紅に白は落とされた
目を開いた視線の先に広がっていたのは、赤と黒と灰色の絵の具で厚塗りされたような、凄惨な世界だった。
真っ先に目についたのが、目の前の廃墟。
どんよりとした雲空を背景に、不気味にそびえていた。
元々、白一色に塗られていたであろう壁面のあちこちに、赤黒い汚れがこびり付いている。少し視線を動かせば、崩壊して人一人分くらい余裕で通れるほどの大きな穴が空いている所もあった。
一瞬、病院かと思った。
しかし、見渡してみてもこの建物には窓が一つもない。
次に気が付いたのが、僕の周囲で地べたに這いつくばるに倒れている人間だった。
十人、いや二十人以上いるだろうか。
僕から見えないところにまだまだいるかもしれない。
ひと目で彼らがすでに息をしていないことが分かった。
なにせ、どれ一つとっても、まともな人間の構造を為していないのだから。腕がもげているものもいれば、首が百八十度ねじれているものもある。おのおのその姿は百様であり、共通しているのはその全員が血だまりを作り、そして身じろぎ一つせず石のように転がっていることだけだ。
真っ当な光景ではなかった。
まさに地獄絵図が自分の目の前に広がっている。
ふと、そこで自分の掌に違和感を覚えた。
軽く握りこんだ手をゆっくりと開くと、にちゃあ、と気色の悪い感触が広がった。
血だ。血が僕の手を赤々と染めあげていた。
いや、手だけじゃない。よく見れば、服や靴にもべったり付着している。
それに気が付いた途端、鼻腔にねっとり纏わりつくような濃厚な臭いが僕の意識に浸食し出した。
気持ち悪い……。
思わず吐き気が込み上げる。
ここはどこだろうか。
なぜ自分はこんな所にいるのだろうか。まるで記憶が無い。
何げなく、頭上の方を仰ぎ見た。
天高く伸びる壁が見えた。今、僕が背中を預けている壁だ。恐らくこの建物を囲っている塀か何かだろう。ゆうに十メートルは超えている。
自分がこの状況になるまでの経緯を思い返そうと、頭を巡らせようと思った、その時――
「ねぇ。お隣、空いているかしら?」
唐突に声が降ってきた。
思考を中断して顔を上げた。そこに立っていたのは、純白を風に靡かせる、一人の可憐な少女だった。
歳は十歳半ばもいっていないだろう。僕より年下だと思う。
この荒んだ場所には到底似つかわしくない、可愛らしいレースが胸元や裾に施された真っ白なワンピース。その下の肌も、見る者を魅入るような美しい白皙の肌。髪も艶やかな銀色を腰の辺りまで伸ばしている。
そのあまりに周囲から際立っている圧倒的な白さに、思わず彼女を天使と錯覚した。ひどく場違いではあるが、しばらくの間僕は彼女に見とれてしまった。
彼女は僕の無言を肯定の意味と取ったのか、おもむろに僕の隣まで歩み寄り、その場に腰を下ろした。
「……服、汚れちゃうよ」
僕の口から出た第一声がそれだった。言った直後に、我ながら間抜けみたいだと思った。
「全然平気」
彼女は満面の笑みでもって、僕の言葉に応えた。それは、あまりに無垢で屈託のない表情であった。
「痛ッ」
その刹那、わけもなく、ズキン、と僕の頭が痛んだ。鋭利な刃物を連想させる、鋭い痛みであった。思わず右手で頭を押さえる。
「大丈夫?」
隣の少女が心配そうに僕の顔を覗きこむ。「大丈夫」と一声かけて、僕は軽く笑って見せた。
「ねぇ、いくつか質問してもいい? 正直、訊きたいことがたくさんあり過ぎて何から訊いていいのか迷うのだけど――」
「ねぇ、アナタなんてお名前なの?」
喋りながらも質問したいことを頭の中で整理している矢先に、彼女がいきなり質問をかぶせてきた。しばらく呆気にとられていたが、彼女は笑った表情を崩さず僕の反応を待った。
「……マヤ」
「マヤ? 女の子みたいな名前ね」
放っておいて欲しいと思った。自分でもけっこう気にしているのだ。
「……それでね、僕からまず訊きたいのが――」
「歳はいくつ?」
再度質問を試みた僕だが、これも彼女に遮られてしまった。怖ろしくマイペースな少女だ。
「……十五」
「そうなの? 歳よりも大人っぽく感じるわ」
「それはどうも」
このままでは彼女のペースに飲まれっぱなしだ。もう直球で訊くことにした。
「そういう、君は誰なの?」
僕の問いかけに、彼女は数秒の間、目をパチパチ瞬かせて、
「え? 私は……悪魔よ?」
と、さもそれが当たり前であるかのように言ってのけた。僕は思わず耳を疑った。
悪魔? あの漫画とかゲームによく出てくるアレ?
……何の悪い冗談だ。
「あのさ、僕は真面目に訊いてるんだけど?」
「え? それってまるで私がふざけているみたいに聞こえるんだけど」
「いや、ふざけてるでしょ、実際」
僕の言葉に気分を害したのか、少女は眉間にしわを寄せて僕を訝しげに見る。
「何おかしなこと言ってるの? アナタが私を呼んだんでしょ?」
「えっ……僕が?」
「ええ、そうでしょ? その証拠に、この惨状――」
そう言って少女は立ち上がり、腕を伸ばして周囲を指し示す。
「――これはどう見ても、そのせいでしょ?」
彼女の指の先にあるもの。
コンクリートの壁が粉々に砕かれ、見るも無残な廃墟と化した建物。
おぞましいまでに痛ましく破壊され尽くした、死体の数々。
人知を超える何らかの力を疑ってしまう、徹底的に蹂躙された空間。
――ズキン。
再び僕の頭の中でナイフが刃を突き立てた。先ほどとは比べ物にならないほどの激痛。
「あ、あ、ああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁ!!」
痛みに耐えかねて力の限り叫んだ。
自分でも驚くほど甲高い、悲痛の声だった。
「う、ああぁぁぁあぁぁぁああぁぁぁぁぁぁあああああ、ああああ……ッ」
代わる代わるフラッシュバックするように脳裏に現れるイメージの数々。
まるで、今まで封じられていた記憶が、怒濤のうねりとなって一気に脳に攻め込んでいるようだ。今にもそれらの荒波は頭がい骨を内側から破壊して、溢れ出さんばかりの勢い。
涎を撒き散らし、発狂したように喚き散らす。だがそんなこと気にしてられない。
頭が、割れ、る――。
イタイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ。
シヌシヌシヌシヌシヌシヌシヌシヌシヌシヌシヌシヌシヌシヌシヌ。
――シニ、タイ。
数分ぐらい経っただろうか。
もしかしてほんの数秒のことだったかもしれない。しかし、僕にとってその時間は途方もなく長く感じた。
やがて痛みも徐々に引き、僕も徐々に冷静を取り戻しつつあった。
声が涸れるまで叫んだ。そうすることでしか意識が保てなかった。
涎でべたべたになった口を袖口で拭う。にちゃぁ、と粘性を伴った嫌な感触と苦い鉄の味が広がった。
……最悪だ。
「使う?」
そう言って彼女が差しだしたのは、スカートの裾だった。
「ごめんなさい。残念ながら今はハンカチは持ち合わせていないの」
「……いいよ。そんな高そうな服を汚せない」
血の混じった唾を吐き、そう言った。「そう」と彼女は一言呟き、再び僕の傍らに座りこんだ。
「思い出した?」
僕のあれだけの発狂っぷりを間近で見ながら、彼女はまるで何も無かったかのように微笑みながら訊いてきた。相当肝が座っているのだろう。
「うん。……いや、ゴメン。どうにも混乱していてね。君に関する記憶は、いまいちぼやけてる」
彼女は不思議そうに首を小さく傾げた。
「上手く言えなくてゴメン」
「……どういうことなの? 私を呼び寄せたのはアナタなのよね?」
「状況を見れば、ね。これだけの死体の山の中で間抜けに生きているし、周囲には僕以外に誰もいない。それにまぁ、心当たりもある」
僕は無感情な声でそう吐き捨てた。彼女はしばらく僕の顔をまじまじと見つめた後、「そう」と一言漏らした。
「だったらとりあえず、私に『名前』を貰えるかしら?」
「名前?」
聞き返すと少女はコクリと頷いた。
「君って呼ばれるのは、あまり好きじゃないの」
そうか、彼女は今名無しなのか。だから僕がつけないといけないらしい。
「……何か好きな物とかある?」
「好きな物?」
「そう。取っ掛かりにするから」
僕がそう言うと、彼女は「そうねぇ……」と顎を人差し指で押さえながら考えこみ出した。
だが、すぐに何か思いついたらしく、ぱっと明るい表情を見せた。
「お花は結構好きだわ。綺麗ですもの」
花、かぁ……。彼女には悪いが、そこまで詳しくない。それでも貧しい知識を総動員して彼女に合いそうなものを探す。
考えながら、彼女の姿をぼんやりと眺める。本当に綺麗な顔立ちをしていると思う。そして全身を白で包んでいることもあってか、清楚で上品な雰囲気をまとっている。
こんなに白の似合う少女が悪魔とは、にわかには信じがたいと改めて思う。
……白。
……白い、花。
「……決めた」
「え、本当?」
「うん。ぴったりの名前だと思う」
僕が頷いてみせると、彼女は分かりやすく顔を輝かせた。
「どんな名前なのかしら。ちょっと楽しみ」
「そこまで期待されると、若干気が引けるけど……」
彼女の爛々とする瞳に思わず言い淀む。誰かに名前を付けてあげるのって、不思議と緊張するものなのだな。何だかムズ痒い。
それでも、あまり待たせては彼女に悪いだろう。
僕は意を決して、その名を呼んだ。
「君の名前は、今日から――――」