第二章「転校」 その二
教室の席は、きれいに埋まっていたから、全員揃っていることは一目瞭然だった。
それでも、節子は丁寧に一人づつ名前を呼び、児童が〈はい〉と応えると、何かしら一言尋ねるなどして、随分ゆっくりと出席をとっていった。
この小学校でも、ここ数年、〈学級崩壊〉や〈いじめ〉が問題になっていた。
〈学級崩壊〉授業中に勝手に席を立ったり、教室中を歩き回る児童達。
教師の注意など、彼らにとってはただの耳障りな騒音でしかなかった。そうして、教師が‘最後の手段’を行使しようものなら、途端に「体罰だ」と騒ぎ出すのだ。
もちろん、出来の悪い親も一緒になって。
ほとんどの教師達にとって、いったん始まった学級崩壊の流れは、止めようがなかった。
〈いじめ〉に関してもかなり深刻な状態だった。
いじめが元で登校拒否に陥っていると思われる児童の数は、年々確実に増えて、
クラスに一人や二人は必ずいた。
いったん登校拒否に陥ってしまうと、そこから救い出すことは容易ではなかった。
教師が足繁く自宅に通ったり、比較的仲の良さそうな児童に迎えに行かせたりして、
やっとの思いで登校させても、たった一言、いじめっ子が言葉のナイフを振りかざせば、
それで終わりだった。
いや、どんなひどい言葉でもかけられているうちは、まだ救いがあるのかも知れない。
いじめられた経験のある子達は異口同音に言う、「一番辛いのは無視されること。」だと。
ところが、この節子のクラスだけは様子が違った。
授業態度、クラスの輪、どれも非の打ちようがなかった。
他のクラスの影響が及ばないはずはなかったが、それを節子は持ち前のきめ細かな気配りで、〈小さな芽〉の間に摘み取っていった。
何より節子は、子供達にも自然と伝わる、「慈愛」に満ちていた。
節子は子供達を愛していた。教師という職業を愛していた。
そのことが、他の教師との〈ちょっとした差〉で〈大きな違い〉だった。
「ただいま〜、ママ〜、節子先生からお手紙。」
転校して三日目の金曜日、今日も絵美は、元気に帰ってきた。
絵美は、榊原先生を〈節子先生〉と呼んでいた。
違う学年に、榊原という男性の教師がいたことから、児童も、同僚教師も、
「節子先生」と呼んでいたのだ。
絵美は菜美の顔を見るとすぐに、この半日の学校での出来事を、楽しそうに話し始めた。
菜美は絵美のとりとめのない話を、安堵の気持ちで聞いていた。
小学校では、始業式の日から数日は短縮授業だった。その間の授業は半日で終わる。
週が変わって、来週の月曜日には、通常通りの6時間授業になると聞いていた。
菜美は、絵美に昼食のサンドイッチを用意してから、先生からの手紙を読み始めた。
『望月様
本日で三日目。絵美さんは、今日も楽しく一日を終えられました。
持ち前の明るさからでしょうか、もうすっかりクラスにとけ込んで、みんなと仲良く、
楽しく過ごされているように思います。
どうかご安心下さい。なにか気に掛かることが、ございまいしたら、いつでも遠慮なく
ご相談下さい。四年三組担任・榊原節子』
短いが、心のこもった手紙だった。
菜美は〈節子先生で本当に良かった。〉と思った。
子供も親も、教師を選ぶことは出来ない。どの教師に受け持たれるかなど、、
偶然の巡り合わせでしかない。
だから、菜美のように、〈この先生でよかった〉と思える教師に子供を預けられた親は、
幸せなのだ。菜美も、その事は良くわかっていたから、節子先生に感謝すると同時に、
出会わせてくれた〈偶然〉にも、心から感謝した。
その夜、俺はいつもより早く帰った。
この四、五日は、忙しく、絵美と一緒に夕食を摂ることが出来なかった。
土曜、日曜の二日間、また出張の予定が入っていたこともあり、その分、
〈今夜は三人でゆっくりしよう〉と思っていた。
「節子先生がね・・・」夕食の間中、絵美は、先生との楽しい語らいを一生懸命聞かせた。
俺は、絵美の嬉しそうな顔と、隣で微笑んでいる菜美の優しい笑顔に囲まれ、
これ以上なく幸せな気分だった。
〈幸せ過ぎて怖いわ〉
夏休みが終わろうとする数日前、絵美が俺を〈お父さん〉と初めて呼んだ日の夜、
ベッドの中で、菜美が言った。
俺も同じ気持ちだった。今までの人生で、これほど、安らぎと、幸福感に満たされていた
時間は無かった。
夕食を終え、菜美と絵美を先に風呂に入らせた。
絵美は、昼間はしゃぎすぎた疲れからか、ソファーでテレビを見てると思っていたら、
いつの間にか、眠ってしまっていた。
子供らしい、可愛い寝顔。俺は、絵美をそっとベッドまで運んだ。
いとおしさが込み上げてきて、絵美の額にそっと口づけをして言った。
「おやすみ。」
絵美の寝顔に見入っていると、菜美が隣にやって来た。
「あなた、ほんとに、ありがとう。」菜美は俺の胸に顔を埋めて、言った。
「泣いてるのか?」
「うん。なんだか、キュンってなったの。変ね。」
菜美はそう言って、涙をぬぐった。
「嬉しくて泣くなら、いくらでも泣いていいさ。」
俺は菜美をそっと抱きしめた。
細い肩にそっと手をやると、菜美の潤んだ目が優しく俺を見ていた。
俺は穏やかで満たされた気分に酔いしれた。たぶん、菜美も。
数日後に訪れる災厄の影に、気づきもせずに・・・。