第四章 「絆」 その二
「ママ、行くよ。行って来ま〜す。」
絵美は勢い良くランドセルを担ぎ上げると、ドアを背中で押し開けて、
家の中の菜美に声をかけた。
「待って、待って。ほら、体操服!」菜美は慌てて、玄関までの短い廊下を走った。
「もう、慌てるから、忘れるでしょ?気を付けて行くのよ。」
「はーい。」絵美は、菜美から体操服を受け取ると、マンションの通路を
エレベーターに向かって走りだした。
「走っちゃだめだって!・・・もう・・。」
菜美はそう言いながら、ランドセルを大きく揺らしながら走って行く娘の、後ろ姿を、
嬉しそうに見つめていた。
「あれ?もう行ったの?」
俺がトイレから出て行くと、菜美が外からドアを開けて入ってくるところだった。
「うん、今。」菜美はそう言って俺を見ると、突然、プッっと吹き出すように笑った。
「ん?何?なんだよ?」
「あははははっ・・・さっき、絵美がね、〈パパは?〉って聞くから、トイレよって言ったら、〈じゃあ、三十分も遅刻するから待ってられない。ママが代わりにキスしてあげて〉
って言って、出ていったわ。」
「あっ・・・毎朝三十分もトイレにいる訳じゃないだろうが・・」
「そうお?でも結構長いかも・・・アハハハハ・・」
菜美はそう言って、また笑い出した。
三学期が始まっていた。
節子先生は、年末に退院はしたものの、まだ教室には戻れずにいた。
事件以来、代理として、山田先生が、四年三組をみていた。
事件が事件だけに、子供達の心のケアには万全が期せられたが、幸いにして、
子供達の誰一人として、精神的に不安定になったりする様子は見られなかった。
三年生の一年間と、四年生の一学期、このクラスは節子先生がみていた。
その子供達の心は、知らぬ間に〈強く〉なっていた。
人は誰でも、一人になれば、弱いものだ。心も脆い。
それは、大人でも、子供でも、同じだ。
弱いからこそ、お互いを信じ、寄り添って生きることが大事なのだ。
信じ会える家族や友達、愛する人に恵まれれば、弱いはずの人が、強くなる。
脆い心が、強くなる。
節子先生は、その事を子供達にしっかりと教えていた。
いや、教えると言うよりも、感じさせていたのだ。だからこそ、こういう時に、
その強さが出るのだ。
絵美も、その他の子供達も、〈みんなで仲良く待っててね〉と言った節子先生の言葉を、
信じて待っていた。
節子先生から子供達に宛てた手紙は、随分と沢山になっていたが、その全部を、
山田先生がバインダーに綴じ、黒板の横につり下げていた。
子供達は、いつも誰かしら、その手紙を読んでいた。
子供達と、節子先生の絆は、何も変わることなく、そこにあった。
昨日の社会科の時間に、宿題が出された。
「最近の新聞記事から、気になる記事を切り抜いて来る。」
そして、今日、みんなが思い思いの記事を切り抜いてきた。
社会科の時間は、机を並べ替える。グループごとに机を合わせて、
授業を受けることになっていた。
絵美のグループは、男子が三人、女子が四人の七人だった。
配られた大きめの紙に、〈各自が切り抜いてきた記事を張り付け、その解説や、
感想を、グループで話し合って書く。〉というのが、今日の社会科の授業だった。
絵美は、〈長崎県の海辺に、大量のイルカが打ち上げられた。〉という記事を
持っていった。
〈その数、約100頭。地元の人たちやダイバーの手によって海に帰そうとしたが、
半数が死んでしまった。〉そのような記事だった。
「かわいそうなイルカ。でも、どうしてイルカ達は浜辺に来たりしたのか?」
グループで話し合って、そんな感想を記事の横に書いた。
絵美の記事の隣に、男子の一人が、持ってきた記事を、張り付けた。