プロローグ
初めて彼女に出逢ったのは、10月21日午後6時をちょっと過ぎた頃だった。何故、時間までそんなにもはっきりと記憶しているのかと言えば、その日が丁度、僕にとっての記念すべき日で、その日の僕は頻りに時間を確認していたからだ。だから、その日僕が何時何分にいつ何処で誰と何をどの様にしていたのかをはっきりと言える。例えば、僕が朝起きたのは午前8時13分で、起きて直ぐの第一声は「うあああ」だ。ちなみにこれは欠伸の声だ。
僕は彼女と出逢った、あの時の風景を、彼女の顔を、思い返す。
彼女は空を仰ぎ見ていた。けばけばしいネオンが光り輝く様を見下ろすことができるビルの屋上で。星なんて一つも見えやしない、薄汚れた空を。真っ直ぐな大きな瞳で。
僕は、その瞬間から惹かれていた。単純に彼女の容貌に魅力された訳ではない。確かに、彼女の顔はとても美しかった。僕が見た異性の中で最も美しい人だと思う程に。だが、違う。彼女は僕にとってそういう対象ではなくて、もっとこう…。
「ねぇったら」
「…えっ?」
気づけば、今し方頭の中で考えていた、二重瞼で睫毛の長い彼女の顔が目と鼻の先にあった。
そう言えば、彼女の話しを聞いている最中だった。まずいな。すっかりと忘れていた。一体何の話しをしていたんだっけ。
「私の話し聞いてなかったでしょ?」
彼女が恨みがましげな眼差しで見ているので、僕はつい言葉を発していた。
「いやいや、そんなことないさ」
「ダウト」
彼女は即座に言い放ち、自分がもと居た、窓の側に置いてある、ゆらゆらと揺りかごのように揺れる木製の椅子に座った。
ダウト。僕がその言葉を使ったカードゲームを彼女に教えてから、僕が嘘をつく度に言うようになってしまった言葉だ。
「どうして君には僕の嘘が通じないのかなぁ?」
「あなたの嘘はわかりやすいんだよ。というよりも、嘘が下手」
彼女は上下に揺れながら、ばっさりと言い切った。
彼女はこうやって何でもズバズバと言うタイプの人間だ。思ったこと、感じたことをはっきりと言葉で伝えてくる。彼女の中にお世辞や相手に対して体裁を言ったりするといった能力は存在しない。つまり、表裏が無く、ストレートな性格と言うことだ。
「おかしいなぁ。何を考えてるのかわからないのが僕の最大の魅力のはずなんだけど」
ソファーの背もたれに寄りかかり、頭の後ろで手を組んだ。
「半分ダウト」
「何、半分って」
その言葉の響きが可笑しくて、僕はつい笑った。
「前半は本当だけど後半は嘘」
「え。じゃあ僕の最大の魅力ってなんだと思う?」
首を傾げて問う。すると、彼女はじっと僕の顔を凝視し始めた。そんなに見詰められると照れちゃうじゃないかと軽口を叩けば、無言の圧力をかけられた。
「で、思いついたかい?」
「うん」
彼女は揺れながら、首を縦に振った。そして、僕を真っ直ぐに見詰める。
「あなたの魅力は、無いの」
「は?」
ぽかんとしてしまった。いや、虚を突かれたとは当にこのことだ。彼女のことだから予測不可能な言葉を言ってくるとは思っていたが。そうきたか。
「僕の顔って女性受けする方だと思ってたけど、君にとっては違ったみたいだね」
クスクスと笑うと彼女は小首を傾げた。
「確かにあなたってモテるよね。よくアプローチされてるし…男女関係無く」
「ちょっと待って。最後の言葉は訂正してくれる?」
顔をしかめると、彼女は眉間に皺を寄せた。
「何故?だってこれは嘘じゃないよ。なのに言ったら駄目なの?本当のことなのに嘘をつかなくちゃいけないの?」
詰め寄ってきそうな勢いだったので、彼女に両手を突き出して、どうどうと諫める手振りをした。そして、教師が生徒に、または、親が子に教えるような物言いで、
「あのね、時には嘘をついた方がいい場合もあるんだよ」
そう言ったが、先に言ったように、彼女の中に世辞や体裁等は存在しない訳で。彼女の熱が更にヒートアップしてしまったのは言うまでもなかった。
「だって、嘘つきは泥棒の始まりっていうじゃない」
「それは悪いと思わないで嘘をつく人の場合だろ?なら逆説的に言えば、悪いと思えば使っても良いって訳じゃないか」
「嘘をついたら舌を抜かれるんだよ」
「あれ?神様は信じないんじゃなかったっけ?だったら、嘘をつかねば仏になれぬってね。これって仏様だって嘘をつくってことだよね」
「悪事に結びつくような嘘は時と場合を選んでも許されないんだよ」
「僕は悪事に結びつくような嘘はつかないさ」
「ダウト。あなたは人を貶めるような嘘もつく」
「それは仕方ないさ。仕事だしね。僕だってつきたくてついている訳じゃないよ」
「それもダウト。仕事の時だけじゃないし、あなたは楽しんでるよ。人を騙すことをね。それに、私と話してる今も…あなたの言葉は嘘だらけ」
今までの勢いは一体どこに行ったのか。彼女は急に冷静さを取り戻したかのように、押し黙ってしまった。まったく。女心と秋の空、だよ。女性の心理は僕の世の中で解せないことのうちの一つだ。ちなみに他には、犬を虐待する輩の心理。爆音で走るバイクや車を乗る輩の心理等がある。
僕は小さく息を吐き出した。こういうときはなるべく穏やかな声音で優しく訊ねるのが一番なのだ。
「もう論争はいいのかい?」
彼女は応えなかった。只、上下に揺られているだけだ。
僕はよっこらせとかけ声を上げて愛用のソファーから立ち上がり、彼女の側に行った。そして、目線を合わせるべく膝を曲げる。
「ねぇ、どうしたの?いつもの君らしく、感情を言葉で伝えてよ」
そっと彼女の艶やかな髪を撫でた。彼女の髪はとても柔らかく美しい。それなのに、自分と同じ香料の匂いがすることが不思議で仕方なかった。
「あなたはとても魅力的な人」
僕は目を丸くした。黙っていたかと思えば、こんな突飛な言葉を言うのだから当たり前だ。
顔を上げて、僕の目を見詰める彼女の表情は哀しげで、身体の中心が疼いた。僕は、それを取り払うように微笑んだ。
「さっきは魅力が無いって言わなかったっけ?」
意地悪く言うと、彼女はふるふると首を横に振った。
「あの時の私の言い方だと語弊があったね。私はね、魅力が無いじゃなくて、魅力が目には見えないって言いたかったの」
「目に見えない?」
「そう。あなたには、目には見えない人を惹きつける力がある」
僕は彼女の頭を撫でていた左手の動きを止めた。そして、彼女の揺らぐ二つの瞳を見詰め、優しく語りかける。
「僕にはそんな大それた力はないよ」
すると、彼女は激しく首を横に振った。そして、再び俯き、声を微かに震わせながら、
「私…私ね…あなたが時々恐ろしく感じるの」
彼女の薄い肩はカタカタと震えていた。それは、僕に対しての明らかな恐怖と拒絶を感じさせた。
僕は、触れていた手を引っ込めて、その手をギュッと握り締めた。
「…それはさ」
そこまで言って口を噤んだ。彼女が顔を上げてくれるまで、この先は話さないつもりだった。
長い静寂が訪れた。いや、実際にはほんの数秒だったのかもしれない。だか、僕にとっては、とてつもなく長い時間に感じられたのだ。
僕の意志を感じ取ったのか。彼女はとうとう、ゆっくりと顔を上げた。
彼女と目が合ったので、僕は柔らかく微笑んだ。
「僕が、人殺しだからかい?」
彼女は肯定や否定をせずに、僕の顔をじっと見ていた。
「大丈夫だよ。僕はどこぞの快楽殺人鬼なんかじゃないから、君を殺したりはしないさ。僕が人を殺すのはあくまてもビジネス。仕事だからだよ」
「…違う。そういう意味じゃない」
彼女は頭を振った。
どうしたものかと眉を曇らす。いつもならばここら辺りで収拾がつくのに。
「別に私は、それでもいいの。あなたが人を殺すことに快楽を得てようが得てまいが。だって。それは倫理的に反していても、世間で許されない行為だとしても、それでも、どっちも本当のあなただから」
彼女は悲痛な面持ちで僕を射た。
嗚呼、一体どうすればいいというのだ。僕には、彼女の言いたいことがわからない。
僕は頬をぽりぽりと掻いてみた。漫画やアニメであるあんな感じで。そうすれば、何か良い案が浮かび上がるような気がしたのだが、浮かばなかった。
「でも、そうじゃない。私には、あなたが見えない。だって、あなたはいつでも嘘を纏ってる!」
思わずぎょっとした。何故なら、彼女の目から大粒の雫がポタリと垂れ落ちたからだ。不躾かもしれないが、僕はその涙を見て、やはり彼女は美しいと思った。
「ねぇ、何故?」
彼女はくしゃくしゃな顔で僕を見た。表情の割にその声は落ち着いたものだったので、頭の中は冷静なようだ。
「何故、私を拾ったの?何故、私を生かしたの?」
あぁ、そうか。
僕はそこで漸く彼女の心を理解することができた。
「君は、僕の気持ちが知りたいんだね。何故、死ぬはずだった君を僕が生かし、一緒に生活までしているのか。そして」
なんだ。そんな単純なことがわからないだなんて。まったく、滑稽なことこの上ないよ。
僕は目を細め、彼女の濡れた頬に手を添える。
「僕が君のことを愛してるのかがわからない。そうだろ?」
彼女の目から更に涙が溢れ出る。僕は、そんな彼女を抱き締めた。華奢で脆い彼女の身体が壊れてしまわぬよう、優しく、優しく。
「大丈夫。僕だけは、僕だけが、君のことを愛してあげるから。大丈夫、大丈夫。僕は、あいつらなんかと違うから」
彼女は恐る恐る僕の背に腕を回し、僕に抱きついた。そして、しゃくりあげながら小さな声で呟いた。
「…ダウト」