逃避行の涙
これは、幸せになれなかった二人の逃避行の物語です。
世界最強の殺し屋“doragontattoo”と、花屋で働く人妻・七海。
出会ってはいけなかった二人は、全てを捨てて逃げ続けます。
普通の幸せも、明るい未来もない。
それでも孤独な世界の中で、互いだけを信じて生きました。
愛とは救いなのか、それとも破滅なのか。
静かな絶望と、小さな温もりを描いた切ない物語です。
『雨に咲く逃避行』
冷たい雨が降っていた。
夜の高速道路を、一台の黒い車が静かに走っている。
運転席には、doragontattoo――裏社会で“ちい”と呼ばれる男がいた。
世界中の犯罪組織が名前を恐れる伝説の殺し屋。
感情を捨て、数え切れない命を奪ってきた男。
だが今、その隣には一人の女が眠っていた。
七海。
小さな花屋で働く人妻だった。
助手席で眠る彼女の指先には、小さな切り傷がある。
バラの棘で出来た傷だ。
ちいは、その傷を見るたび胸が痛んだ。
人を殺してきた自分の手は血だらけなのに。
彼女の手は、花を守るために傷付いている。
まるで違う世界の人間だった。
「……戻りたいか」
赤信号で止まり、ちいは小さく呟いた。
七海は目を開ける。
「どこに?」
「普通の人生に」
七海は少し笑った。
泣きそうな顔で。
「そんなの、最初から持ってないよ」
その言葉が、ちいの胸を深く刺した。
――七海は、夫から暴力を受けていた。
毎日殴られ、否定され、生きている意味を失っていた。
花屋だけが唯一、呼吸出来る場所だった。
ある雨の日。
店先で倒れた男がいた。
血まみれの、ちいだった。
七海は震えながら彼を店の裏へ隠した。
「警察、呼ばないのか」
「……死んでほしくないから」
それが、始まりだった。
ちいは理解出来なかった。
自分のような人間を助ける理由が。
「私はね、人を見捨てるのが嫌いなの」
七海はそう言った。
その瞬間。
世界最強の殺し屋は、初めて救われた。
だが、幸せは長く続かなかった。
七海の夫。
裏社会。
警察。
そして、ちいを狙う組織。
全てが二人を追い始めた。
二人は逃げた。
名前を捨て。
居場所を捨て。
未来を捨て。
海辺の古い町。
雪国の安アパート。
誰も来ない山奥。
何度も場所を変えながら生きた。
七海はスーパーで働き。
ちいは夜中に港で荷物運びをした。
最強の殺し屋は、汗だくで重い荷物を運びながら生きた。
それでも彼は少し嬉しかった。
「普通」に近付けた気がしたから。
だが過去は消えない。
ある夜。
七海がスーパーから帰る途中、男達に囲まれた。
ちいを狙う組織だった。
ちいは一人で全員を壊した。
五分もかからなかった。
だが返り血を浴びた彼を見て、七海は震えていた。
怖かったからじゃない。
悲しかったのだ。
この人は、一生血から逃げられない。
そう分かってしまったから。
夜。
狭い部屋で七海は泣いた。
「ごめんね……普通にしてあげられなくて」
ちいは黙っていた。
何も言えなかった。
彼女を不幸にしているのは、自分だった。
「でもね」
七海は涙を拭いて笑った。
「あなたといる地獄なら、一人の天国よりいい」
ちいは、その言葉で壊れそうになった。
世界中から恐れられた男は。
小さなアパートで、声を殺して泣いた。
数年後――。
二人は海の見える町にいた。
古い平屋。
狭い庭。
七海はそこで、小さな花を育てていた。
だが彼女は病気になっていた。
逃亡生活で身体を壊していた。
病院にもまともに行けない。
戸籍もない。
保険もない。
静かに死へ向かっていた。
ある夜。
七海は縁側で海を見ながら言った。
「ねぇ、ちい」
「なんだ」
「来世ってあるかな」
ちいは煙草を消した。
「……分からない」
「もしあるなら」
七海は弱く笑う。
「次は、普通に恋したいな」
その言葉に、ちいは何も返せなかった。
彼は知っていた。
自分が彼女の人生を壊したことを。
幸せになれない道へ連れてきたことを。
それでも。
それでも彼女は最後まで、自分の隣にいた。
冬。
雪が降る夜。
七海は布団の中で小さく呟いた。
「寒いね」
ちいは彼女の手を握った。
「……ああ」
「離さないで」
「離さない」
世界最強の殺し屋は。
その夜だけは、ただの弱い男だった。
七海の手を握りながら。
朝まで泣き続けていた。
七海が倒れてから、季節がゆっくり壊れていった。
海辺の町には春が来ていた。
小さな庭に植えた花が咲いている。
白いマーガレット。
七海が好きだった花だ。
「この花ね、強いんだよ」
昔、彼女は笑いながら言っていた。
「踏まれても、また咲くの」
ちいは縁側に座り、煙草も吸わず海を見ていた。
家の中からは、苦しそうな咳が聞こえる。
もう長くない。
それを、彼は誰より理解していた。
人の死を見過ぎた男だから。
その夜。
七海は熱でうなされていた。
「水……」
ちいは急いでコップを持っていく。
震える手で彼女を支える。
昔なら、銃を片手で扱えた男だった。
今は、愛する人一人抱えるだけで手が震えていた。
「ありがとう……」
七海は弱々しく笑う。
頬は痩せ、髪も細くなっていた。
それでも、彼女は綺麗だった。
世界で一番。
ちいは目を逸らした。
見ていると、自分まで壊れそうだった。
「ねぇ、ちい」
「……なんだ」
「あなた、最近眠ってないでしょ」
「寝てる」
「嘘」
七海は少し笑った。
「昔から嘘下手だよね」
ちいは黙る。
本当は毎晩、眠れなかった。
七海が息をしているか何度も確認してしまう。
呼吸が止まっていないか怖くて。
失うのが怖くて。
殺し屋が、そんなことで震えていた。
ある日。
家の前に黒い車が止まった。
裏社会の人間だった。
ちいを探し続けていた組織。
男達は庭に入ってくる。
「よう、“伝説”」
リーダー格の男が笑った。
「随分落ちぶれたな」
ちいは何も言わない。
ただ、静かに立っていた。
「ボスがお前を欲しがってる。戻れ」
「断る」
「じゃあ女が死ぬぞ」
その瞬間だった。
空気が変わった。
次の一秒で。
男達全員が地面に倒れていた。
喉を潰され。
骨を砕かれ。
呼吸も出来ず転がっていた。
ちいは、昔より静かに殺すようになっていた。
怒りを表に出さない。
ただ、絶望みたいな目をしていた。
最後の男が震えながら呟く。
「化け物……」
ちいは冷たく言った。
「俺はもう殺し屋じゃない」
だがその手は、血に染まっていた。
結局、自分は何も変われなかった。
家に戻ると、七海が起きていた。
彼女は全部分かっていた。
血の匂いで。
「……また、戦ったの?」
ちいは答えない。
七海はゆっくり彼の手を握る。
冷たい血が付いていた。
「洗おう」
小さな台所で。
七海は濡れたタオルで彼の手を拭く。
まるで子供をあやすみたいに。
「ごめん」
ちいが呟く。
七海は首を振った。
「謝らないで」
「俺は、お前を地獄に連れてきた」
「違うよ」
七海は静かに笑った。
「私は、自分であなたを選んだの」
その言葉だけで。
ちいは、何も言えなくなった。
数日後。
七海はもう歩けなくなっていた。
縁側まで、ちいが抱いていく。
海が見える場所。
夕日が綺麗だった。
「覚えてる?」
七海が言う。
「最初に会った日のこと」
「……ああ」
「血まみれだったよね」
「最悪だった」
「ふふっ」
彼女は嬉しそうに笑った。
「でも、かっこよかった」
ちいは苦しそうに顔を歪めた。
そんな風に言われる資格なんてない。
自分は人殺しだ。
何百人も壊してきた。
なのに、この人だけは。
最後まで、自分を愛してしまった。
夜。
七海は布団の中で小さく呟く。
「ねぇ、ちい」
「なんだ」
「怖いの」
ちいは彼女の手を握った。
「何が」
「あなたを一人にするのが」
その瞬間。
ちいの心が壊れた。
彼は初めて、声を上げて泣いた。
子供みたいに。
みっともなく。
七海の手を握りながら。
「置いていくな……」
世界最強の殺し屋は。
愛する人一人、救えなかった。
雨の音がしていた。
古い平屋の屋根を、静かに叩いている。
部屋の灯りは薄暗く、時計の音だけがやけに響いていた。
七海の呼吸は、もう弱かった。
細く。
今にも消えてしまいそうだった。
ちいは布団の横に座り、ずっと彼女の手を握っている。
その手は、もう驚くほど軽かった。
「……ちい」
かすれた声。
ちいは顔を上げる。
「起きてたのか」
「うん……」
七海はぼんやり笑った。
「泣いてた?」
「泣いてない」
「また嘘」
昔みたいに笑う。
けれど、その笑顔はもう弱々しかった。
七海は窓の外を見る。
「雨だね」
「ああ」
「最初の日も、雨だった」
ちいは静かに頷いた。
血まみれで花屋に倒れ込んだ日。
あの日から、全部が変わった。
いや。
あの日、初めて生きたいと思ったのかもしれない。
七海は小さく息を吸う。
「ねぇ……」
「なんだ」
「私ね、幸せだったよ」
ちいは動けなかった。
その言葉が苦しすぎて。
「普通じゃなかったけど」
七海は弱く笑う。
「怖いことばっかりだったけど」
涙が彼女の目に浮かぶ。
「あなたといた時間、本当に幸せだった」
ちいは俯いた。
耐えられなかった。
「俺は……」
声が震える。
「お前を不幸にしただけだ」
七海はゆっくり首を振る。
「違う」
「違わない」
ちいは初めて、自分を責めるように叫んだ。
「お前は花屋で笑ってればよかったんだ!普通に恋して、普通に結婚して、普通に歳を取ればよかった!」
息が乱れる。
「俺なんかに会わなければ……!」
七海は震える手で、彼の頬に触れた。
「でもね」
涙を流しながら笑う。
「私は、あなたじゃなきゃ嫌だった」
ちいは言葉を失った。
世界中の誰にも救えなかった男を。
この人だけが最後まで愛してしまった。
外では雨が強くなっていく。
七海は小さな声で言った。
「お願いがあるの」
「……なんだ」
「最後まで、手を繋いでて」
ちいは強く握り返した。
「離さない」
「うん……」
七海は安心したように目を閉じる。
静かな時間だった。
時計の針だけが進んでいく。
やがて。
七海が、小さく呟いた。
「……愛してる」
その声は、消えそうなくらい弱かった。
ちいは泣きながら答える。
「ああ……」
喉が詰まる。
「俺も愛してる」
七海は少し笑った。
とても穏やかな顔だった。
そして――。
そのまま、呼吸が止まった。
雨の音だけが残る。
ちいは動かなかった。
七海の手を握ったまま。
冷たくなっていく手を。
ずっと。
ずっと。
朝になっても離さなかった。
数日後。
海辺の町から、一人の男が消えた。
古い平屋には誰もいない。
庭にはマーガレットだけが咲いていた。
裏社会では、その後ある噂が流れた。
“伝説の殺し屋が戻ってきた”
だが昔とは違った。
金のためでも。
名誉のためでもない。
ただ、死に場所を探すように戦っていたという。
雪の降る夜。
倉庫街で、ちいは何十人もの敵に囲まれていた。
銃口が向けられる。
それでも彼は無表情だった。
もう失うものがない。
男が叫ぶ。
「化け物め!」
ちいは静かに呟く。
「……違う」
その目には、生気がなかった。
「ただの、空っぽだ」
銃声が鳴り響く。
血が飛ぶ。
雪が赤く染まる。
その夜、倉庫は崩れ落ちた。
誰も生きて出てこなかった。
だから最後まで。
doragontattoo――ちいが死んだのかは分からない。
けれど海辺の町では、時々噂が流れる。
雨の日。
花屋の前に、黒いコートの男が立っていたと。
その男は、マーガレットを一輪だけ買って。
寂しそうに笑っていたという。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
この物語は、決して幸せな結末ではありません。
それでも、傷だらけの二人が最後まで互いを想い続けたことだけは、本物だったと思います。
誰にも祝福されなくても、救われなくても、人は誰かを愛して生きてしまう。
そんな切なく静かな愛を書きたかった作品です。




