駆け寄った。
床に埋め込まれた巨大な布の範囲から指揮官と兵士が出ると、今度はぼんやりと床と片腕の男にはめられた頭の輪っかが光りだした。
床の光の調子と輪っかの光を見る限り、床に置いた4つの宝石と同じ感じの光なので、あの宝石がなんらかのエネルギー源なのかもしれない。
片腕の男は蹴られたひざ裏が痛いのか、縛られている所為で腕が使えないからか、うまく立てない様子で部屋の中央でもがいている。
自分の時はあの後、真っ暗な中、光が見えて……。
外部から見てあの時自分に何が起こっていたのかを知る良いチャンスだと思い、興味津々に眺めた。
すると、一瞬片腕の男の頭にかぶせられた袋が光とともに膨らんだような気がした。
男はのけぞって痙攣している。
なんだ?
その直後、周囲に満ちていた光は消え、指揮官と兵士達が片腕の男の元へと向かい、頭の袋をはずした。
なんだか、変なものが見える。
そんな筈は無いのに、男の頭が小さくなってしまったように感じる。
まるで、下あごと舌しか頭部には残っていないような……。
その時、忘れていたかのように、無くなった頭を探して居るみたいに凄い勢いで血が噴出した。
それを冷静に兵士が空の壷で受ける。
なんなんだ。
一体なんなんだこれ。
軽くパニックになった俺を無視して状況は淡々と進み、兵士達は手馴れた動作でまず死体の服を剥ぎ取り、そして、あの大きな鉈のような刃物を使い男を関節の部分で細かく解体していく。
内臓は別にして、細切れになった肉は骨のついたまま血を受けた壷に。
外した内臓は別に出した小さな壷へかき集めている。
あたりに物凄い血のにおいが立ち込めた。
ははは、これは、夢だ。
夢、だよな?
兵士達が手早く解体作業を終わらせると、今度は中身の入った壷を指揮官が手をかざし消した。
それと同時に、どういう理屈なのかあたりに充満していた血の匂いも掻き消えた。
痕跡は床に少し残った血液くらいだ。
最初から居た兵士が、片腕の男がかぶっていた袋を指揮官に渡すと、中で何か固いもの同士がぶつかるようなじゃりっとした音がする。
呆然として眺めていたら、指揮官がその袋に手を突っ込み何かを取り出した。
それは淡く光る……先ほどから何度も目にした宝石だった。
袋の中はそれで一杯みたいで、指揮官は袋の中身を鷲づかみにして、何度か取り出しては戻し、を繰り返している。
片腕の男の頭が、宝石の粒に変化した?
現実逃避をしていた俺の目に、今度は更に変なものが見える。
!
今はもう誰もいない部屋の中央、丁度片腕の男が事切れた辺り。
そこに何かが集まっている。
そこだけ世界が二重写しになったような、じっと見ていると遠近感を失って吐きそうになる気味の悪い光景。
それと一緒に、ゾクゾクする恐怖の感覚を伴う何かの気配が部屋に満ちてきて、寒くも無いのに一瞬で俺の肌に鳥肌がぷつぷつと浮いた。
この気配は、俺をさっきの場所で無理やり捕まえた布団の指を持った巨人……「あいつ」の気配だ!
歪んだ空間の中、あいつが、死んだ男がさっきまで居た辺りを一生懸命探っているのがわかる。
まるでそこだけ空間がずれているような得体の知れない違和感の中、「何か」が蠢いているのは感じられるのに、俺の目にはその「何か」がはっきりとは見えない。
壁際に座り込んだ俺の位置から反対側の壁全体を視界に入れて、目の焦点をわざと合わさず空間全体を見るようにすると、部屋の中央にずれている「何か」が浮き上がって歪んで見えた。
その輪郭は、まるで半透明の巨大なイソギンチャクか、巨人の手のひらが直接床から生えているみたいな現実離れした不気味な物だった。
そして、それは巨大な指なのか触手なのか良くわからない先端を何度も男がいた場所で蠢かせている。
その時、ないなー。おかしいなー。という場の雰囲気にそぐわない幼い言葉遣いの声が歪みの向こうから聞こえてきたような気がした。
その声がもしもあいつの声だとして、探しているのが死んでしまった片腕の男ならば、当然もうそこには誰も居ない。
男はとっくに解体されて壷に放り込まれ、この世から消えてしまった。
頭部は宝石の粒になって指揮官が握っている。
何故か今起こっている異常現象に指揮官も兵士達も何も感じていない様子だ。
その視線は部屋の中央で蠢いているあいつを見ていない。
もしかして俺にしかあれは見えていないのか?
でも、全員がこれから何かが起こるのを待っているみたいに部屋の中央を眺めている。
俺は、この場所から今すぐ離れたくて仕方が無い。
これ以上あれと一緒の場所にいたく無い。
とっさに叫んでしまいそうになるが、叫んであいつの注意がこっちに向いてしまうのはもっと恐ろしい。
息を止めて、可能なら高鳴る心臓も止めてしまいたいと思いながら、じっと、恐怖の所為で視線をそらすことも出来ず床にへばりついたまま見つめていた。
あいつはしばらく何かを探すような動きをしていた。
それがおわったのはいつだろう?
いつの間にか気配が消えていた。
正直ほっとした。
ようやく身体を動かせるようになり、ぎこちなく床から立ち上がろうとした時、いきなり、不意打ちのように再び部屋中にあいつの気配が満ちた。
それも、密度がさっきまでとは全然違う。
さっきまでがスカスカなスポンジだとするなら、今は粘土のような密度で満ちている。
空気が別の物質に変化してしまったような、肌に触れそうな強烈な気配がそこらじゅうを埋め尽くす。
気配に触れている肌が気持ち悪い……内臓が皮膚に、皮膚が内臓にでもなってしまったかのようだ。
中途半端に立ち上がった状態で恐怖から腰を抜かしそうになりながらも、動くと見つかってしまうという強迫観念が俺の動きをとめた。
次の瞬間、あいつの気配は片腕の男が殺された辺りへと吸い込まれるように消え去り、その場所には代わりに見たことのない二十人程度の裸の男女が転がっていた。
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