シンデレラの憂鬱・1
セイラは非常に困っていた。
どれくらい困っているかと言えば、ジョンがお城の警備兵に腐った卵を投げつけて来た時よりもなお困り果てていた。
「ああ。孤児院に帰りたい」
ぼやくセイラがいるのは、孤児院とは雲泥の場所である。
広く美しく高価な家具に囲まれたここは、王城の離宮の外れだったりするのだ。
ここにセイラがいるのは、遡るほど一週間前。
いつものように孤児院で働いていたセイラを、たまたま視察に訪れた王子が見初めたという、いかにも夢物語のようなシンデレラ・ストーリーそのままの理由である。
ただし違うのは、セイラが王子を好きでは全くなかった事である。
つまるところ、権力にものを言わせた王子が、嫌がるセイラを無理矢理さらってきた、と言うのが正しい。
「どうしてこんなところに私はいるのー」
ちなみにさらわれてから王子に会ったのは、一度もない。毎日山のような贈り物は届くが、はっきり言って邪魔だし。毎日毎日、暇だし。
さらわれ損のくたびれもうけだ。この国の王子が全員馬鹿なのは知っていたが、これほどまでに馬鹿だとはきっと誰も思わないだろう。
権力にものを言わせて身分の低い者を屈服させるのがこの国の王子だなんて、眩暈がしてくる。
幸いな事にさらわれきたのだという事情をおもんぱかってか、この部屋に近づく者は起床時と食事時、午後の贈り物を運ぶ時くらいしかいない。
そうして今は、草木も眠る深夜である。絶対に誰もここには来ないだろう。
そう思って、セイラはこっそり部屋を抜け出る事にした。
まずはドア。絶対に鍵がかかっているだろうと思ったら、開いていた。
「え、あいてるんだけど。いいの、これ」
逃げろと言わんばかりの、でも行き場所もそもそもここが王城のどの部分かもわからないセイラにはどうしようもないのだが、とりあえずラッキーな事にドアは開いている。
ので、さっそく出てみる事にした。
「間違えないように、入り口に印つけとこ」
とりあえず、ドアの隙間に自分だけがわかる程度にリボンを噛ませておいた。ちょこっとだけ覗いた白が、自分の部屋の目印だ。
もちろんどの位置にあるのかもチェックはしておく。右から二番目だ。左には階段。
「よし、それじゃあ、まずは……」
そろそろと足音がしないように歩く。といっても、綿の詰まった布靴でしかも廊下は絨毯敷きだから、もともとほとんど音は立たないのだが。
服は動きやすいよう踝までのスカートで、肩までの髪はリボンで括っておいてある。これでも下町孤児院育ちだ、俊敏性には自信がある。
そうして見張りがいないかと注意しつつ進む事、およそ廊下四本分。右に曲がる事三回ののちにたどり着いたのは、廊下の奥にそびえた巨大な扉だった。
どうやらここで行き止まりらしい。引き返すかどうかと迷った時に、扉から光が漏れている事に気付く。
ガラス張りの廊下に差し込む月明かりとは違った、あたたかみのあるオレンジの、炎の色だ。
「だ、れか、いるの、かな」
しかしもうこんな時間だ。もしも、誰かの消し忘れだったら。
そう思った瞬間、背中を氷塊が滑り降りた心地になった。
火事かもしれない。そう思った瞬間、体は勝手に動き出し、セイラは扉を押し開けていた。
「……う、わぁ……」
セイラのおよそ三倍はあるだろう高さの天井。そのぎりぎりまでそびえ立つ、たくさんの棚。
びっしりと並べられているのはすべて本である。大きさも厚さも異なるありとあらゆる本が棚一面を埋め尽くし、足りない分は床まで溢れてしまっている。
そのあまりの迫力にセイラは先程までの思考をすべて忘却の彼方へ追いやり、ただその圧巻な光景に魅入ってしまった。
そう、炎の色を見た事も、何もかも忘れて。
「君は誰?」
だからそう声をかけられた瞬間、文字通り飛び上がってしまったのは、不可抗力である。
と、のちのセイラは思い返すのだった。
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