↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

逃避行の涙

掲載日:2026/05/19

これは、幸せになれなかった二人の逃避行の物語です。

世界最強の殺し屋“doragontattoo(ちい)”と、花屋で働く人妻・七海。

出会ってはいけなかった二人は、全てを捨てて逃げ続けます。

普通の幸せも、明るい未来もない。

それでも孤独な世界の中で、互いだけを信じて生きました。


愛とは救いなのか、それとも破滅なのか。

静かな絶望と、小さな温もりを描いた切ない物語です。

『雨に咲く逃避行』


冷たい雨が降っていた。


夜の高速道路を、一台の黒い車が静かに走っている。


運転席には、doragontattoo――裏社会で“ちい”と呼ばれる男がいた。


世界中の犯罪組織が名前を恐れる伝説の殺し屋。


感情を捨て、数え切れない命を奪ってきた男。


だが今、その隣には一人の女が眠っていた。


七海。


小さな花屋で働く人妻だった。


助手席で眠る彼女の指先には、小さな切り傷がある。


バラの棘で出来た傷だ。


ちいは、その傷を見るたび胸が痛んだ。


人を殺してきた自分の手は血だらけなのに。


彼女の手は、花を守るために傷付いている。


まるで違う世界の人間だった。


「……戻りたいか」


赤信号で止まり、ちいは小さく呟いた。


七海は目を開ける。


「どこに?」


「普通の人生に」


七海は少し笑った。


泣きそうな顔で。


「そんなの、最初から持ってないよ」


その言葉が、ちいの胸を深く刺した。


――七海は、夫から暴力を受けていた。


毎日殴られ、否定され、生きている意味を失っていた。


花屋だけが唯一、呼吸出来る場所だった。


ある雨の日。


店先で倒れた男がいた。


血まみれの、ちいだった。


七海は震えながら彼を店の裏へ隠した。


「警察、呼ばないのか」


「……死んでほしくないから」


それが、始まりだった。


ちいは理解出来なかった。


自分のような人間を助ける理由が。


「私はね、人を見捨てるのが嫌いなの」


七海はそう言った。


その瞬間。


世界最強の殺し屋は、初めて救われた。


だが、幸せは長く続かなかった。


七海の夫。


裏社会。


警察。


そして、ちいを狙う組織。


全てが二人を追い始めた。


二人は逃げた。


名前を捨て。


居場所を捨て。


未来を捨て。


海辺の古い町。


雪国の安アパート。


誰も来ない山奥。


何度も場所を変えながら生きた。


七海はスーパーで働き。


ちいは夜中に港で荷物運びをした。


最強の殺し屋は、汗だくで重い荷物を運びながら生きた。


それでも彼は少し嬉しかった。


「普通」に近付けた気がしたから。


だが過去は消えない。


ある夜。


七海がスーパーから帰る途中、男達に囲まれた。


ちいを狙う組織だった。


ちいは一人で全員を壊した。


五分もかからなかった。


だが返り血を浴びた彼を見て、七海は震えていた。


怖かったからじゃない。


悲しかったのだ。


この人は、一生血から逃げられない。


そう分かってしまったから。


夜。


狭い部屋で七海は泣いた。


「ごめんね……普通にしてあげられなくて」


ちいは黙っていた。


何も言えなかった。


彼女を不幸にしているのは、自分だった。


「でもね」


七海は涙を拭いて笑った。


「あなたといる地獄なら、一人の天国よりいい」


ちいは、その言葉で壊れそうになった。


世界中から恐れられた男は。


小さなアパートで、声を殺して泣いた。


数年後――。


二人は海の見える町にいた。


古い平屋。


狭い庭。


七海はそこで、小さな花を育てていた。


だが彼女は病気になっていた。


逃亡生活で身体を壊していた。


病院にもまともに行けない。


戸籍もない。


保険もない。


静かに死へ向かっていた。


ある夜。


七海は縁側で海を見ながら言った。


「ねぇ、ちい」


「なんだ」


「来世ってあるかな」


ちいは煙草を消した。


「……分からない」


「もしあるなら」


七海は弱く笑う。


「次は、普通に恋したいな」


その言葉に、ちいは何も返せなかった。


彼は知っていた。


自分が彼女の人生を壊したことを。


幸せになれない道へ連れてきたことを。


それでも。


それでも彼女は最後まで、自分の隣にいた。


冬。


雪が降る夜。


七海は布団の中で小さく呟いた。


「寒いね」


ちいは彼女の手を握った。


「……ああ」


「離さないで」


「離さない」


世界最強の殺し屋は。


その夜だけは、ただの弱い男だった。


七海の手を握りながら。


朝まで泣き続けていた。

七海が倒れてから、季節がゆっくり壊れていった。


海辺の町には春が来ていた。


小さな庭に植えた花が咲いている。


白いマーガレット。


七海が好きだった花だ。


「この花ね、強いんだよ」


昔、彼女は笑いながら言っていた。


「踏まれても、また咲くの」


ちいは縁側に座り、煙草も吸わず海を見ていた。


家の中からは、苦しそうな咳が聞こえる。


もう長くない。


それを、彼は誰より理解していた。


人の死を見過ぎた男だから。


その夜。


七海は熱でうなされていた。


「水……」


ちいは急いでコップを持っていく。


震える手で彼女を支える。


昔なら、銃を片手で扱えた男だった。


今は、愛する人一人抱えるだけで手が震えていた。


「ありがとう……」


七海は弱々しく笑う。


頬は痩せ、髪も細くなっていた。


それでも、彼女は綺麗だった。


世界で一番。


ちいは目を逸らした。


見ていると、自分まで壊れそうだった。


「ねぇ、ちい」


「……なんだ」


「あなた、最近眠ってないでしょ」


「寝てる」


「嘘」


七海は少し笑った。


「昔から嘘下手だよね」


ちいは黙る。


本当は毎晩、眠れなかった。


七海が息をしているか何度も確認してしまう。


呼吸が止まっていないか怖くて。


失うのが怖くて。


殺し屋が、そんなことで震えていた。


ある日。


家の前に黒い車が止まった。


裏社会の人間だった。


ちいを探し続けていた組織。


男達は庭に入ってくる。


「よう、“伝説”」


リーダー格の男が笑った。


「随分落ちぶれたな」


ちいは何も言わない。


ただ、静かに立っていた。


「ボスがお前を欲しがってる。戻れ」


「断る」


「じゃあ女が死ぬぞ」


その瞬間だった。


空気が変わった。


次の一秒で。


男達全員が地面に倒れていた。


喉を潰され。


骨を砕かれ。


呼吸も出来ず転がっていた。


ちいは、昔より静かに殺すようになっていた。


怒りを表に出さない。


ただ、絶望みたいな目をしていた。


最後の男が震えながら呟く。


「化け物……」


ちいは冷たく言った。


「俺はもう殺し屋じゃない」


だがその手は、血に染まっていた。


結局、自分は何も変われなかった。


家に戻ると、七海が起きていた。


彼女は全部分かっていた。


血の匂いで。


「……また、戦ったの?」


ちいは答えない。


七海はゆっくり彼の手を握る。


冷たい血が付いていた。


「洗おう」


小さな台所で。


七海は濡れたタオルで彼の手を拭く。


まるで子供をあやすみたいに。


「ごめん」


ちいが呟く。


七海は首を振った。


「謝らないで」


「俺は、お前を地獄に連れてきた」


「違うよ」


七海は静かに笑った。


「私は、自分であなたを選んだの」


その言葉だけで。


ちいは、何も言えなくなった。


数日後。


七海はもう歩けなくなっていた。


縁側まで、ちいが抱いていく。


海が見える場所。


夕日が綺麗だった。


「覚えてる?」


七海が言う。


「最初に会った日のこと」


「……ああ」


「血まみれだったよね」


「最悪だった」


「ふふっ」


彼女は嬉しそうに笑った。


「でも、かっこよかった」


ちいは苦しそうに顔を歪めた。


そんな風に言われる資格なんてない。


自分は人殺しだ。


何百人も壊してきた。


なのに、この人だけは。


最後まで、自分を愛してしまった。


夜。


七海は布団の中で小さく呟く。


「ねぇ、ちい」


「なんだ」


「怖いの」


ちいは彼女の手を握った。


「何が」


「あなたを一人にするのが」


その瞬間。


ちいの心が壊れた。


彼は初めて、声を上げて泣いた。


子供みたいに。


みっともなく。


七海の手を握りながら。


「置いていくな……」


世界最強の殺し屋は。


愛する人一人、救えなかった。

雨の音がしていた。


古い平屋の屋根を、静かに叩いている。


部屋の灯りは薄暗く、時計の音だけがやけに響いていた。


七海の呼吸は、もう弱かった。


細く。


今にも消えてしまいそうだった。


ちいは布団の横に座り、ずっと彼女の手を握っている。


その手は、もう驚くほど軽かった。


「……ちい」


かすれた声。


ちいは顔を上げる。


「起きてたのか」


「うん……」


七海はぼんやり笑った。


「泣いてた?」


「泣いてない」


「また嘘」


昔みたいに笑う。


けれど、その笑顔はもう弱々しかった。


七海は窓の外を見る。


「雨だね」


「ああ」


「最初の日も、雨だった」


ちいは静かに頷いた。


血まみれで花屋に倒れ込んだ日。


あの日から、全部が変わった。


いや。


あの日、初めて生きたいと思ったのかもしれない。


七海は小さく息を吸う。


「ねぇ……」


「なんだ」


「私ね、幸せだったよ」


ちいは動けなかった。


その言葉が苦しすぎて。


「普通じゃなかったけど」


七海は弱く笑う。


「怖いことばっかりだったけど」


涙が彼女の目に浮かぶ。


「あなたといた時間、本当に幸せだった」


ちいは俯いた。


耐えられなかった。


「俺は……」


声が震える。


「お前を不幸にしただけだ」


七海はゆっくり首を振る。


「違う」


「違わない」


ちいは初めて、自分を責めるように叫んだ。


「お前は花屋で笑ってればよかったんだ!普通に恋して、普通に結婚して、普通に歳を取ればよかった!」


息が乱れる。


「俺なんかに会わなければ……!」


七海は震える手で、彼の頬に触れた。


「でもね」


涙を流しながら笑う。


「私は、あなたじゃなきゃ嫌だった」


ちいは言葉を失った。


世界中の誰にも救えなかった男を。


この人だけが最後まで愛してしまった。


外では雨が強くなっていく。


七海は小さな声で言った。


「お願いがあるの」


「……なんだ」


「最後まで、手を繋いでて」


ちいは強く握り返した。


「離さない」


「うん……」


七海は安心したように目を閉じる。


静かな時間だった。


時計の針だけが進んでいく。


やがて。


七海が、小さく呟いた。


「……愛してる」


その声は、消えそうなくらい弱かった。


ちいは泣きながら答える。


「ああ……」


喉が詰まる。


「俺も愛してる」


七海は少し笑った。


とても穏やかな顔だった。


そして――。


そのまま、呼吸が止まった。


雨の音だけが残る。


ちいは動かなかった。


七海の手を握ったまま。


冷たくなっていく手を。


ずっと。


ずっと。


朝になっても離さなかった。


数日後。


海辺の町から、一人の男が消えた。


古い平屋には誰もいない。


庭にはマーガレットだけが咲いていた。


裏社会では、その後ある噂が流れた。


“伝説の殺し屋が戻ってきた”


だが昔とは違った。


金のためでも。


名誉のためでもない。


ただ、死に場所を探すように戦っていたという。


雪の降る夜。


倉庫街で、ちいは何十人もの敵に囲まれていた。


銃口が向けられる。


それでも彼は無表情だった。


もう失うものがない。


男が叫ぶ。


「化け物め!」


ちいは静かに呟く。


「……違う」


その目には、生気がなかった。


「ただの、空っぽだ」


銃声が鳴り響く。


血が飛ぶ。


雪が赤く染まる。


その夜、倉庫は崩れ落ちた。


誰も生きて出てこなかった。


だから最後まで。


doragontattoo――ちいが死んだのかは分からない。


けれど海辺の町では、時々噂が流れる。


雨の日。


花屋の前に、黒いコートの男が立っていたと。


その男は、マーガレットを一輪だけ買って。


寂しそうに笑っていたという。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

この物語は、決して幸せな結末ではありません。

それでも、傷だらけの二人が最後まで互いを想い続けたことだけは、本物だったと思います。


誰にも祝福されなくても、救われなくても、人は誰かを愛して生きてしまう。

そんな切なく静かな愛を書きたかった作品です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。