春と謳う
鈴蘭の後を追ってから、まだ十秒も経っていないだろう。
「きゃっ」短い悲鳴と共に、突然何かが僕の胸にドンとぶつかった。
駆け足になっていたのを踏みとどまる。
地面に思いっきり尻餅をついている女の子がいた。
上は水色の長袖カットソー、下は焦げ茶色のストレートパンツに膝まで丈のある黒のブーツを履いている。茶色のウェーブがかった髪は肩下まであり、ひらひら舞っていた。
走ってきた僕に突き飛ばされる形で転んでしまったみたいだ。
「あっ、ごめん。大丈夫?」
僕はその女の子に右手を差し出す。
すると、彼女は目をパチパチを数度瞬かせて不思議そうな顔を浮かべた。やがて、「……あっ」と我に返ったように僕の手を握り返した。
僕はそのまま手を引き、彼女を起き上がらせた。
彼女はなんだか恥ずかしそうに顔を赤らめつつ、パンツについた砂ほこりは払った。
「あ、あはははは……なんだか恥ずかしいな、こういうの」
彼女ははにかむような表情で言った。
「こういうのって?」
「えっ? えっと……今みたいに、手を差しのべられて、起こされるの、かな?」
「恥ずかしいの、これ?」
「……うーん、少し照れくさいかも」
頬を若干赤らめて彼女はそう言った。
純朴そうな子だな、というのが彼女に対する僕の印象だった。服装なんかにはけっこう気を使っていそうなのに、どこかあかぬけない雰囲気がある。はにかむような人懐こい表情も、相手を和ませるような温かみを持っている。
「本当にゴメン。怪我はないかな?」
改めて僕は彼女に謝罪した。すると彼女は両手を顔の前で小さく振って優しく微笑んだ。
「別に気にしなくてもいいよ。私もよそ見しながら歩いてたし。おあいこおあいこ」
まぁ、そんなに強くぶつかったわけでもないし、怪我がないのであれば良かった。ひとまず胸を撫で下ろす。
「それよりも霧森くん。急いでたんじゃないの?」
彼女に言われてハッとする。そうだ、鈴蘭。
慌てて周囲を見渡す。しかし、鈴蘭の姿はどこにも見えなかった。完全に見失ってしまったらしい。
「……別に急いでなんかないよ」
僕は彼女にそう言い繕った。
鈴蘭も馬鹿じゃない。いくらなんでも勝手に遠くまで行ってしまうなんてことはないだろう。彼女のことはひとまず置いておくことにしよう。
――って、あれ?
「ねぇ、どうして僕の名前知ってるの?」
僕は彼女に訊ねた。
あまりに自然に言われたから一瞬気が付かなかった。しかし、確かに今彼女ははっきりと、僕のことを『霧森くん』と言った。僕はまだ彼女に名乗っていないはずだ。
彼女は「えっ」と虚を突かれたような声を出した。しかし、次の瞬間急に顔が紅潮し、慌てふためくように手を前に突き出してぶんぶん振り始めた。
「えっ、あっ、いや、ち、ちがうの! あ、いや、違うっていうかなんていうか……」
何かを必死に伝えようとしているのは分かるのだけど、何が言いたいのかがさっぱり分からない 。違うって何が違うのだ?
眉をひそめて怪訝そうな表情をして見せると、彼女はやがて落ち着き、「ハァ、何言ってんだろ私」と半笑いを浮かべつつ自嘲気味にぼやいた。
「……ホラ、霧森くんってけっこう有名だし」
「えっ、僕って有名なの?」
初耳である。
「有名っていうかなんていうか。……まぁ、何かと目立つし」
「目立つって何が?」
「えっ!? ……まぁ色々」
「……ふぅん。全く身に覚えのない話だね」
自分としては、誰にも全く注目されない日陰者だという自覚しかないのだが。そういう人間であることを心がけてもいる。僕の一体何がそんなに周囲の目を引いているのだろうか。
ていうか、彼女の声、まだ若干上ずっている気がする。なんで?
「とにかく、どういう訳か僕が有名人だったから、春日野さんは僕の名前を知っていたんだね」
「う、うん! そうそう!!」
彼女は力強く握りこぶしを作って、コクコク上下に大きく頷く。目に力が入り過ぎて、若干怖い。
「って、あれ?」
ワンテンポ遅れて、彼女はようやく気が付く。
「霧森くん。今、私のことなんて呼んだ?」
不思議そうに彼女は訊ねた。
「春日野さん。君の名前、春日野陽菜だろ?」
彼女はキョトンとした表情のまま、数秒ほど固まった。
「……え、ええぇぇぇぇ!? なんで霧森くんが私の名前知ってるの!? しかもフルネーム!!」
しばしの空白の時の後、堰が壊れたように驚きの声が上がった。随分と感情表現が豊かな子だな、と感心するほどの驚嘆ぶりだった。ここまでくると見ていて愉快だ。からかい甲斐がある。
「転んだ拍子に書かれているのが見えたんだよ、春日野さんの名前」
「……え? 書かれてたって、何に?」
「春日野さんの下着」
途端、彼女は燃えるように顔中を真っ赤に染め上げて、俊敏な動作で下半身を抑え込んだ。それはまるでスカートを腿に押しつけて下半身を隠す様な仕草だった。
だが、彼女は今着ているのはストレートパンツ。当然ながら転んだ程度で下着は見えないし、そんな動作に何の意味もない。
彼女もそれに気が付いたらしく、はっと目を見開いた。
「……へぇー。春日野さん、下着に名前書いてるんだ?」
彼女のことなどお構いなく、悪びれることなくそんなことを言ってのけると、彼女は上目遣いに僕を睨みつけてきた。瞳の端には、ほんの少し涙が溜まっている。
「……ッ、書いてないもん!! バカ!!!」
彼女は怒鳴るように僕に罵声を浴びせかけた。そしてそのまま反転して、どこかへ走り去ってしまった。
僕はそんな彼女の後姿をただ呆然と眺める。
……何言ってんだろ、僕。
不意に訪れる自己嫌悪の念に、思わず苦笑が漏れる。下手すれば裁判沙汰のセクハラ発言だ。つい口が滑ってしまった。後先考えないにも程がある。
とはいえ、なかなか面白い子だったな。あそこまでの天然も今時珍しい。
今のできっと嫌われてしまっただろう。もう二度と口もきいてもらえまい。少し惜しいことをしてしまったかもしれないな。
まぁ、やってしまったものは今更どうしようもないので、気にしたってしょうがない。
「さて、と……」
僕は気を取り直して、鈴蘭の姿を探すことにした。