第二章「転校」 その四
「コロス。」男が呟くように言った。
〈コロス?〉節子は朦朧とする頭の中で、まるでその言葉の意味が理解できずにいた。
〈殺す〉簡単な言葉だった。
節子の三十四年の人生を終わらせるのに、充分な、簡単な言葉だった。
左の脇腹から胸の方に向かって、〈スッ〉という感じで、何か熱いモノが入ってきた。
何の抵抗もなく入ってきた〈それ〉は、難なく節子の身体の内側まで達した。
一度抜かれたナイフは、更にもう一度、そして、更にもう一度、節子の身体を貫いた。
「いや〜っ!」そう叫んだのが、その日、子供達に聞かせた最後の声になった。
節子は膝から崩れるように、前のめりに倒れ込んだ。
教室の床が目の前に来たとき、節子の中の何かが、不思議にも右手を動かせた。
節子の右手が、男の左足のひざの辺りをつかんだ。
男は、膝を折られたような格好になった。
節子が、床に衝突するのと同時に、男は左後ろに、しりもちを付き、さらに弾みで
仰向けに倒れた。〈ゴツン〉と鈍い音がした。頭を打ちつけた。
突然、子供達の前に〈道〉が出来た。
男子児童が走った。他の子供達も、俊敏にその後に続いた。
十人近くの子供がほぼ一列になって、出口に向かって走った。
一瞬の後、仰向けに倒れていた男が、頭を振りながら、起きあがった。
右手には、べっとりと血のりの付いたジャックナイフを持ったままだった。
起きあがったばかりの男の前を、最後尾の女の子が走り抜けようとした。
絵美だった。
男の左手が伸びた。
絵美の髪に手が掛かった。
絵美は、勢いが余って、両足を空中に投げ出すように、仰向けに倒された。
床で強く背中をうった。息が止まった。
〈ううっ〉苦しい息の中で、必死に見開いた絵美の目に、覆い被さる様に迫ってくる
男の顔と、高く持ち上げられた、右手のナイフが飛び込んできた。
〈ママ!助けて!〉
絵美は、ほんの三十分前には、この教室にいてくれた母親に向かって、
声にならない声で、助けを求めた。同時に、ギュッと目をつぶって、襲ってくるであろう
凶器の攻撃に身体を堅くした。
絵美の耳元で、《ドン、グサッ》と音がした。
続いて「ううっ」とうめき声が聞こえた。
絵美はゆっくりと起きあがった。
絵美のすぐ横で、男が俯せに倒れていた。背中の動きがゆっくりと止まった。
男の身体のしたから、真っ赤な血が流れ出していた。
男の足の辺りには、血で滑ったような跡があった。
節子の血だった。節子の身体から流れ出した血に、男が足を滑らせたのだった。
倒れた弾みで、男は自分のナイフで、自分の身体を刺し貫いたのだ。
ふらつく様に教室を出た絵美を、新しい同級生達が遠巻きに見ていた。
絵美の右手にはべっとりと血が付いていた。子供達を命がけで守ってくれた節子の血。
騒ぎを知って駆けつけた男性教師が、絵美に走り寄ってきた。
「大丈夫か?」そう言ってから、絵美の手についた血に気づくと、
「どこだ?どこを怪我した?」と叫んだ。
「私じゃない!先生を助けて!早く!お願い。」
絵美はそう言うと、膝から崩れるように倒れ込み、そのまま気を失った。