第五章「別居」 その三
駅の正面玄関に着いたとき、俺の後ろで、菜美が声をあげた。
「絵美、どうしたの?」
振り返って見ると、菜美がひざまずく様に、うなだれる絵美の顔をのぞき込んでいた。
「ん?どうした?」俺は、二人のところまで戻った。
「絵美が・・・ねえ、絵美、気分悪いの?」菜美の問いかけに、絵美は応えず、
うなだれていた。
「どうした?」俺はそう言いながら、絵美の顔をのぞきこんだ。
血の気のない、真っ青な顔色だった。
「おい、菜美、いったい・・・」
「絵美!絵美!どうしたの!」菜美が絵美の肩抱いて、声をかけた。
絵美は、ただその場に立ちつくしたまま、血の気のない顔をあげた。
「ママ、怖い。・・・あの人が来る。あそこはイヤ。」絵美が小さく指さした。
絵美の指さす先には、新山口の駅が、あった。
絵美は何かに怯えていた。ひとまず、駅前のベンチに座らせた。自動販売機で
冷たいお茶を買い、飲ませた。顔色は、少し戻ってきたが、まだ、立ち上がることは
出来そうになかった。
「駅を見て、怯えた?大阪へ帰ることが、そんなに怖いのか?」俺は、途方に暮れた。
「あなた、このまま、もう少し様子をみるわ。」菜美はじっと絵美の手を握って、
絵美の隣に、座っていた。
「そうだな。しばらくここにいよう。」
一時間近くそうしていた。絵美の顔色は、ようやく、もとに戻った。
「絵美、大丈夫?」菜美の問いかけに、「頭が痛い。」絵美はそう言って、
菜美の胸元に顔をうずめた。
「今日は、無理だな。」俺は、菜美の横に座り、菜美の肩を抱き、絵美の頭をなでた。
返したばかりのレンタカーをもう一度借り、来た道を引き返した。
「ごめんなさい。」車が動き出してすぐ、後部座席から、絵美が、弱々しく、言った。
「絵美、気にしなくていいんだぞ。まだ、気分悪いか?無理に話さなくていいぞ。」
菜美は後部座席で、寄り添うように、絵美の肩を抱いていた。
「あなた、今日帰るの?」
「いや、今夜はもう一晩、お義母さんに、お世話になるよ。」
「そう、よかった。・・・ごめんね。お仕事、大丈夫?」
「そんなこと、気にしなくていいよ。・・菜美、今夜はゆっくり休もう。
これからのことは、明日、また話そうな。」
「うん。わかった。」
バックミラーで見た、菜美の表情は、言いようのない不安と、疲れで、
少し青ざめていた。俺自身も、ひどく疲れていた。
俺は、時折バックミラーで、二人の様子をうかがいながら、車を走らせた。
萩への道は、今朝走った時とは違い、ひどく長く感じた。
途中で、菜美が母親に電話をし、簡単に事情を説明した。
引き返してきた俺たちを、義母は、何も言わず迎えてくれた。
夕食の準備を始めた義母を見て、俺は菜美に言った。
「みんなでどこかに食べに行こう。」
「いいの?疲れてない?」
「疲れてるのは、俺だけじゃないよ。菜美こそ、大丈夫か?」
「うん、大丈夫。」
「そうか、・・・寿司は?どこか近くにないか?・・・あっ、廻るやつな。」
菜美が、くすっ、と笑った。「あるよ。近くに、廻るのが。」
「絵美、寿司食べに行くか?クルクルって廻るやつ。」
「おばあちゃんも一緒?」
「ああ、もちろん。」
「じゃあ、行く。アイスも食べていい?」
「ああ、いいよ。何でも好きなだけ食べていい。」
「やったぁ。」絵美は、この家に帰って来たとたんに、急に元気になった。
不思議でもあり、寂しくもあった。
絵美の心の傷は、俺の想像の及ばない、恐ろしく深いもののように思えた。
その夜、菜美が俺を求めた。
俺は菜美を抱いた。別室の義母と娘を気遣って、菜美は声を殺した。
眠りに墜ちる前に、少しだけ話をした。
俺は、明日、自宅へ戻る。菜美と絵美は、このまま、しばらくここで暮らす。
月曜、俺が坂田医師を訪ね、今後の治療について、相談してくる。
それだけのことを、とりあえず、決めた。
まだ、夜が明けきらないうちに、目が覚めた。
俺が目覚めた気配に、菜美も、目を覚ましてしまった。
「ごめん、起こしたか?」俺は、布団の上にあぐらをかいて座った。
「ううん、いいの。何度も目が覚めて、今も、半分起きてたから。」
「眠れなかった?」額にかかる、菜美の髪を指先で直してやった。
「・・・大丈夫。気にしないで。」
「大丈夫って、顔じゃないぞ。・・・また、しばらく会えないかもな。」
「うん。」菜美は布団の中から、上目遣いに、俺をじっと見た。
「出来るだけ早く来るから。」菜美の額にキスをした。
「うん。・・・ごめんね。」
「ほら、また謝る。もう、それ、なしにしろ。」
「ごめん、・・あっ」菜美が口元を押さえた。
「ははは。」菜美の仕草が、おかしく、まだ暗い部屋で、俺は声を出して笑った。
そして、ふっと、笑顔を見せた菜美の上に、覆い被さった。
横になったまま、長い長いキスをした。
カーテンの向こうに、朝の光がやってくるまで、俺たちは、ずっと、
抱き合ったままで過ごした。
土曜の午後、俺はまた、独りになった。
新幹線の中では、ほとんど、死んだように眠った。
新大阪に着いた時、人の降りる気配で、起きた。
菜美と、絵美を、連れて帰ってくるはずの旅だったが、ただ、疲れだけを持ち帰った。
日曜から、溜まった仕事に追われた。月曜に行くつもりの病院は、坂田医師の都合で、
水曜日になった。だが、それは、俺にとっても、仕事の面で助かった。
〈水曜の1時〉指定された時間に出向いた。絵美の様子を、しっかり伝えるために、
あらかじめメモを用意した。
絵美の様子、仕草、言葉、出来るだけ正確に伝えたかった。
その上で、どうすれば、絵美に負担なく、家に帰すことが出来るのかを、
教えてもらいたかった。