霧雨
何とか仕事を終わらせて、最終の新幹線で追いかける。
電話の向こう、博之の焦ったような声を遮って、私は早口で言い捨てた。
「忙しいなら無理して来なくていいよ。一人でゆっくり回るから」
ボタンを押して通話をぶつりと切った。
鼻から細く息を吐き出して、その場に立ち尽くす。心臓の鼓動が早く、胸が苦しかった。
しばらく待っても、携帯電話は鳴らない。
二人でここに来られるのを楽しみにしていたのに。待ち合わせの新幹線に乗れないどころか、最終でしか来れないなんて。いくら仕事だからって、今日は土曜日で、本来なら博之も休みのはずなのだ。
小さな駅の外では、どんよりとした曇り空の下、小雨がぱらついている。
ホテルのチェックインは三時からだ。私は折りたたみ傘を取り出し、コインロッカーに大きい鞄を預けた。
財布に丁度三百円入っている。ささやかな幸運だ。
硬貨を続けざまに放り込み、がちりと鍵を掛けた。荷物も無くなって、本当にひとり。身軽になった。
駅から歩き出し、ロータリーを回り込みながら、どこへ行こうかと考える。
いけない。
バッグに手を入れて、思わず溜め息をついた。ガイドブックを、ロッカーに預けた大きい方の鞄に入れたままだった。
ついでにしまったばかりの携帯電話を取り出してみる。着信もメールもない。
ガイドブックだけを取り出す為にもう一度三百円払うのも馬鹿馬鹿しい。
ひとりの上、雨も降っている。本をめくりながら見知らぬところへ足を伸ばすより、記憶を頼りに懐かしい場所を訪れてみよう。
私は駅前の小さな観光案内所で、無料の地図をもらうと、案内所の親切そうなおばさんに教えられた、バス乗り場へと歩き出した。
ここを訪れるのは中学校の修学旅行以来だから、もう十年以上も前になる。
クラスで四つの班に分かれ、皆で顔をつき合わせて、どこを見学するか考えた。男子たちは好き勝手なことを言っているばかりで、結局私たち女の子が、先生に認めてもらえそうな場所で、行きたい場所をまとめたのだった。
当時好きだった男の子と同じ班になれた私は、班長に選ばれてしまったことさえ、彼と話す口実となって嬉しかった。それでいながら、同じ班の違う男の子に、ちょっとときめきを覚えたりもした。とても懐かしい思い出だ。
市内からバスで十分ほど、小高い山へと続く一帯に入ると、立ち並んでいたビルは緑の木立へと姿を変える。どの樹木も太くて逞しい。ほっそりした若木は少ない。古色蒼然たる山林を、整然とアスファルトの道路が貫いているのが、不思議に見えた。
有名な神社の前でバスを降りる。
雨はさらに小降りになっていたが、まだ降り続いていた。仕方なく折りたたみ傘をもう一度広げる。白く濁った空が、緑の折りたたみ傘の向こうに隠れた。
朱塗りの大きな鳥居をくぐり、砂利道の参道を歩く。
この神社も、修学旅行の時に来たはずだ。こんな森に囲まれた広い砂利道を通ったような、通らないような……。思い出の場所にくれば、記憶もそれにつられて蘇ると思ったのだが、曖昧なままだ。
よく覚えてもいないくせに、私は一度訪れたきりの、この神社をずっと再訪したかった。大きな神社の奥に、いくつもの神様を祀った小さな神社がいくつもあったはずだ。その中に、夫婦の神様を祀った縁結びの神社がある。歴史深い大社より、十代半ばだった私たちには、そちらの方が興味深かった。
私にとって初めての彼氏ができたきっかけが、その神社だったのだ。縁結びの神社を訪れ、女の子同士できゃあきゃあ騒ぎながら、お守りを買ったり、男の子たちに隠れて絵馬を書いたりしている間、ルート作りの時に一緒にガイドブックを覗いてくれた男の子と話をする機会があった。当時好きだった男の子の友達だった彼に、私は思い切って好きな男の子の名前を打ち明けて、協力を頼んだのだ。
修学旅行が終わった後、協力を頼んだ男の子の方と、結局つきあうことになった。今思えば、彼に多少でも関心があったからこそ、好きな人を打ち明けたりしたんだろう。
経過はどうあれ、私にとってはご利益てきめんの神社なのだ。
そこに博之と来てみたかった。
最近、博之とはすれ違いが続いている。つきあって一年以上経つけど、結婚の話も出ていない。
主な原因は博之の仕事だと思う。彼の会社では、不景気でアルバイトや派遣社員を削ったらしく、正社員の博之たちの負担が大きくなっているそうだ。残業が増え、去年までは無かった休日出勤も月に何回かある。
私は博之とは別の会社に勤めている。派遣社員の身分だが、幸いにもまだ契約の更新が続いている。でももちろん、私の方だって、仕事は楽ではない。他の年配の派遣社員が減って、私の仕事は増えた。残業ができないから、効率を求められる。これはこれで、ストレスが溜まる。
でも残業や休日出勤はない。博之とつきあい始めてから、女友達とはやや疎遠になってしまったので、休みの日、いきなり連絡を取って遊びにさそうこともしづらい。悪い癖だと分かっているんだけど、彼氏ができると、どうしてもそっちを優先してしまう。
だから最近は、休日や退社後の時間を持て余し気味だった。
寝る前に必ずメールしようっていう約束をしたのに、それもここのところ、私からメールしても博之から返事がこない。
ちょっと頭に来て電話すると、夜遅く、一応折り返しの電話はくれる。私から掛けて、それがそのまま繋がることは滅多にない。
「疲れてて、家帰ってすぐに寝てしまった」「忙しくてメールする暇がなかった」「今度、ゆっくり会おう」
そんな台詞ばかり、同音異句に繰り返されている気がする。
疲れているのも忙しいのも分かる。けど。
もう少し、一緒にいて欲しいというのは我儘なんだろうか。
私が博之の家に行けばいいのだけれど、彼はあまり自分のアパートに私が来るのを快く思っていないようだ。合鍵ももらっていない。
博之の部屋はいつも綺麗に片付いている。他人に自分の領域をかき回されたくない人なんだろうというのは、つきあい始めの頃からなんとなく分かってた。
私の方から、結婚の話を持ち出すことにためらいがあったのは、そうした博之の壁を感じる性格もある。でも一番の理由は、やっぱり男の人からプロポーズして欲しいからだ。子供っぽいと思うけれど、憧れだったのだ。
でも博之の方からは、何も言ってこない。つきあって長いのに、私の両親に挨拶もしたことがない。
私の親は特に考え方が古くも、頭が固くもない。以前にも彼氏を家に呼んだことはあるし、博之と会わせたから、即結婚という話にはならないと思う。
けれど私が家に遊びに来ないかと誘っても、博之は渋った。
博之は大学の友人の紹介で知り合った。私と同じ映画好きで、話は合うし、一緒にいて気を使わずに済む。優しいし、頭も悪くない。
ただ、株や投資に興味があって、不況の今がチャンスだからと、色々勉強しているみたいだけど、そんなことより、私はスポーツのひとつでも始めて欲しいと思う。体調も崩しやすくて、そういうところは、ちょっと頼りない。
でもそんなことはささいな欠点だ。何もかも理想通りの王子様なんて、いるわけがない。だから、仕方ない。博之みたいな人が、私には丁度いい。
今までそう思ってきた。
会えない時間が長いと、彼は何をしているんだろうと思う。
出会って間もない頃は、それは不安と焦燥が混ざった、温かいときめきだった。
でも今私の中で弱々しく渦巻いているのは、乾いて色の無い、砂漠の風のようだ。水を与えても砂地に吸い込まれるだけ。
他の女がいる。
私に飽きた。興味が無くなった。
一緒にいることに疲れた。
本当に仕事が忙しい。
博之について思いを巡らせると、こんな理由が浮かんでは消えていく。それは過程であって、辿り着く結論は同じなのだ。
私は大切にされていない。
多分、そんなはずはない。
博之は話に聞く友達の彼氏に比べると、ずっと優しい。殴ったりとかはもちろん、私に向かって怒鳴ったりしたこともない。ケンカしても、大抵博之から謝ってきてくれる。
きっと私の我儘なんだ。分かってる。
でも分かったからって、寂しさは埋まらない。
考え事をしながら、しっとりと濡れた砂利道を登るうち、左手に屋根と柱が赤く塗られた、大きな建物が見えてきた。本殿に繋がる門である。
私の前後を歩いていた疎らな観光客は、石段を上がって、例外なく門へと向かう。中には、石段のところに並び、立派な門構えを背に写真を撮る人たちもいる。
彼らを横目に、私はそこを通り過ぎる。靴の踵が湿った砂利に埋まって歩きにくかった。
私が目指すお社は、もっと奥にあるのだ。名前は忘れてしまったけど、昔の偉い神様とその妻にあたる女神様を一緒に祀っているらしい。それが縁結びに繋がっていると、修学旅行の頃に聞いた覚えがあった。大人になってから覚えたことは忘れやすいが、子供の頃に覚えたことは後々まで記憶に深く残っている。
緩い坂道を上った本社の奥には、末社としていくつもの神様が祀られている。道の途中に、ところどころに錆が浮いた案内板があった。記載された、各社の神様の名前は、ほとんど読めもしないが、「夫婦」という字を使ったお社が、目当ての場所だと分かった。
踏みしめる度に、じゃりじゃりと単語通りの音を立てる砂利道を上る。神社があるこの土地は、なだらかな山だ。疎らだった木立が深くなっていくにつれ、道も狭くなっていく。垂れこめた雲の下、相変わらずそぼ降る小雨は、空気を冷やし、あたりは森閑としていた。私しかいない。
ようやく坂道の先に、お社が見えてきた。記憶にあったものよりも小さかった。
おなじみの大きな鈴をぶらさげた、お参りをする建物の横で、おみくじや絵馬、お守りをいくつも売っている。カップルや女の子が多いのではないかと思ったが、平日の悪天候のせいか、ここにも私しかいなかった。
縁結びの可愛いお守りを手にとり、私は戸惑った。もう、私には縁がある。博之がいる。
でも彼とのつきあいは、私が望む永遠の縁に繋がっているのだろうか。
別に結婚がしたくて博之とつきあっているわけではない。でも彼が、その先、未来のことを何も描いていないなら、あるいは彼が考える未来の中に、はっきりと私の姿が無いのなら。
私は一番安い、赤い布でくるまれた御守りを手に取り、巫女装束の女の子に七百円払って、それを買った。紙袋に入れてもらった御守りをバッグに無造作に入れる。
そのままぶらぶらと商品を見て歩き、小さな売り場の隅にあった、白地のハート型の絵馬を手に取った。絵馬と呼ぶのが似合わないほど、ファンシーで可愛い形だ。
これを納めるとして、何て書こう。博之と結婚できますように。彼にその気が無いのなら、もっと素敵な人が現れますように。
でも何故か文字にすると、ひどく薄汚くて安っぽい願いのような気がする。私の望みは、そんなに惨めなものなのだろうか。世の女の子の大半が望んでいるはずだけれど。
私は絵馬掛けに歩み寄り、たくさん下げられた、夫婦の神様への願い事に目を通してみた。
『今年こそ彼氏ができますように』
『婚活が成功しますように。千春』
そんなストレートな女の子の願い事もあれば、
『ずっと一緒にいようね。みどり&達也』
『今年結婚します! 志保 篤』
カップルで書いたと思われる、羨ましくなるような絵馬もあった。私も、博之と二人で、こうやって何か書きたかった。二人の結びつきを、ここの神様に見守って欲しかった。一人で縁結びの御守りを買いたかったわけじゃない。
『息子にお嫁さんが来ますように。青山真紀子』
『今年こそ、綾に良縁がありますように。母』
子供たちの幸せを願う、親御さんが書いたと思われる絵馬もあった。私の母も、そろそろこんなことを神社にお願いするようになるのだろうか。
他人事のように考えていた私の視線は、ひとつの絵馬に吸い込まれた。
『深雪が幸せでいますように。黒田祐介』
黒田祐介。
もう一度その字を追いかける。男の人の名前で願がかけられていた絵馬は珍しかった。
でもそれ以上に、私の目を見張らせ、心臓の鼓動を早めているのは、その名前だ。
十年以上前、この神社で仲良くなって、初めてつきあい、初めてキスをして、初めて肌を重ねた男の子と同じ名前の人が、私と同じ名前の女性の幸せを願っている。こんな偶然はあるのだろうか。
中学の修学旅行で、私は同じ班にいた黒田君と仲良くなった。野球部に所属していて、髪の毛を短く刈っていた、洒落っ気が少なく、真面目な男の子だった。だからこそ、班の皆が遊んでばかりの中、運悪く班長などに任命されてしまった私を手伝って、コース作りをしてくれたのだ。
当時私が好きだった男の子は、同じ班の私の友達と話していることが多くて、せっかく同じ班になれたというのに、それを目にするのがつらかった。友達の方が私より、華やかで可愛かったのだ。
そして、それまで男子の友達という存在がいなかった私は、逆に黒田君と親しくなっていくことは、慰めのように嬉しかった。
修学旅行の当日も、憧れの男の子は、別の男の子と、私の友達の女の子たちと四人でつるんではしゃいでた。お土産屋などであちこちで足を止めて時間を食うみんなを、班長である私が引っ張らなければいけなかった。成績が良いという理由で班長に選ばれたが、およそ私は人の前に立つ性格じゃない。楽しそうにしている皆の尻を叩いて、決めたコースを辿らせるのは大変だった。やはり黒田君は、私を手伝って、皆──特に男の子──に一緒に声をかけてくれた。
そのうち自然に、私は黒田君と連れ立って歩くようになった。彼はお調子者タイプではないし、他に女の子の友達もいなさそうだった。男の子に慣れない私も、喋っていて、すごく安心した。
この神社で、いつまでもお守りを見ている皆を待ちながら、私は好きだった男の子のことを話題に上げて、黒田君との話を繋いだ。人の良い黒田君は、協力すると言ってくれた。
彼とのちょっとだけ親しい付き合いは、修学旅行の後も続いた。修学旅行の写真を送ったり、好きな男の子の話を聞いたり。
その男の子が、実はバスケ部の後輩に告白されて付き合うことになったと聞いても、私が受けたショックは今にして思えば、大したことはなかったのだ。それをネタにして、黒田君と話し、彼に慰めてもらえることの方が嬉しかった。
私たちは互いの感触を探りながら、少しずつ自然に距離を詰めていった。放課後に図書館で一緒に受験勉強をするようになり、休日も一緒に勉強をしたり、時には気分転換に公園に行ったりするようになった。中学三年の夏休みに、黒田君が告白してくれた時も、今にして思えばけじめのようなものだった。私もそれをどこかで当然だと思っていたし、後から聞けば、彼も私が断るとは思っていなかったという。
別々の公立の共学校に進んだにもかかわらず、私と黒田君の仲は無事に続いた。私たちは不思議なほどうまがあったのだ。他の男の子にときめくことはあっても、冒険できない私の心は、結局黒田君を離れることはなかった。
全てが初めてのことだった。男の子と二人で待ち合わせをするのも。手を繋いでデートするのも。両親に彼氏だと紹介するのも。キスやその他の触れ合いも。
このままこの人とずっと一緒にいて、彼しか男の人を知らず、彼のお嫁さんになるのだと思っていた。
大学三年になって、私がサークルの後輩の猛アタックに降参するまで。
大学も別々に進んだ私たちは、少し奢っていたのかもしれない。あるいは刺激が少なすぎたのかもしれない。ちょっとした油断に火がつくと、燃え尽きるのは意外と早かった。
悩んだ末、私が後輩への気持ちを打ち明けた時、祐介も大学の同級生に告白されたと私に告げた。中学で野球を辞めていた祐介は、高校から陸上に転向していた。背も随分伸びた。素朴だった坊主頭の男の子は、髪の整え方も覚えて、大学に入る頃には少しかっこよくなっていた。
長くつきあってきて情はあったのだから、どちらかが縋りつけば、それは小さな浮気で終わるはずのことだったのかもしれない。でも私たちはそうしなかった。
別れても連絡しようと言ったけれど、それきり私は彼にメールすらすることもなく、向こうからも連絡は来なかった。恋愛を除けば、こんなに共通点の少ない人だったのかと驚いた。
祐介と別れたあと付き合った大学の後輩とは、一年も続かなかった。惚れっぽい彼は、後輩の女の子にあっさり目を移してしまった。私も若い女の子にうつつを抜かしている彼に格別未練は無かった。
その後も、合コンで意気投合した、真面目そうなシステムエンジニアとか、勤め先の同僚が紹介してくれた男友達とつきあったけれど、半年そこそこで消滅してしまった。
出会った時には、話すこともたくさんあるし、会っていて楽しい。どきどきする。でもそれも段々と薄れていく。多分相手も同じで、そんな頃に彼らは、仕事が忙しくなったといって、徐々に連絡をくれる頻度が低くなるのだ。
別に私を嫌いになったわけではなくて、ただ私の存在が日常化して、仕事やその他の付き合いに対する優先順位が段々と低くなっていくのだろう。一言で言えば倦怠期。それを今までの彼氏と乗り越えられなかっただけのことなのだ。博之とは長く続いていくかもしれないと思ったけれど、この頃急激に冷めてきている。
でも祐介とだけは六年も続いた。
いかにも小中学生が好きそうな、俗っぽいデザインの絵馬を眺めながら、怒涛のように祐介との思い出が溢れかえった。
恋に落ちる前から、彼はいつも真面目で優しかった。
歩く時には、いつも私を車道と反対側にしてくれた。デートのお金は割り勘だったけれど、お菓子や食べ物を半分にすれば、必ず大きい方を私にくれた。口数は少なかったけれど、私の長くてまとまりのない話の腰を折らずに、黙って聞いていてくれた。
同級生や先生に見つかったらいけないと、手を繋ぐことも遠慮して、緊張しながら並んで歩いた中学からの帰り道。
よく待ち合わせをした、大きなターミナル駅のケーキ屋の前。祐介は痩せ型の割に、甘いものが好きだった。私が遅れていくと、大抵ショーウィンドウの中の可愛らしいケーキを覗いていた。
西日が差し込む、夏の長い夕方の祐介の部屋。祐介のお母さんが帰るまでの時間、少しだけしっとりとしたシーツとタオルケットの間で、私たちはお互いの温かさを抱き締めてまどろんだ。そのあと、素知らぬ顔で、祐介のお母さんに作ってもらったご飯をごちそうになっていく時、少女だった私は甘くて苦い、物慣れない大人の罪悪感に包まれた。
『今度、またあの神社に行きたいね』
祐介の柔らかい口調が、耳の奥に蘇る。
今度。来年は。高校に受かったら。大学に入ったら。結婚したら。
彼と手を繋いで交わした、他愛もない話は、いつも未来に向かっていた。祐介が考える、祐介が描く未来には、その風景に自然に私が納められているのが、言葉の端々から感じられた。私はその束縛をとても愛していた。
どうして、つまらない男の口先だけの刺激に引っかかって、かけがえの無いひとの手を離してしまったのだろう。
大学の後輩をはじめ、他の彼氏のことは、別れた後に思い出すことは少なかったけれど、多感な時期に初めてつきあった人であるせいか、祐介のことは折に触れてよく思い出した。それこそ季節が巡るごとくらいに。
でも、形としては、私が他の男性を選んで、彼を振ったことになるのだ。別れた後、自分から連絡を取るのが怖くてできなかった。そうこうしているうちに、時間が積み重なっていき、どんどん連絡を取りづらくなってしまった。
黒田祐介、と書かれた絵馬にそっと触れる。一番上に掛けてあるということは、この絵馬はまだ新しいのだ。指先が震えた。絵馬は霧雨で湿って冷たかった。
背後でざくりと音がした。湿った砂利を踏む、心地よく美しい音。
私はゆっくり振り返る。
一匹の鹿がお社の入り口にいた。
この辺り一帯では、昔から鹿は神様の使いと言われ、放し飼いにしている。ここに上ってくる間にも何匹かとすれ違った。
昔、修学旅行で来た時には、もっとたくさん鹿が集まっている場所で餌をやりながら、皆ではしゃぎ回った。売店で鹿の餌を買うか買わないかという内に、食欲旺盛な鹿たちがわさわさと押し寄せてくる。神様の使いにしては、とても欲望に正直だと思った。
鹿はじっと私を見つめている。私は絵馬棚から離れ、鹿に砂利を踏んで近づいた。
手を伸ばして頭を撫でても、鹿は逃げなかった。動物特有の温かい体温と、ざらざらとした体毛が手の平をくすぐる。
私はしばらく、鹿の潤んだ、泣き出しそうにも見える大きな瞳を見つめていた。鹿もおとなしく頭を撫でられながら、首を上げて私を見つめ返していた。
やがて鹿は頭を下げて後ずさる。行き場の無い私の手は、湿った空気を虚しく掻いた。
鹿は首を返して、独特のゆったりした足取りで、お社の外へと歩いていく。
祐介かと思った。彼がここに来て、絵馬を納めていったのかと思った。足音に気づいてから振り返って鹿を見つけるまでの、一瞬の期待と願望は、鹿が去った後にようやく私の中で形になった。
でもそんなはずはない。
一昨年の秋、中学時代の友達からの電話を受けて、私は祐介の死を聞いた。交通事故だったという。
とても信じられなかった。最後に目に焼きついた祐介の姿はまだ大学生で、私と別れて新しい恋人を作って、就職して、結婚して……まだまだその先が開けていたひとだった。
友達と連れ立って参列したお通夜で、棺に納められた彼の遺体を見ても、まだ実感が湧かなかった。車にはねられたという話だった祐介の顔は、ひどく損傷していたわけではなかったが、左の頬から顎をガーゼで覆われていて、痛々しかった。まるで誰か別の同級生の遺体と対面しているような気分だった。
通夜ぶるまいの最中、久しぶりに裕介のお父さんとお母さんに会った。二人とも既に落ち着いていたけれど、ことに若くして息子を亡くしたお母さんの憔悴は、弔問客に向ける乾いた愛想笑いの下に透けて見えた。
ご両親と一緒に、二十二、三歳くらいの喪服の女性がお酌をしていた。裕介は一人っ子だ。恐らく裕介の彼女だろうと直感した。彼女も取り乱した素振りはもはや無かった。
「こちら、裕介の中学の時の彼女さん」
久しぶりの再会の挨拶がひと通り済むと、裕介のお母さんは、私を彼女にそう紹介した。私たちは複雑で他人行儀な視線を交し合った。
ご両親は、もう少し裕介と私との思い出話をしたそうだったが、裕介が死ぬ直前までつきあっていた彼女の前では、気が引けた。多分向こうは、裕介の子供の頃の恋人など、それほど気にしていなかったのだろう。気にしていたのは私の方だった。苦しくて、胸がつかえて、言葉が出なかった。
結局、お悔やみのほかに、ふたことみこと、私の近況などを話すと、私は友達と連れ立って席を立った。帰りしな、「またいつでも遊びにきてね」と、裕介のお母さんが社交辞令で言ってくれたが、多分この人たちに二度と会うことはないのだろうと思った。
仕事を休むことができなくて、翌日のお葬式には出席できなかった。
そのせいなのか、私はお通夜の最中も、その後も、一度も裕介のために泣かなかった。
裕介が棺に納められ、火葬場へと送り出される光景を目にしていないためだろうか。それとも別れてからずっと会わなかった空洞の時間が長すぎたためだろうか。私は裕介の死を信じることができない──というよりも、彼の死そのものを忘れてしまっていた。友達からの電話を受けてから、お通夜が終わるまでの記憶が、ぽっかり抜け落ちてしまっているようだった。
当時つきあっていた、少し冷め始めていた会社員の彼氏とは、祐介の通夜から数日もしないうちに別れてしまった。私から振った。もう、一緒にいても意味が無い気がしたのだ。彼も意外なほどにすんなりと別れを受け入れた。
私は再び、絵馬棚に歩み寄った。
深雪が幸せでいますように。
やや崩れた大味な文字が、懐かしい恋人が書く字と似ているのかどうか、もう分からなかった。
白地のハート型の絵馬は細かな雨に虚しく打たれていた。ホワイトボードのような素材が水を弾いて、無数の雨粒が浮いている。まるで泣いているように見えた。
さらさらと静かに霧雨が降りしきるだけで、辺りにはひと気も無い。私しかいない。本当にひとりだった。嗚咽もなく涙が溢れて、頬を伝った。
十四歳の頃、初めてこの神社で仲良くなってから、祐介はずっと私と一緒にいた。別れた後も、私の中で、かたちにならない魂が息を潜めて、私にいつも寄り添っているような気がした。
でも、もう祐介は死んだのだ。この広い地球のどこにもいないのだ。
祐介の時間は、彼が棺に納められた時から、いや、コーヒーの香りが漂う古めかしい喫茶店で、最後に別れ話をした大学生の時から止まってしまった。
そしてそう実感すると共に、私の中で凍り固まっていたものが、さらさらと霧雨のように溶けて散っていく。止まっていたのは私の心で、彼の死のずっと前、彼と別れた時から、本当はどこにも踏み出せていなかった。
どうして、つまらない男の口先だけの刺激に引っかかって、かけがえの無いひとの手を離してしまったのだろう。
本当は、追いかけてきて欲しかった。気持ちをぶつけてくるだけの私の後輩なんかに、私を渡さないでいて欲しかった。
ずっと繋いでいた祐介の手を離してしまった後も、私は心の中に住んでいる幻の彼の手を取り続けた。いつかどこかで、もう一度、祐介と会うことができたら。
自分から追いかけることが怖くて、ただ彼が私を迎えにきてくれた時のために、心の中に彼のための場所を空けておくことしかできなかった。
祐介が本当にいなくなった後も、その場所を埋めることができずにいる。でもそこには、学生時代の思い出と混ざって、理想の結晶と化した祐介の姿の虚しい幻しかなかったのだ。
傘にぱらぱらと軽やかな音が落ちる。
私が声を殺して涙を流す間に、少しずつ雨は大粒になってきたようだった。音が耳に届くと同時に、時間が静かに流れ始める。
もう一度、私は指先で絵馬に触れた。絵馬は消えたり、文字を変えたりするようなこともなかった。
安っぽいマジックインキで書かれた文字はとても日常的で、たとえばそこに何か、超自然的な力が働いていると想像させるような気配は微塵もない。私の昔の彼氏と同じ名前の人が、私と同じ名前の女性の幸せを願って、ハート型の絵馬にマジックで文字を書いて納めたと考える方が、現実的だった。
振り向けば、先ほどの鹿の姿も既に無かった。
死んだ人間は、何もすることができない。何か生きている人にメッセージを送ろうとしても、気のせい、偶然だと片付けられてしまうような、小さな奇跡を起こすのがせいぜいだ。
それに比べれば、私は自分の力でこんなに簡単に、話して、歩いて、考えることができる。生きていることの方が、遥かに偉大な奇跡だ。
私がするべきことは、祐介のような人を求めてただ待ち続けることではなく、彼が私にそうしてくれたように、大切な人の手を取って、一緒に繋がる未来へと導いていくことなのだ。
立ち去り際、お参りをしようと思って、やはりやめた。傘を差したまま、本殿に向かって軽く頭を下げる。
お参りは、明日博之と一緒にしよう。これまでの感謝を込めて、そしてこれからの幸せを願って。今日は雨でも明日は晴れるかもしれない。
私はお社を出て、バッグから携帯電話を取り出した。やはり着信もメールも無かった。
博之の仕事が忙しいなら、私が待てばいいだけのことなのだ。仕事中では電話にも出られないだろう。
私はゆっくりメールができるような場所を探しながら、雨のそぼ降る砂利道を下った。
了