第五章「別居」 その四
俺から、一通りの説明を聞いた後、坂田医師が言葉を選ぶように、話し始めた。
「随分大変でしたね。お疲れでしょうね、あなたも、奥さんも。」
「ええ、正直、疲れました。特に妻が・・・私は、疲れたと言うより、
困惑したといいますか・・・。」
「そうでしょうね。わかりますよ。」坂田医師は、一度机の上の書類に視線を落とした。
そして、もう一度俺の方に向き直って続けた。
「・・・まず、絵美ちゃんが、なぜそうなったのか?
私の考えをお聞きいただきましょうか。」
「はい。」
「絵美ちゃんの中に、本人も自覚しない、四つの感情があると思ってください。」
「・・・四つ。自覚しない感情ですか?」
「そうです。四つです。正確に言うと、二つ×二つの四種類。」
「はい、それは、どういうことでしょう?」
「まず、場所に関しての二つの感情があります。これは、わかりやすいでしょう。」
「大阪と萩、ですか?」
「そうです。おわかりのように、この大阪では、恐ろしく、辛く、
哀しいことが重なりました。まだ、小学生の絵美ちゃんには、これ以上ない
過酷な経験です。いや、大人でも、なかなか平常心では居られないでしょう。」
「はい。それは、よくわかります。」
「それを、小学生の女の子が耐えた。普通、耐えられるはずがないのです。」
「・・・・」
「それに、対して、萩では、大好きなお母さん、おばあさんと、
静かに楽しく暮らせた。何にも恐れることはなかった。」
「はい・・・」
確かに、まだ小学生の絵美に、〈大阪〉は過酷すぎる場所だった。
「それは、私にもよくわかります。・・・先生、あとのふたつは何でしょう?」
「ええ、今からお話します。あなたには、少し、辛いお話しになると思いますが、
よろしいですか?」
「あっ、・・はい。先生、どうぞ、お話下さい。」
俺は、無意識にこぶしを握りしめていた。手のひらが汗ばんでいた。
ポケットからハンカチを出し、拭った。
「まず、これは、絵美ちゃん自身も全く意識していない感情、
したがって、絵美ちゃんにもコントロール出来ない感情だとご理解下さい。」
「はい。」
坂田医師は、穏やかな視線で、俺の目を見て、また、ゆっくりと話し始めた。
「あなたに対する、絵美ちゃんの気持ちです。」
「まず、一つは、あなたを信頼し、好きだという気持ち。今までに伺ったところ、
また、絵美ちゃんがあなたに示す態度などから、絵美ちゃんが、あなたを信頼し、
あなたと母親が睦まじく過ごすことを、喜んでいるのは間違いないと思います。」
「はい。」
「その一方で、絵美ちゃんには、あなたを憎む感情、遠ざけたいと思う感情が
あるようです。」
「・・・・」
「強い言葉で申し訳ないと思います。・・・だが、恐らく、間違いはないでしょう。」
「憎む、ですか?」
俺は出来るだけ冷静でいようと思った。こぶしを膝の上に置き、じっと、
坂田医師の話しの続きを待った。
「あなたに対してでもあり、全ての男性に対して、でもあるかも知れません。」
「絵美ちゃんの生活を一変させた父親、教室で自分や先生を襲った男、
そして、大好きなママを奪ったのも男性です。」
「・・・絵美ちゃんは、お母さんが大好きなんでしょう。
優しくて美しいお母さんは、実の父親には愛情を注いだりしなかったのですよ。
だから、いわば、絵美ちゃんが、ママの愛情を独占できた。・・・そこへ、ある日、
あなたが現れた。」
「母、娘、祖母、三人で静かに暮らし始めた萩へ、突然、あなたが現れた。」
「ママは、あなたを愛していた。かといって、絵美ちゃんへの愛情が減ったと言うのでは
ないでしょう。それは、あり得ない。・・・だけど、絵美ちゃんの意識の下では、
そうは思っていないのかも知れません。」
「絵美ちゃんは、これらの矛盾する感情に、翻弄されているのでしょうね。」
坂田医師は、また穏やかな視線で、俺を見た。俺は、その目をじっと見つめ返して、
やっとの思いで、口を開いた。
「先生、・・・どうすればいいとお考えですか?絵美の、その、辛い状態は、
いったい、いつまで続くのでしょう?」
「いつまで・・・そうですね、これから絵美ちゃんは思春期に入ります。
一般的にも、一番感情のコントロールが難しい時期です。個人差はありますが、
中学を出る十五才。高校卒業の十八才、その辺りで、大人の心になるのが一般的です。」
「絵美ちゃんは、なかなかに聡明な女の子ですから、場合によっては、もっと早く、
落ち着くかも知れません。」
「絵美ちゃんは、過酷な経験をしたのです。心のコントロールを失ったとしても、
何の不思議もないように思います。それでも、時間がたてば、人は、辛い経験も、
忘れていくことが出来るのです。」
「・・・いずれにしても、今は、・・・当分は、萩で、暮らすのがいいと思います。
そうすれば、特に体に不調が無い限り、通院などは必要ないでしょう。
あなたにとっては、お辛いことと思いますが、今はそうなさるのが、絵美ちゃんのためだと、私は思います。」
病院を出て、フラフラと歩いた。
車は、まだ病院の駐車場に置いたままで、近くの喫茶店へ入った。
ソファータイプの席に、倒れ込むように座った。
アイスコーヒーを頼み、タバコに火をつけた。
あの時、新山口の駅で、絵美が駅を指さして言った。〈あのひとが来る〉。
あれは、実の父親の影か、あの学校で死んだ犯人のことだ、と思っていた。
その幻覚だと。
だが、それは、俺自身でもあった。
坂田医師の話しは、わかりやすく、いかにも正鵠を得ているようだった。
それだけに、俺には、辛過ぎた。