政敵の公爵家に嫁いだら嫌がらせされたので、夫には盾として活躍していただきます!
空は高く、青く澄み渡っていた。
清々しい秋晴れの下、私は今日、嫁に行く。
政敵――ローゼンフェルト公爵家へ。
『政敵の公爵家に嫁いだら嫌がらせされたので、夫には盾として活躍していただきます!』
「それでは行ってきます。お父さま、お母さま、お兄さま」
二十年間暮らした我が家の前で、私は家族にお辞儀をした。
私の隣に並び立つ黒髪の御仁は、今日から夫となるローゼンフェルト公爵家の嫡男・ヴィクトル次期公爵だ。
同い年と聞いているが、切れ長の整った顔立ちで、随分大人びた雰囲気だった。
「何かあったらすぐに連絡するんだぞ」
父がヴィクトルを見ながら言った。
「そうよ、嫌なことがあったらすぐに帰ってくるのよ」
続いて母もヴィクトルを見ながら言った。
「何かあったら俺たちがいつでも成敗してやるからな」
最後に、兄が腰の剣を撫でながらヴィクトルを見て言った。
父は一歩前に踏み出すと、ヴィクトルの肩をポンと叩いた。
「盟約を……覚えているな?」
「ここで全文そらんじてみせましょうか?」
ヴィクトルは口の端を吊り上げて答えた。
この婚姻は、古くからの盟約で取り決められた。
清廉潔白な我がグランヴェール公爵家と、法律スレスレの陰湿な戦略を好むローゼンフェルト家。
生来の相性の悪さからいがみ合いが苛烈になり、その結果、先祖が三代に一度は婚姻を結ぶことを決めた。
そして私とこのヴィクトルが、うっかりそれに該当してしまった。
「無駄な質問だったな」
父が鼻を鳴らして言った。
父の言う通り、盟約なんて関係ない。
その行間を突いてくるのがローゼンフェルトのやり方だ。
私だってこんな男と結婚なんてしたくない。
世の令嬢にはこの顔が人気のようだが、あまりタイプじゃない。
せめて顔がタイプなら、もう少しテンションが上がったのに。
「では、そろそろ参ります。いつでも遊びに来てくださいね」
名残惜しいが、家族の殺意が高まってきたので、そろそろ引き上げることにした。
馬車に乗ろうとすると、一応エスコートしてくれた。
嫌そうな顔をされたので、力強くその手を握っておいた。
「ありがとうございます」
この男、前にも増して顔から陰気が漏れている。
間違いなく陰湿な嫌がらせをしてくるだろう。
政敵に嫁ぐ以上、私も覚悟はできている。
身構えつつ馬車に乗り込むと、早速来た。
上座にしかクッションが置かれておらず、ヴィクトルはその上にどかっと座った。
私は満面の笑みを浮かべて、ヴィクトルの隣に尻を捩じ込んで座った。
「……おい、向こうに座れ」
「だって新婚ですから、くっついて座りたいのです」
ヴィクトルを尻圧で押し出してクッションの半分以上を侵略した。
小さい頃から、母の膝の上を巡って兄とこの尻で戦ってきた。
こんな箱入り男に尻圧で負けるはずがない。
「はしたないぞ」
ヴィクトルは立ち上がって反対側の席に座った。
「ごめんなさい。私、ちょっと気分が上がってしまって……」
しおらしく言ってみたが、ガン無視された。
やはりこの男は一筋縄ではいかない。
ふかふかのクッションに座り直して、私は頭の中で作戦会議を開始した。
* * *
ほどなくして、馬車はローゼンフェルト公爵邸に到着した。
馬車を降りる時、ヴィクトルがお尻をさすっていた。
次からはクッションを二つ、忘れずに用意してくれるだろう。
門を潜ると、我が家に負けず劣らずの立派な家がそびえ立っていた。
その横には、離れのような別の棟もあった。
「目の前にあるのが本邸だ。両親が暮らしている。お前が出入りしていいのは、右の別邸だけだ」
「承知しました。公爵さまへのご挨拶はいつにいたしましょう」
「いい。お前は別邸で大人しくしていろ。行くぞ」
歩き始めたヴィクトルの脇に手をねじ込んで、エスコートさせた。
「お食事などはご両親と一緒ですか?」
「いいや、完全に別の生活をしてもらう」
よかった。
三対一で嫌がらせされると面倒だが、この男とタイマンなら勝ち目はある。
使用人からの挨拶すらないまま、私は別邸に足を踏み入れた。
玄関には、事前に送った私の荷物が乱雑に置かれていた。
家は一見綺麗だが、隅の方には埃が積もっていた。
あんまり歓迎されてなさそうだ。
「盟約通り、衣食住は用意してある。俺は仕事があるから、しばらくは本邸から通って――」
「今日からここが、私とヴィクトルさまの愛の巣なのですね」
すかさずヴィクトルの腕を掴んで遮った。
ヴィクトルは目を丸くしていた。
「だって夫婦なのですから、同じ家に住んで、同じ部屋で食事を取って、同じベッドで――ね?」
絶対に逃がしはしない。
ヴィクトルも道連れだ。
なんせこの男は、敵に対する極上の盾だ。
ちょうど御者が私の手荷物を持ってやってきたので、声をかけた。
「あなた、ヴィクトルさまは今日からここで私と一緒に生活されるそうよ。ヴィクトルさまの荷物を運び込んでちょうだい」
「おい、待て」
「何か問題でも?」
「盟約は守ってる。今すぐ一緒に暮らす必要はないだろう」
この男にルールを持ち出されると分が悪い。
早くも、兄に教わった伝家の宝刀を抜く時が来てしまった。
私は深く息を吸うと、ヴィクトルの腕に自身の腕を絡めた。
「でもぉ……寂しいんですぅ……」
唇を僅かに突き出し、上目遣いで殿方を見上げ、甘えた声を出す。
瞬きは多めで。
兄からの教えを忠実に守ったはずだが、虫を見るような顔をされた。
内心で舌打ちしながら、腕を離した。
「それともまさか、別邸の衣食住に何か不都合が?」
「あるわけないだろう」
「では、何の問題もありませんね!」
ヴィクトルはまだ抗議してきたが、寂しいを連呼していたら折れた。
「ではヴィクトルさま。気を取り直して、私の荷物を運んでいただけませんか?」
「なぜ俺が」
「使用人たちはとっても忙しいようで、先ほどから誰も見かけないのです」
御者が置いていった私のトランクを、ススッと足でヴィクトルの方へ押しやった。
「わたしぃ、フォークより重いものは持ったことがなくてぇ……」
指先をツンツンしながら再び宝刀を抜くと、ヴィクトルは額を押さえて言った。
「おい、誰かいるだろ。仕事だ!」
ヴィクトルの言葉に、部屋の奥から二十人ぐらいの使用人が慌てて走ってきた。
「こんなにいらないんだけどな……」
あっという間に消えていく荷物を見ながら、私はポツリとつぶやいた。
* * *
その後、ヴィクトルに屋敷を案内してもらった。
使用人に任せようとしたので、駄々をこねまくって直々に案内させた。
「ここがリビングで、奥の扉は食堂に繋がっている」
掃除を命じられた使用人たちが、家中であくせくと働いていた。
皆、私に鋭い目つきを向けてくる。
グランヴェールとの確執の強さをヒシヒシと感じる。
「朝食は七時、昼食は十二時、夕食は七時だ」
「承知いたしました」
「遅刻したらお前の分はない」
実家とほとんど同じリズムなので、問題ないだろう。
「朝まで盛り上がってしまって寝坊した場合も、朝食は抜きでしょうか?」
笑顔で問いかけると、使用人たちの動きが止まった。
ヴィクトルは鼻で笑うと、横目で私を見た。
「朝まで楽しませる自信があるのか」
「ええ、それはもう」
しばらく無言で睨み合っていたが、ヴィクトルは不意に目を逸らしてパンと手を叩いた。
「手が止まってるぞ」
使用人たちが、弾かれたように掃除を再開した。
そのまま一階を見終えて、二階に上がった。
「ここが寝室だ」
寝心地のよさそうな、巨大なベッドだった。
しかし、枕も掛け布団も置かれていなかった。
「これは早速、『私で暖を取りたい』という情熱的なお誘いなのでしょうか?」
両頬に手を当てて私は恥じらう乙女のポーズを取った。
「おい、布団と枕を持ってこい」
「は、はいぃ! ただいま!」
近くで掃除をしていた使用人が、ヴィクトルに睨まれて震えあがった。
その後も部屋を見て回ると、至る所に嫌がらせの痕跡が発見されたが、ヴィクトルが全て片付けてくれた。
見学を終え、快適になった室内で私は優雅に茶をしばいていた。
薄いしぬるいが、まあいい。
色々と嫌がらせはあるものの、宣言通り衣食住は保証されている。
この程度、子犬の甘噛みだ。
「大丈夫ですか?」
なぜかぐったりしているヴィクトルに声をかけると、ギロリと睨まれた。
お茶にも、ヴィクトルにだけ出されたクッキーにも手をつけていない。
「あーんして差し上げましょうか?」
「いらん」
「では、私がいただいていいですか?」
「最初からそっちが狙いだろ」
ヴィクトルはそれ以上何も言わず、クッキーの皿をこちらに押し出した。
「ありがとうございます」
バターの良い香りに食欲が刺激されて、遠慮なく全部いただいた。
* * *
私室として与えられた部屋で荷物を片付けていると、瞬く間に夕食の時間になった。
すっかりピカピカになった廊下を歩いて、食堂に向かった。
ヴィクトルは先に来ていた。
避けられるかと思ったが、そこまで下衆な男ではないらしい。
「素敵なお部屋をありがとうございます」
先に出された木の実をつまみながら、ヴィクトルに話しかけた。
埃がなくなってしまえば、お風呂もついていてそれなりに快適な部屋だった。
「片付けは終わったのか」
「いえ、まだ途中です」
胡桃に手を伸ばすと、虫食い穴が開いていた。
そして穴からひょっこりと、小さな虫が顔を出した。
これは嫌がらせなのか、偶然なのか、判断が難しい。
疑わしきは罰せずということで、こっそり虫をつまんでその辺に逃がした。
「お待たせしました、こちら、かぼちゃのポタージュでございます」
給仕係がスープを持ってきた。
ヴィクトルの前に置かれた綺麗な黄色のスープを見てウキウキしていると、私の前には薄っすら黄ばんだお湯が置かれた。
「こちらは?」
「かぼちゃのポタージュでございます」
給仕は笑顔で答えて、下がっていった。
私は立ち上がり、ヴィクトルの皿と自分の皿を入れ替えた。
「給仕の方がお間違いになったようです」
甘い香りの立ち込めるかぼちゃスープを持って、自席に戻った。
先ほどの給仕が、青い顔をしていた。
「こんな薄いスープ、普通はお願いしないと出てこないでしょう? 私はそんなお願いはしていないので、ヴィクトルさまの好みなのかと」
スプーンを取って、一口すする。
濃厚な甘みが口いっぱいに広がって、思わず頬を緩めた。
ヴィクトルはスプーンを握りしめたまま、小さく震えていた。
「あなた、ヴィクトルさまが薄いスープにお怒りよ! 早く謝りなさい!」
「も、申し訳ございません、旦那さま! すぐにお取り替えいたします」
給仕が慌ててヴィクトルのそばに駆け寄った。
しかし、ヴィクトルはそれを手で制した。
「もうこれでいい、下がれ」
何度も頭を下げる使用人を尻目に、私は美味しいスープを飲んだ。
* * *
夕食を終えて湯浴みをしようとしたが、誰も準備をしてくれなかった。
仕方なくヴィクトルの湯殿に押しかけようとしたら、やっと用意してもらえた。
「はーあったまったぁ」
一人で風呂に入るのは初めてだったが、案外何とかなった。
「あっ」
しかし、タオルで身体を拭きながら重大なことに気づいた。
下着がない。
なんなら寝間着もない。
これは嫌がらせでもなんでもない。
ただ、私が忘れていただけだ。
幸い、風呂場は私の私室と繋がっている。
どうせ誰もいないので、タオルだけ巻いて私室に戻った。
「あれ、どこだろ」
引き出しを漁っていると下着はすぐに見つかったが、寝間着がなかった。
そういえば、ドレスもまだ見ていない。
使用人がどこかに片付けたのだろうか。
それとも未開封の箱の中に残っているのだろうか。
部屋を見渡していると、奥にもう一つ扉があった。
別の収納だろうかと思って、扉を開けた。
「え?」
「は?」
ヴィクトルがソファーに座っていた。
寝室だった。
「情熱が過ぎないか?」
「寝間着を探していただけです。何か貸していただけませんか」
ヴィクトルは立ち上がると、近くの引き出しを開けた。
「これでも着てろ」
取り出した白い服を、ヴィクトルはこちらに放り投げた。
受け取ろうと両手を伸ばした瞬間、自らの過ちに気づいた。
胸元を押さえていたタオルがヒラリと舞って、床に吸われていった。
世界のすべてがゆっくりに見えた。
白い服が空中で広がって、顔面にバサリとかかった。
「うっ」
視界が真っ白に染まり、部屋は静寂に包まれた。
とんでもない格好になっていることだけはわかるが、さすがに服をはぎ取る勇気はなかった。
このまま、何も見えないまま、静かに後ずさろう。
そう思っていると、こちらに近づいてくる足音が聞こえた。
目の前にヴィクトルの気配を感じて固まっていると、大きなタオルのようなもので身体を包まれた。
「俺は何も見てない」
その言葉とともに、そっと部屋に押し戻された。
扉が閉まる音がしても、私はしばらくそのまま立ちすくんでいた。
* * *
無事に着替えを終えると、ひどく喉が渇いていた。
テーブルに置かれた水差しを取って、グラスに水を注いだ。
勢いよく飲んだ瞬間、咽せた。
「酸っぱ!」
致死量のレモンを食らった。
毒より陰湿だが、酸っぱいだけでは盟約違反にならない。
さすがローゼンフェルト、嫌なラインを的確に突いてくる。
水は諦めて、鏡台の前に腰掛けた。
髪に香油を塗って、丁寧に梳かす。
「侍女が欲しいなあ……」
母から受け継いだ栗色の癖毛は気に入っているが、よく絡まって、手入れが大変だ。
本当は実家から侍女を連れてきたかったが、この戦争に巻き込みたくなかった。
使用人という立場上、私のように反撃することもできないだろう。
「もうこれでいいや」
適度に梳かして、櫛を置いた。
どうせ今からグチャグチャになる。
先ほど借りたタオルを持って寝室に入ると、ヴィクトルはベッドに腰掛けて手帳のようなものを見ていた。
使い込んでいるのか、所々革が剥がれていた。
「これ、ありがとうございました」
ヴィクトルはタオルを受け取ると、サイドテーブルに手帳を置いた。
その脇にある水差しとグラスが目に入った。
「水をいただいてもいいですか?」
「好きにしろ」
さすがにヴィクトルが飲む水に悪さはしないだろう。
そう思って飲んで、再び咽せた。
私はヴィクトルの前に立ってグラスを突き出した。
「ヴィクトルさまも、よければどうぞ」
「いい」
「そう言わず。はい、あーん」
ヴィクトルは忌々しげな顔で私の手からグラスをひったくった。
そして、一息にグラスの水を飲み干した。
「ん」
何のリアクションもなく、私に空のグラスを突き返してきた。
「あの、変なところは?」
「は? お前も飲んだだろう、ただのレモン水だ」
ヴィクトルは不思議そうな顔をして、また手帳を手に取った。
どう考えても違うが、嘘をついている様子はなかった。
試しにもう一度飲んでみたが、やっぱり私には酸っぱかった。
もしかして世間一般のレモン水は、こんなに酸っぱいのだろうか。
我が家のレモン耐性が低すぎるのだろうか。
考えながら、ヴィクトルの隣に腰を下ろした。
横から手帳を覗き込むと、サッと避けられた。
「何を見ているのですか?」
「家のことだ。お前には見せられない」
「政敵だから――ですか?」
ヴィクトルの黒い瞳がこちらを見た。
じっと見ていると、黒ではなくこげ茶のような色をしていることに気づいた。
「そうだ」
「これからもずっと政敵なんでしょうか?」
「さあ」
ヴィクトルは手元に視線を落とすと、パタンと手帳を畳んだ。
「俺たち次第じゃないか」
過去の盟約婚の記録には、ろくなものがなかった。
三日で離縁した例もあれば、早々に片割れが病死して遺産で遊び暮らした例もあった。
いずれ自分の辿る末路かもしれないと、心の隅には常に不安があった。
ヴィクトルは陰湿で、嫌味たらしくて、顔だってタイプじゃない。
けれど、この馬鹿げた盟約に未来をゆだねるほど、愚かな男ではないのだろう。
「わかりました」
私はそれだけ答えて、ベッドに上がった。
思うことはあるが、ひとまず貴族として大切な務めを果たさなければならない。
ヴィクトルの袖を引いて、私はニッコリ笑った。
「ところでヴィクトルさま。情熱的なお誘いはまだですか?」
ヴィクトルは顔を引き攣らせて後ずさった。
* * *
翌朝目を覚ますとヴィクトルの姿はなかった。
布団はまだ暖かく、いなくなってからそう時間は経っていないようだった。
「さむっ……」
ヴィクトルが脱ぎ捨てていったガウンを、さらに上から羽織った。
結局夕食から水も飲めていないので、喉が張り付くように乾いていた。
ベッドサイドの呼び鈴を鳴らしてみたが、誰も来なかった。
ベッドから降りて、部屋を徘徊しながら鳴らし続けていると、隣室に続く扉が開いた。
「うるさい」
ヴィクトルだった。
「朝からなんだ」
「侍女を呼んで身支度を頼みたいのです。こんな格好で外を出歩けないので。あと、飲み物がほしいです。喉がカラカラです」
一息に要望をまくし立てると、ヴィクトルはサイドテーブルの水差しを指さした。
「水ならそこにある。レモンは入ってない」
「え?」
ヴィクトルの言葉に、思わず素っ頓狂な声が出た。
「嫌いなんだろ? 水がないと『食』の規約に差し障る。さっき取り替えさせた」
嫌いではない。
適量にしてほしいだけだ。
そう思いつつも、やっとありつけた水をありがたく飲んだ。
生き返る心地だった。
「身支度は自分でやれ」
「侍女はいないのですか?」
「手配してある。少し我慢しろ」
貴族の女性からすれば、身支度は『衣』の内だ。
不服だが、この男にそんな理屈は通じなさそうなので、櫛を持ってぶりっこを発動した。
「じゃあ、ヴィクトルさまがしてくださぁい」
ヴィクトルの手に櫛を握らせて、ギュッと両手で包んだ。
「お願いしますぅ」
ヴィクトルは黙って櫛を眺めていたが、やがて「座れ」と鏡台の椅子を指さした。
本当にやってくれると思っていなかったので、ちょっとビックリした。
「きゃあ! 嬉しいです!」
乙女のポーズを取っておいた。
昨日から、これを何回やっているだろう。
椅子に座ると、ヴィクトルの手が髪に触れた。
「……どうすればいい」
「上の方から少しずつ櫛を入れてください。絡まっていたら指で解いてください」
ヴィクトルは丁寧な手つきで髪を梳かし始めた。
窓から入る日差しが心地よくて、だんだんと眠くなってきた。
「明日にはお前の侍女が来る」
「ありがとうございます」
「毎日俺がこんなことさせられるのは敵わん」
ほどなく髪を整え終えると、ヴィクトルは櫛を置いた。
「できたぞ」
「ありがとうございます」
手で触れると、絡まりがなくなって指どおりがよくなっていた。
「着替えはお前の部屋に入れてあるはずだ。今日は自分で着替えろ」
「わかりました」
髪をゆるくリボンで結んでから、自室に入って服を探した。
「うーん、どこに片付けたんだろう」
ワードローブには下着と小物類しか入っていなかった。
未開封の箱も全て開けてみたが、やはりない。
実家の御者からは、荷物は問題なくローゼンフェルト邸に届けたと報告を受けていた。
となると、ここに来てから紛失したことになる。
「ここまでするわけ……?」
これは甘噛みでは済まされない。
流れる雲が日差しを遮って、部屋に影を落とした。
急に寒くなったような心地がした。
私は再度寝室に戻って、狂ったように呼び鈴を鳴らした。
「ヴィクトルさま」
呼びかけると、ヴィクトルが呆れた顔で隣室から出てきた。
「今度はなんだ」
「服がありません」
ヴィクトルは驚いた顔をした。
白々しいやつだ。
案外うまくやっていけるかもしれないと、思い始めたのに。
「そんなはずはない。荷物は全て運び入れたと聞いている」
「でも、現にありません。残りの荷物も全て確認しました」
ヴィクトルは眉をひそめた。
その顔を見上げて、私は静かに問いかけた。
「どこにいってしまったのか知りませんが、新しいものを買っていただけるのですよね?」
使用人が勝手にしたことだとしても、責任を取るべきはこの男だ。
口の端を持ち上げて、小首をかしげてみせた。
「ね?」
「……わかった。すぐに商人を呼ぼう」
ヴィクトルはそう言って、部屋を出ていった。
とりあえず昨日の服に着替えて待っていると、半刻もしないうちに商人が訪ねてきた。
好きに買っていいと言われたので、遠慮なく買った。
会計を頼むと、想定よりゼロが一個多かったが、ヴィクトルは顔色一つ変えずに払った。
「ヴィクトルさま。お洋服をありがとうございました」
商人が帰ってから、私はヴィクトルに声をかけた。
すぐに対処してくれたので穏便に済ませるつもりだが、この家の人間は越えてはいけない一線を越えてきた。
少しお灸を据えておきたかった。
「でも、『衣』を疎かにするのは盟約違反です。次に同じことがあったら、私、悲しくて実家に駆け込んでしまうかもしれません」
わざとらしく声を震わせて言うと、ヴィクトルのこげ茶色の瞳がわずかに揺れた気がした。
* * *
その夜、自室で過ごしていると何やら階下が騒がしいことに気づいた。
部屋を出て吹き抜けを見下ろすと、リビングから大きな声が聞こえた。
「これはどういうことだ!」
ヴィクトルの声だった。
音を立てないように階段を降りて、開いた扉の隙間からリビングを覗き込んだ。
ヴィクトルがソファーに座っていた。
その前に使用人が並んでおり、間のテーブルにはボロボロの服が置かれていた。
私の服だった。
「申し訳ございません! 馬車に荷物を踏まれてしまい、このようなことに……」
一人のメイドが泣きながら頭を下げた。
「なぜ隠していた」
「私には……とても弁償できないからです……どうか、どうかお許しください……」
ヴィクトルは大きくため息をつくと、私の服に視線を落とした。
おそらく車輪に絡まったのだろう、ひどく破れていた。
「それを決めるのは俺ではない。妻だ。お前が自分で話に行け」
「そ、そんな……だって奥さまはグランヴェール家の……」
メイドは顔を青くして膝から崩れ落ちた。
実際のところ、そんなに高価な服は入っていない。
何より、倍以上の服を買ってもらったので一切の未練はない。
……のだが、ここで少し使用人に良い顔をしておこう。
扉に手をかけ、中に踏み入った。
「話は聞かせていただきました」
「お、奥さま!」
メイドが震えながら床に頭をこすり付けた。
「も、申し訳ございませんでした! 私の不手際です、どうか、どうかお許しください」
「いいのですよ、そんなもの」
私は膝をついてしゃがんで、メイドの肩をポンポンと叩いた。
「本当のことを話してくれて、ありがとうございます。わざとでないなら怒りませんし、弁償だって必要ありません。ほら、顔を上げて?」
恐る恐るといった様子で頭を上げたメイドに、私は穏やかに微笑んだ。
「わざとじゃないのよね?」
ゆっくりとした口調で問いかけると、メイドがはくはくと口を動かした。
「も、もちろんでございます!」
「もし次に同じことがあったら、隠さず、すぐに私に教えてくれると約束できますか?」
「はい、はい……! 約束いたします!」
「では、この話はこれで終わりです」
メイドを立たせて、私はテーブルの上の服に目をやった。
下の方に埋まっていた黄緑色のドレスを引っ張り出すと、見事に首から胸にかけて裂けていた。
これだけはお気に入りだったが、古いし手放し時だと割り切ろう。
「これは雑巾にでもしてください。もう夜も遅いですし、皆さんもお部屋に戻りましょう」
ドレスを置いて、私はにこやかに告げた。
ヴィクトルは終始、無言で様子を見ていた。
* * *
翌朝、寝坊して九時過ぎに食堂に降りたが、普通に朝食が出てきた。
ヨーグルトと一緒になぜかレモンが二つ出されて、私は給仕に問いかけた。
「あの、このレモンはなんでしょうか?」
「ああ、申し訳ありません。間違えました。ヴィクトルさまがいつもレモンをかけるので、癖で」
酸っぱいものに酸っぱいものをかけてやがる。
あの凶悪なレモン水は、やはりヴィクトルにとっては普通のレモン水なのだ。
「私、レモンは嫌いじゃありませんが、適量でお願いします」
「かしこまりました。覚えておきます」
給仕は一礼して、レモンを持っていった。
朝食を終えて、私はヴィクトルの私室の前に立っていた。
寝室から入ったことはあったが、廊下から入るのは初めてだった。
軽く扉を叩くと返事があったので、中に入った。
「少しいいですか?」
ヴィクトルは仕事中なのか、書類を広げていた。
ペンを持ったまま、こちらに視線を向けた。
「なんだ?」
私はヴィクトルの前まで歩み出て、頭を下げた。
「ごめんなさい」
ヴィクトルの表情は見えなかったが、ペンを置くような音がした。
「何に対する謝罪だ」
「服のこと、てっきり嫌がらせで隠されたのだと思っていました」
「別に謝らなくていい。事故だとしても、お前の服をダメにしてしまったのは事実だ」
ヴィクトルが立ち上がる気配を感じて、私は顔を上げた。
「それに他にも……うちの使用人がお前に不躾なことをした。悪かった」
他は全部この男に責任を取らせたので覚えてもいないが、謝罪は謝罪として受け取っておこう。
「あとで俺からも叱っておく」
「気にしません。それを言うなら、私にだって責任はあります」
「なぜだ?」
「あなたの使用人じゃなくて、私たちの使用人だからです。女主人として、使用人が失礼な態度を取ったら、私にも指導する義務があります」
私の言葉にヴィクトルは一瞬驚いた顔をした後、小さく笑った。
初めて見たその笑みからは、性格の悪さがにじみ出ていた。
「一つ提案がある」
ヴィクトルは、机の上の書類を取って差し出してきた。
「盟約を追加しないか」
私は受け取った書類に目を通した。
『盟約五十条:ヴィクトル・ローゼンフェルトとレティシア・グランヴェールは、互いの快適な生活のために協力を惜しまない』
「俺たち限りの盟約だ。このまま生活していても、お互い疲れるだけだ」
疲れているのは主にヴィクトルな気もするが、おおむね同意できる。
「敵意をむき出しにされるのも疲れるし、あのふざけたぶりっこを構うのも疲れる」
「なっ……!」
ちょっとムカついた。
一生懸命やったのに。
文句を飲み下して、私はふうと息をついた。
「じゃあもうぶっちゃけちゃうけど、敵意むき出しなのはあなたも同じでしょう? 政敵と急に仲良し夫婦しろって言われても、お互い無理な話よね」
言いながら、私は後ろにあったソファーに移動した。
ドカッと座って、書類をテーブルに置いた。
「まあ、貴族である以上、義務として受け入れるけど」
ヴィクトルは向かいに置かれたアームチェアに腰を下ろした。
私はしばし、ヴィクトルの書いた盟約を見ていた。
「でも……あなたの言う通りね。少しずつでも変えていかないと、お互いずっと家で気を張る羽目になるわ」
周囲のことばかり気にしていたが、私の中にも偏見や敵意はあった。
政敵だから、顔がタイプじゃないからと、色々決めつけてかかっていた。
歴代の盟約婚夫婦と同じ轍を踏むのは、まっぴらごめんだ。
「それに、あなたがどんなにタイプじゃなくても、私はもう妻だから」
「喧嘩売ってるか?」
鋭い目で睨まれて、私は自分の口を手で押さえた。
「それで、盟約の追加には賛成なのか?」
「ええ。でもこれ、私たちに限らなくてもいいんじゃない? 私たちの子どもや孫の代で、きっとまた同じようにいがみ合うでしょう」
「それもそうだな」
ヴィクトルはうなずくと、机に戻ってペンを取ってきた。
そして私たちの名前の部分にピッと取り消し線を引いた。
『盟約五十条:盟約によって婚姻した者は、互いの快適な生活のために協力を惜しまない』
「これでいいか?」
「ええ」
「じゃあ、拇印を押そう」
「わかったわ」
私は親指に思い切り歯を立てた。
皮膚が切れて、じわっと血がにじんだ。
「何してる!?」
「え? 拇印でしょ?」
「どこの世界に血判押す貴婦人がいるんだ!」
ヴィクトルはハンカチを取り出して、私の指を押さえた。
焦るヴィクトルを見ていると、なんだかおかしく思えてきた。
思わず笑みをこぼすと、ヴィクトルが怪訝な顔をした。
「なんだ、何がおかしい」
「楽しくなりそうだと思って」
声を上げて笑う私に、ヴィクトルは相変わらず虫でも見るような目を向けていた。
その後、無事に反対の手で拇印を押した。
ヴィクトルは書類を持って机に戻ると、何かを書き込んで、再び私の前に置いた。
「もう一個追加だ。異論は認めない」
『盟約五十一条:盟約において血判は無効とする。当事者の同意と、拇印をもって効力を発揮する』
私はインクに親指をつけて、力強く判を押した。
——————————————————
その日の夜遅く。
薄暗い寝室で、ヴィクトルはヘッドボードに寄りかかっていた。
新たな盟約を結んで、二人で使用人たちに説教して、何だかんだと忙しい日だった。
隣で眠る妻の癖毛に触れて、優しく絡まりを梳かした。
「あぁ、やっぱりかわいいなあ」
ここまで来るのに、どれだけ苦労したことか。
レティシアに目を付けたのは、五年前、グランヴェール家との結婚の話が動き始めたころだった。
人を自分の土俵に引きずり込む胆力と、ぶっ飛んだ理屈。
グランヴェールの潔さを持ちながらも、使えるものは何でも使う。
これ以上ないローゼンフェルトの資質だと思った。
遠戚の娘を寄越そうとしていたグランヴェールの狸公爵と、盟約を盾に長年やりあって、ようやく結婚にこぎつけた。
結婚してみたら、思った通り愛らしくて楽しい女性だった。
しかし同時に、両家を隔てる壁の高さを痛感させられた。
彼女が来る前、使用人たちには散々釘を刺しておいた。
ところが、本邸の公爵の顔色も気になるのか、彼らは様々な嫌がらせを仕掛けてきた。
それをレティシアは、都合のいい解釈を瞬時に組み立て、鮮やかに打ち返した。
こちらが口を挟む隙すらなかった。
最終的にはレティシア自身がその強さと器の大きさを示したことで、壁に小さなひびが入った。
時間がかかっても、彼女ならいつか壁を崩すだろう。
ただ、服と侍女のことだけは誤算だった。
あの黄緑のドレスは、回収して懇意の仕立て屋に修理を依頼しておいた。
侍女の方は、手配を妨害したのが本邸のクソババアだと調べがついている。
解決すべき課題は、まだまだたくさんある。
「んん……」
ため息をつくと、不意にレティシアが寝返りを打った。
寝ているときはこんなに無防備だが、やはりまだ警戒は感じる。
本当は毎日髪を梳かしてやりたいし、抱きしめて眠りたいが、突然そんなことをされても逆に警戒を強めるだけだろう。
タイプじゃないと言われたのもそれなりにショックだったが、もう結婚しているのだからなんだっていい。
小さくあくびをして、ベッドサイドの引き出しから手帳とペンを取り出した。
結婚にこぎつけるまでのあれこれを記録した手帳だった。
最近はただの日記と化している。
今日のレティシアの様子を簡単に書き込んで、手帳を片付けた。
灯りを落として横になって、薄闇の中で寝息を立てる妻の顔を眺めた。
時間はいくらでもある。
夫婦の間にある壁も、少しずつ少しずつ、壊していけばいいだけだ。
そう思いながら、心地よい眠気に身をゆだねた。




