第1話:催眠アプリといえば清楚女s……ヤンキー?
八咫野 氷織が今、教室で俺の胸倉をつかんでいる。
上品だのお嬢様だのの評判が全部嘘みたいじゃねえか!
彼女は鋭い眼光で、どすの利いた声で言う。
「オイおまえ。昼休み、校舎裏、面貸せ。逃げたら殺す」
こんな俺には関係ないと思っていたはずの少女に、俺は頷くしかなかった。
なんでこんな目に……なんて言えるはずもない。俺にはたしかに心当たりがあった。
きっかけは、2日前。俺のスマホに、催眠アプリが入っていたことから始まる。
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華の男子高校生ながら友人は一名、恋人の気配は原子レベルもなし。そんな生天目 賢治は、朝早くバス停にてゲームを開こうとする。しかしその中にとてつもなく変な気配を放つアプリを見かける
「なんだこれ。催眠アプ……リ?」
絶対にそんなの、入れたつもりもないはず……。悪趣味な瞳のアイコン。不気味さからか不思議と指が伸び……。
「おっはー賢治ー」
しかしやってきて背を叩く木下 夏向に防がれる。
いつもなら「おー」くらいで済ますのだが、今は見られたらまずいっ! すぐさまスマホをスリープにし、ひとまず繕う。
「……夏向か。おはよう」
「お前、何か隠したか?」
バレるのが早すぎる。
「いや。後ろから声かけられたら誰でもびっくりするだろ」
「まさかこんな朝っぱらから往来でエロサイト開いてんの?」
「そんなわけ、な、ないが」
「おお! あとでリンク送っといてくれ」
夏向は心なしか上機嫌で言う。緊張を紛らわすためでもあるだろうが。
アプリのことは隠せた。失うものも大きかったけど。
それにしても催眠アプリといえば男の夢、薄い本の鉄板。ご都合主義も恋心植え付けもなんでもござれの最強アイテム。漫画の催眠能力者は大体強いのだから実在したら世界が滅ぶ代物。いつも決まって唐突に現れるもの。
催眠ものはよく見るからか興奮が収まらない。
「……じ、おい。賢治聞いてんのか?」
「あ、ああ。聞いてるとも」
いかんいかん。脳内解説が止まらなくなるところだった。
「ったくよー。俺のこれからの命運を知ってんだろって」
「県大会だっけか。」
「いや、今日のは地区大会だ。だが、これで女子水泳部をギャフンと言わせたい!」
「へえ。女子水泳部って強いんだ」
「バカお前、八咫野さんのことだよ」
言われてようやく思い出す。八咫野 氷織。クラスメイトで文武両道のお嬢様と名高い。一部男子が熱狂的なコミュニティを作ってるとかなんとか。クラスメイトの名前を覚えられない俺でさえわかる相手だ。
「あー。そんな人も居たな」
「水泳部の女子ってエロい響き惹かれて入ったら、こんな屈辱の対象だとは思わなかったわ。上層部もエロさで見てんじゃねえの……」
出た。夏向の男子水泳部ネガ。滅多にはならないが、こうなるとめんどいんだよな。
あ、そうだ。
俺はさっきのアプリを取り出しこいつに向けてみる。
「よし。夏向、黙れ」
なんて、そんなことを言ってもキレられるだけ……。
しかし夏向の目はそれに反して虚ろなままだった。どこか遠くを見るようで何も見ないような焦点のズレ方。
「……か、夏向?」
肩を揺すっても戻らない。ずっと虚を見つめている。自然とスマホに目がいく。スマホ画面には「催眠対象:木下 夏向(待機状態)」とある。
これ、本物なのか?
「お、おい夏向。もう喋っていいんだぞ? ほら、バスもうすぐだし」
しかし変わらず人形のように佇む夏向。スマホの画面は先程と変わらない。が、夏向の欄の右端にバツ印がある。反射でそれを押す。
するとさきほどまでが嘘のように夏向があっけらかんと話し出す。
「……おい聞いてんのか賢治」
「え? あ、おう」
どうやら、このアプリは本物らしい。あの状態の記憶もない彼が証左だ。
催眠物が大好きな俺といえど、実在する友達に使うのは少し怖気がした。
――――
俺は県で作られた市民プールのベンチに座ってカメラを構えていた。
ちなみに言うが俺は水泳部じゃない。ただの帰宅部だ。ただ水泳部の友、夏向の親が今日はいないとかで、撮影を任された。県大会でもないのになぜ張り切るかもようわからんが、まあこうでもしなきゃ学校以外で外出することなんかないんだ。
しかしここで、俺のは緊急事態が迫っていた。すごく、尿意が……っ!
水の音が、無意識のうちに膀胱を膨らます。家を出る前にトイレ行ったのに!
『まもなく、○○県○○地区水泳部大会予選、男子の部を開始します』
アナウンスが響く。7番レーンの辺りで夏向含む見たことありそうな顔がズラリと居る。
しかしこういうのって前座が五分ぐらい待つよな! そんなの待ってられない!今もプールの水音で尿意が刺激されている!
ちょうどその時、隣の席に暇そうなおじ(い)さんが座って来た。
「すみません! 代わりに第7レーンのあいつを撮っといてください!!!」
おじ(い)さんは困惑顔だが受け取ってくれた。俺は全速前進、トイレへと向かった。
もうすぐ始まるというアナウンスがしつこくなってきて、もう通路に人は少ない。女子の部だって男子の直後にやるんだ。準備する人だってほぼいない。
だからだろうか。人の流れが無さすぎてどこへ向かってるかも分からない!
しかし目に青の扉が目に入る。これは、トイレだ!
俺は急ぎ入る。
それで息を着いたのも束の間、多少の違和感を覚える。塩素の匂いと……甘い香り? 空気がペタつくような独特の雰囲気。
そして目の前を見るとそこには、1人女子が。
見紛うはずもない。それはクラスメイトで、女子水泳部のエースである、八咫野 氷織その人だった。競泳水着はまだ胸元まで。大事な部分は見えないが着用中の様が扇情的……って八咫野!?
彼女はこちらを見、驚愕、そして……。
「きゃーーーーーーー!!!!!」
絶叫した。後ろの戸は若干空いていて声が背後に響く。そして背後で壮年女性の声もする。そういえば道中、近くに受付もあったような。そして声は迫ってくる。
やばいやばいやばい。このままじゃ社会的に死ぬ! 尿意が全ての思考を急かす。
どうしようどうしよう。この場所を打開するには……。
と、ポケットの重みを思い出す。
催眠アプリ。それはかけるだけで全てを叶える魔法のアプリ。思い通りにするアプリ。
今の状況も、何とかできないか。現実の人間に使うなど、それを八咫野に使うなど、人としてなにかを捨てることになるだろう。でも使わないと死ぬ。
「な、なんですかあなたは! もしかして不審……」
「(なるようになれだ!)」
俺はアプリを翳す。その瞬間彼女の恐怖と怒気混じる表情が嘘のように呆ける。
「八咫野! 俺のことを認識せず、そして俺の事を忘れろ!」
そう言ってから近場のロッカーに逃げ込む。尿意を抑え、声を抑える。
そして更衣室に受付の女性が急ぎ来た。
「今の声はなに!? 何かあったの?」
「は、はい! あの……あ、あれ?」
八咫野は催眠アプリの影響が出たらしい。頭のこめかみの辺りを抑える。
受付の女性が不思議そうな顔をして戻っていく。
その足音が遠ざかるのを見てから俺は更衣室を出る。同時にかけた催眠によって、氷織にまた目撃されることなくトイレへ駆け込むことができた。
――――
そして土日明けの投稿日、俺は先日のやらかしから寝つきが悪く、今日は早く起きてしまった。遅刻の多い俺が十分前には投稿しているという快挙。
と、そのとき、教室に光が差した。男子たちは一様にドアを見る。
美少女だとか言われているが、それよりも付加する成績の方も大きい。偏差値65越えの本校の学年十指の成績、水泳部エース、そしてお嬢様と言われるほどに気品を兼ね備えた彼女。
だと思ったが、今日は少しガサツな感じ……? 彼女はいつもと違ってポニテになっている。なぜにイメチェン。
ただ男子たちは教室後方で鼻息を荒くして語り合っている。
八咫野はクラスの男子の視線を感じたのか、彼女は友人の方からクラスの後方に目を移す。そしてすぐに友人の方へ戻す。……それだけだというのに。
「……振り返り方も気品あふれるっ!」
「俺、これから発展途上国に学校つくる!」
男が単純すぎる。女性もこれぐらい単純なら、苦手じゃなくて済むというのに。と、八咫野が友達と別れてこちらを向く。明らかに視線は俺を向いていた。
えも言わせぬ圧、足音も漏れ、上品さは近づくほどに薄れていく。
そして俺の机の目の前で止まる。
「ちょっといいですか?」
「な、なんだよ」
明らかな怒気と殺気。そして胸ぐらを掴まれ、耳元で囁かれる。
「オイおまえ。昼休み、校舎裏、面貸せ。逃げたら殺す」
ヤンキーのような口調で凄まれ、俺は口を呆けて「……はい」というのが精一杯だった。
俺が八咫野に胸倉をつかまれる理由、殺意を向けられる理由といえば覗き。だが、それを抜きにしても彼女の性格が変わりすぎではないか。まるで、そう。
「べつ、じんかく?」
俺がつい口から漏らしてしまうと、八咫野はお嬢様らしさの一切ない、不敵な暗黒微笑を浮かべた。
これは、催眠アプリから始まる純愛の物語である。……いや催眠で純愛ってなんなんだよ。




