ep.27 藤原真希の心が揺れた瞬間
藤原真希は、目の前のスマホ画面を見つめたまま、小さくため息をついた。
「今、この子たちを追っているのが一番楽しい…」
カフェの窓際席。
さっきまで賑やかだったランチタイムは過ぎ、店内には数組の遅めの客と、パソコンを開くリモートワーカーがちらほら。
テーブルに置かれたアイスコーヒーの氷が、カランと音を立てる。
スマホの画面には、キャラランド男性アイドルオーディションの特設サイト。
男性アイドルオーディションにエントリーした写真とプロフィール567人が並んでいる。
「567人から、一次審査通過者が20人か……」
今年2月、なんとなくSNSで目にした“キャラランドが男性アイドルをプロデュースする”というニュース。
キャラランド。懐かしい響きだった。
中学生の頃、当時はまだ使っていたガラケーに、べにほっぺのデコメを山ほど入れていた。
待ち受けも着せ替えも、ぜんぶべにほっぺだった時期がある。あのころの記憶が、なぜかやけに鮮明に思い出された。
興味半分、懐かしさ半分でページを開いた。それが、真希の「推し活未満」の始まりだった。
今年で29歳になった。
5月1日、真希は静かにひとつ年を重ねた。
大学を出てから、就職して、それなりに働いてきた。
人並みに失敗もして、人並みに達成感も味わってきた。
恋愛も、まったく縁がなかったわけじゃない。でもいまは誰とも付き合っていない。将来結婚したいかと問われれば、たぶん「はい」だと思うけれど、誰と、どんな風に、という具体的な絵はまったく浮かばない。
「好きって、どんな感情だったっけ……」
最近はそんなふうに思うことが増えた。
胸が高鳴るとか、どうしようもなく気になるとか。そういう“心の揺れや動き”から長い間、遠のいている。
仕事は嫌いじゃない。友だちとの人間関係も良好してない。けど、ふと空を見上げるとき、心のなかにぽっかりと穴があいているような気がする。
そんな時に、たまたま知ったキャラランド主催の男性アイドルユニットオーディション。
オーディションの応募者のエントリーページを観るようになってから、そんな“ぽっかり”がほんの少し埋まった気がする。
「推し」ができたわけではない。
でも、応募者ページをみていると気になる子は数名いる。
見た目が好み、とか。歌声がすてき、とか。
理由なんて、後付けだ。それでも、たしかに心が引っかかる。
SNSで「#キャラランドGENSEKIオーディション」を検索する。
そこには推しを見つけた人たちの熱量がタイムラインに並んでいた。
「……いいな、って思う」
それは、他人の感情に憧れる気持ちじゃなくて、「そこ」に自分も混ざってみたいという淡い欲望だった。
「真希さん、最近、ちょっと表情が変わりましたよね〜」
会社の後輩が言った。
からかい半分、興味半分のその一言に、真希は思わず笑ってしまった。
「何それ? 老けたってこと?」
「違いますって! なんか……楽しそうっていうか。前より明るくなった気がする」
思いがけない褒め言葉だった。
でも、たしかに――
夜、寝る前にスマホでオーディションのランキングを確認したり、気になるの子たちがSNSで発信してるコメントを読んだりしているとき、心が軽くなっている気がする。
そして気がつけば、“推し候補の子たちのなかから誰かがデビューしてくれたらいいな”と願っている自分がいた。
仕事の帰り道、ふと立ち寄った駅前のビルの屋上庭園。
少し肌寒い風に、ジャケットの襟を立てながら、真希は空を見上げた。
まだ、誰かを「推す」とは言えない。
でも、「誰かを応援したい、自分も混ざってみたい」と思える気持ちは、すでに生まれている。
29歳の誕生日に誓う、小さな変化。
今年は、何かに夢中になってみよう。心が揺れるものを、ちゃんと信じてみよう。
「……もしかしたら、“推せる”子が現れるかもしれない」
言葉に出してみると、不思議と胸の奥があたたかくなった。
たぶん、これは“はじまり”なんだ。
推しが生まれる、その前の、心の小さな「揺れ」。




