第三章「死線」 その二
西日本大学附属・南大阪病院、外科第三手術室。
脇腹から胸に向かっての刺し傷は、幸いにもギリギリ心臓の手前で止まっていた。
致命傷になりかねない傷は、腹部の方にあった。
悪意のナイフが、下腹部を深く刺し貫いていた。
「止血だ。・・・止血急げ!」
執刀医の杉村が、助手の関川の手元を見て、言い放つ。
ちょうど一時間前、出勤間もない杉村の元に、急患の一報が入った。
救急隊からの搬送中の報告で、
〈患者は三十四才の女性、胸部、腹部他、数カ所を、鋭利な刃物で刺され、瀕死の重傷〉と聞いた。
〈節子と同い年だ〉そう思った。
搬送されてきた血まみれの患者を見たとき、杉村は我が目を疑った。
「節子!まさか・・・何故だ!」思わず口走った。
手術室に入りながら、救急隊の話す状況説明を聞いた。
「女性は小学校の教師で、教室に侵入した何者かによって刺されたようです。」と、救急隊員が青ざめた表情で言った。
節子の容態が、容易なら無いものであることは、この若い救急隊員にも十二分に解っているのだろう。もちろん、杉村にも・・。
脇腹の傷口を縫合し終えた杉村に向けて、声が飛んだ。
「腹部、・・止血出来ません。出血、止まりません。」関川の声がうわずる。
「バカ野郎!止めろ!」
杉村は厳しくいいながら、鉗子をとり、腹部静脈を押さえる。
「このまま、じっと持ってろ。そっとだ。傷つけるな。そうだ・・・大丈夫だ。」
杉村の視線に、関川が無言でうなずく。
「輸血急げ。」杉村の指示で、看護士が新たな輸血パックをセットした。
その時、血圧計を注視していた看護士から、悲痛な声が飛んだ。
「血圧下がります・・・心拍ゼロ、・・反応ありません!」
ピッ・・・・ピッ・・ピー・・・・・・・・・・・
「カンフル!」
看護士が点滴チューブにカンフル剤を注入する。
それを横目に見ながら、執刀医の杉村は、節子の胸の上を、両手でドン、ドン、と叩き始めた。
叩きながら、杉村の目は、厳しく、心拍計と脳波計を見つめる。・・・ドン、ドン
二台の精密機械の波形は、無情にも、きれいな水平を保って流れていく。
「チャージ!」杉村が叫ぶ。
看護士が、杉村の横に手早くワゴンを寄せた。
「300」
「下がって!」・・・ダーン。
杉村の両手から、今まさに死に直面している、いな、すでに死線を越えてしまったかも知れない、節子に向かって、最後のロープが投げられた。
これを掴み損ねたら、節子は、二度とこの世には戻ってこられない。
・・・・
「ありません。」助手の関川が悲壮な声で言う。
スタッフ全員が、ピクリとも動かない機械の波形を、見つめている。
「もう一度。」杉村の声には、祈りが込められた。
(神様、お願いだ、どうか、どうか・・・節子を助けさせてくれ・・・)
「400」
「下がって!」ダ・ダーン!
・・・・・ピッ・・ピッ・・ピッ・ピッ・ピッ・ピッ
「出ました。」関川が興奮気味に叫ぶ。
「心拍再開・・・血圧上がります。・・30・・35・・45・・」
看護士が血圧計の数値を、読み上げて行く。
「ふーう・・よし。」杉村が一際大きく息を吐いた。
看護士が、杉村の額の汗を、手早く拭いた。
「油断するな。このまま止血だ。」
少しばかり安堵の表情を見せた杉村は、すぐに元の厳しい表情に戻った。
(節子、えらいぞ。もう少し頑張れ、もう少しだ。俺が、絶対助けてやるからな)
‘神の手’と呼ばれる杉村の手によって、縫合糸が節子の切れた血管を次々とつなぎ、身体の傷を、塞いでゆく。
三十分後、杉村が額の汗をぬぐいながら言った。「腹部縫合完了。」
「血圧正常、心拍、脳波とも安定。」報告する看護士の声が、心なしか、かすれていた。
「よし。手術は成功だ。だが、あとが大事だ。みんな、よろしく頼む。」
スタッフにそう声をかけた後、杉村は、じっと、節子の青ざめた顔を見ながら、言った。
「もう大丈夫だよ。よく頑張ったな。」
そう言いながらも、杉村は、節子が目を覚ました後、傷口を見たときの、彼女の気持ち、さらに、その後に残るであろう、いくつかの後遺症を考えると、暗澹たる思いを隠しきれなかった。