第五章「別居」 その一
絵美が退院して、一週間が過ぎた。
昨夜、この冬初めて、まとまった雪が降り、町を白く染めた。今朝もまだ、街路樹は、雪をかぶっていた。
絵美の退院後、二日間、俺は、仕事を休み、家に居た。
今も、学校は休ませたままだが、俺の見たところ、絵美の様子に、変わったところはなかった。そろそろ、学校に行かせてもいいかもしれないと思った。
この一週間、菜美は一日中、絵美の側を離れようとしなかった。朝、絵美が目を覚ますと、洗面、着替え、食事、テレビ。絵美が何をしているときも、じっと絵美を見つめ、その表情の変化を、一瞬も見逃すまいとした。
今日、仕事から帰った俺に、菜美が言った。
「ねえ、あなた・・・お願いがあるんだけど。」
「ん?何だ?」
「うん・・・」菜美は自分から言い出したことを、妙に口ごもった。
「どうした?言いかけてやめるなよ。・・・何だ、頼みって?」
「ちょっとね、・・そう、少しの間でいいの、萩へ帰っちゃだめかな?」
菜美はそう言うと、本当に申し訳なさそうに俺を見て、それから、ふと目をそらした。
「離れて暮らすのか?絵美のため?」俺は予期せぬ菜美の頼みに、動揺した。
「うん、そう。」
「どうして?絵美の様子、あれから、変わったことないだろ?」
菜美は、俺の問いかけに応えず、台所へ向かい、背を向けて言った。
「絵美ね、表に出るのが怖いみたいなの。学校も、もう行きたくないって。あんなに大好きだった学校に、もう行きたくないって・・・」菜美はそういいながら、両手で顔を覆うと、肩を振るわせた。
「・・・ごめんね、だめかな?・・・絵美にね、今日聞いたの。〈少しの間、萩のおばあちゃんのところへ行く?〉って」
「絵美は行くと?」
「うん、・・・行きたいって。」
俺は台所へ行き、菜美を背中から抱きしめた。
「・・・あの子ね、こっちで怖い思いばかりしてるの。ずっと、何度もよ。」
「そうだね。」俺は言葉がなかった。
父親の一件、あの教室での恐怖、そして、また入院。
幼い絵美には、余りにも辛すぎる、過酷な出来事ばかりだった。それが、全部、この大阪で起きていた。
〈行くな〉とは、言えなかった。
「いつ?」
「明日。いい?」
「明日?もう決めたの?」
「うん、ごめんなさい。でも、早いほうがいいと思って。」
「そうか・・・キップは?」
「まだ。平日だし、大丈夫よ。」
「そうか・・・何時?」
「午前中の新幹線にしようと思ってる。」
「送るよ。」
「うん。・・・ありがとう。・・・あなた、ごめんね、ほんとに、ごめんね。」
「仕方ないよ。それが、絵美のためなら、仕方ない。一番可哀想なのは、絵美だからな。」
「ごめんなさい。」
「いいって、どうして菜美が謝るんだよ。」
「だって・・・ごめんね。」
菜美は、俺の腕の中で、崩れるように泣いた。
その夜、菜美が「抱いて。」と言った。
言いようのない寂しさを、紛らわすように、抱き合った。
菜美は、何度も俺の名を呼び、狂おしい声をあげた。
細い腕で、俺を抱きしめ、離そうとしなかった。
俺は、忌まわしい出来事の、全てを忘れたくて、菜美を求め続けた。
二人が、泥のような眠りについたのは、もう明け方に近かった。
新大阪へ向かう途中、俺たちは、ほとんど何も話さなかった。
静かな時間の中、何故か急に、〈もう帰ってこないかも知れない〉と、そんな恐ろしい予感に襲われた。必死でその〈馬鹿げた予感〉を打ち消そうとしたが、俺の頭の中では、黒くおぞましい渦が、ぐるぐると回り始めた。
《菜美、行かないでくれ。》そう言いたかった。だが、どうしても、言えなかった。
新幹線は、定刻通りにホームを滑り出し、俺と菜美との距離を、無情な速度で、引き離した。真冬の風が、長いホームを吹き抜けた。