星祭り 第4話 鐘の音
影ばかりが目立つ薄暗い練習場。
リングを照らす蛍光灯にもホコリか積もっている。
相間 心は両手のグラブをポンっと叩き合わせると、あごを引き、相手をにらむように拳を構えた。
甲高い鐘の音。
それは、とても短く、響くこともない、区切りの合図。
観客のいない練習試合。
スパーリングが始まった。
シューズの底が、リングをこする音。
立花が動きが早い。
心は、肩を強張らせるようにして、身構える。
すぐに、乾いた、衝撃音。
強烈なパンチが、心のガードに弾けた。
雨音が激しい。
風が窓を揺らしている。
ジムの外を行き交う人の気配も消えた。
心は、冷静な自分に驚く。そして、どこか、他人事のようにリングに立っているような錯覚。
感覚が研ぎ澄まされているときに感じる違和感だ。
こういう時は、思考も早い。
立花は、心のあごを目掛けてジャブを2発、続けて放つワンツーも、顔面だった。
防戦一方の心。ガードは、本能に従って上がってしまう。
立花の狙いはボディ。
心は、そう思った。それは、彼にとっては、ひらめきに近い思考、熟考をしていない予想だった。
立花の左肩。その小さな、予備動作。それを、心は、捉え、ガードを意図的に下げた。
そして、彼は、立花のパンチを顔面に浴びた。
結局、立花は、ジャブを放ったに過ぎない。
それを、彼は浴びた。
そこからは、歯車が狂いはじめた。
立花の拳が、心を捉えはじめる。
相間 心は、気がついたら、リングのロープに背を預ける格好になっていた。
ロープを張りを利用しての防御技術など、彼は、持っていない。だが、ガードだけは、固めようと必死になった。
必死のはずなのに、ボクシングのことでなく、双子のことが頭に浮かぶ。
あいつら、本当に、傘を持って行ったか?
油断といえば、油断。
余裕がまだあるといえば、そうかもしれない。
ただ、彼は、ガードを緩めることはなかった。
ジムから離れた場所、駅の向こう側、子供なら徒歩で20分程度の距離に小学校がある。
チャイムの音が、授業の終わりを告げた。
子どもたちは、席を立ち、遊びにいそしみ始めた。
心が預かることになった双子の兄妹。
一心と心月は、3年生の同じ教室にいる。
双子は、別々のクラスが普通だ。
3時間目の授業を終えたばかりの担任は、教団の上の帳面を閉じた。隣同士の席に座る双子を見る。授業と授業の合間の休み時間、そこに、友人と呼べる者の姿はなかった。
担任は、双子の転校が決まった日のことを思い出す。
その日の朝、職員室。
登校している児童が少ない時間帯。
教師たちが、事務机を前にして起立している。
教頭の事務連絡が終わると、40代の若い校長が、転校してくる双子の話をはじめた。
そして、締めくくりに校長は、
「事情が、事情ですから、竹内先生の3年2組に2人とも編入します」
と言い、教頭の号令で朝礼は、終了した。
廊下を子どもたちが駆ける音、笑い声も聞こえはじめている。
教師たちが授業の準備といった事務作業をはじめる中、定年間近、白髪混じりの教師、竹内が校長を呼び止める。
「校長先生、事情が事情だから、双子は、クラスを分けた方が」
竹内の言葉に校長はかぶせた。
「竹内先生は、私より年上で経験豊富なのは認めますが、私だって、実績の積み上げで校長になったという自負があります。あとは、竹内先生の手腕でしょ」
竹内は、そのことを思い出し苦笑した。
教室の黒板側、その窓際にある教室員用の事務机。
そこに、竹内は腰掛けた。
机の上に貼られた座席表。
休暇時間だ。行儀良く座っている児童は少ない。
そうは言っても、双子以外にも、ちらほらと着席している生徒が散見される。
竹内のクラスは、38名だ。
生徒一人一人を理解しているとは言いがたい。彼は、それが出来てると言う教員の言葉を聞くたびに、心の中で「うそつき」とつぶやいた。うそじゃないとしたら、「よほど、鈍感なのだろう」とも、考えている。
乱暴でも優しい子、大人しくても厳しい子、その逆、その割合、組み合わせの数、要素を限定しても、さまざまで難しい。さらに、子どもたちと向き合う時間も限られている。
しかも、子どもたちの成長は早い。
それは、言いかえれば、変化のスピードだ。
「無理だろ」
竹内は思う。
休憩時間に席を立たないで、大人しくしている子は、どのクラスにも、数名はいる。双子が、他の子とふれ合わないのを、必要以上に、問題視するのは、ひいきのような気もした。
先入観をなくせば、彼のクラスは、平穏に見える。
それにしても、この「相間」という苗字には……
彼は、堂々巡りになりそうなので、途中で思考を止めた。そして、次の授業の確認をはじめた。
授業と授業の合間の休憩時間は、10分だった。
たった10分の休憩時間。
それでも遊びに夢中な子どもたちの活力で、学校全体は、騒がしい。
3年2組の教室。
双子の兄妹、 相間 一心と心月の席は隣同士た。
兄の一心は、机に腕を伸ばした状態で、うつぶせになり、そこから前に突き出した両手をバタバタとさせた。
彼は、そのまま、吐き出すように、
「ひまだぁー」
と叫んだ。
近くにいた児童数名が、びっくりして様子をうかがうも、彼と目が合うと、そそくさと離れる。
「お兄ちゃん、目つきが悪いわよ」
妹の心月は、兄越しに、窓の外が見えた。
灰色の空、遠くに見えるはずの山の稜線は、雨のせいか、濁った空気がおおい隠す。冬の澄んだ空気、手がかじかみ、吐息も白くなる、晴れた日なら、前いた学校では、雪をかぶった富士山が見えたことを、心月は思い出した。
電車で1時間ほどの距離だと彼女は思う。
小学3年生、まだ8歳の彼女でも地図で想像するぐらい出来た。
兄の一心は、その間も、しゃべり続ける。
居候先で大人しい分、ここで晴らしているかのよう。
だから、彼女は、
「お兄ちゃん、男子と遊んできたら?」
と言った。
丸めた新聞紙をボールにして、野球? のようなものに、他の男子たちは、興じている。有名なプロ野球選手の名前を叫びながら、ほうきをバットのように振る。空振りなら大声で悔しくがり、当たってはしゃいでも、大して飛ばない。
心月は、読みかけの学級図書のページに目をやる。
「だって、テレビもないんだぜ」
兄の話が、飛んでいる。心月の問いは、なかったことになったようだ。
テレビはあるにはある。ただ、相間 心、一心と心月の面倒を見ている……とはいえ、心月には、部屋を貸してもらっているだけとしか思えないが……その、寝泊まりをしている部屋には、テレビはない。
「おじさん達なら良かったのに……」
心月は、本音を漏らしてしまう。
「おじさん達って、ラーメン屋のおかみさんとおやじさんか?」
兄の一心が、心月の言葉に食い付いてしまう。
「バラバラにならなくて良かったんだから、感謝しなくちゃ。それに、施設はなんか……」
心月は、前の学校にも養護施設から通う子たちがいたことを思い出す。
「俺、あのおっさん、苦手なんだよな。顔が怖いし」
兄は、相変わらずノリノリで口を開く。
顔が怖いというより、無愛想なのは、お互いさまじゃない? と妹の心月は思うが声には出さない。あと7年すれば、中学を卒業する。おっさん、もとい、心のおじさんも中卒で施設を出たらしい。詩織お姉さんは、働きながら夜間高校に通って、大学生だ……
だから、7年の我慢だと、彼女は思う。
誕生日は8月、それは、ちょうどお盆の時期で、友達を呼んでの誕生日会はしたことがない。都会の、この時期、里帰りする子が多い。今は、友達と呼べるような子は、クラスにいないから、そんなことに、気を回す必要は、なかった。
「ねぇ、詩織お姉さんの誕生日、そろそろって、知ってた?」
兄の一心は、キョトンとした。
とうせ、知らないだろうと心月は思う。
なぜか、心のおじさんも、知っているはずがないと確信をしてしまう。
休憩時間の終わりの合図。
チャイムが鳴った。
担任の竹内は、手を叩きながら教壇に上がり、生徒たちに、着席をうながした。