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星祭り 第2話 古書店

 梅雨の朝霧。

 小鳥たちが、羽繕はづくろいをはじめる早朝。


 バイクのエンジン音が減速と加速を繰り返している。

 その音で朝刊が届いたことを知る者も多い。


 ボクシングジムの女将も、その1人だ。


 最近、もう一つ、朝の知らせが加わった。

 どうせ、三日坊主だろうと、たかをくくっていた音が、彼女に朝を知らせる音となっていた。


 ボクシングジムの2階、玄関の戸が閉まる音。

 カタッという小さな音には気づかいが感じられた。


 夫が、知り合いの警官から託された青年。

 面倒を見るようになってから数ヶ月は、相間 心(そうま しん)に変化はなかった。


 練習は適当で、変化といえば、成人したぐらい……


 そんな、彼が、ここ数週間、真面目に練習をしている。

 心が、階段を下る音。


 女将の隣で寝ている夫が目を覚ます。

 ボクシングジムの親父さんは、身を起こしあくびをした。


 女将さんは、そんな夫を見て、念の為に、

「あんた、今日は、ラーメン屋は定休日よ」

 という。


 親父さんは、ボクシングの構えをして、

「いろいろと教えないかんからな」

 と拳を前に繰り出した。


 女将は、その風切り音で、夫の若い頃の姿を思い出す。


 相間 心は、階段を降りると、軽い屈伸運動をする。

 辺りは、まだ、薄暗い。

 見上げなくても、空は曇っていると知れた。


 この数週間で走るコースは決まっている。

 商店街を抜け、住宅街を通り、川の土手を駆け上がり、そのまま川沿いに走っていく。


 これが、彼の朝の日課だ。


 一時間程度走って、ボクシングジムの2階で寝ている双子を起こす。これも、日課。


 走り出しの一歩目をだす。

 2歩目は勝手についてくる。


 駆け出しのリズムが決まると、呼吸は、自然に、それに合う。

 初日から数日は、腹が直ぐに痛くなり、度々、歩くこともあった。その後は、筋肉痛にも手を焼いた。


 ここ数日は、心地よく、彼は、走れていた。


 ランニング中は、物思いにふけることも多い。

 駆けている時の方が、思考が回ると、心は、思っている。


 そして、走ることは嫌いではないと気がついた。


 ランニングも終了間際、通勤時間が始まる前。

 商店街に、彼は差し掛かった。


 会いている店もない時間帯。

 店前を、掃除する人影が、パラパラと少しずつ増えてくる頃だ。


 いつもは、「おはよございます」と声を掛けられたら、あいさつを返す程度の付き合い。


 ただ、この日は、ご老人に名指しされたので立ち止まった。


「あんた、げんちゃんとこの新人だろ?」


 げんちゃんという響きに、心は、一瞬、戸惑う。

 世話になっている、ボクシングジムの親父さんが、源太げんただったと直ぐに思い出せた。


 ご老人は、彼と面識はない。

 もしかしたら、朝のランニング時に、すれ違ったことはあるかもしれないが、それを、覚えてられるほど、彼の愛想は、よくはない。


 だから、彼は、

「はい、そうです」

 と返事をするのが精一杯だった。


 一度目の人生なら、見知らぬ人の言葉は、無視していたのだから、十分だっといっていい。


 彼は、そのまま、直ぐに、走りだそうとする。


 ご老人は、

「まあまあ、待ちなさい」

 と片手で、コップに入ったお茶を飲むような仕草をした。


 心が立ち止まると、ご老人は、

「麦茶だしてやる。入って、扇風機にもあたってな」

 と言って、店の入り口の引き戸を開ける。


 彼がついて入ると、ご老人は、歩きながら、勘定台のそばにあった扇風機のスイッチを回す。


 風が吹くと、書物がめくれる音がした。


 老人が、店の奥に帰るまで、心は見送る。

 それから、店内を見渡すと、ここが、古書店だと、直ぐに気がつく。


 窓からの灯りは十分でなく、照明も消えている。

 薄暗い店内。


 それでも、本棚は見える。

 そこにある本が、真新しくないのも……


 店内は静かで、振り子時計が、時を刻む音が聞こえていた。


 戻ってきたご老人が、麦茶の入ったガラスコップを、心に手渡す。


 結露で濡れたガラスコップ。

 そこから、しずくが流れ落ちる。


 飲むと麦茶は、キンキンに冷えていた。


 扇風機の風は、ランニングで帯びた彼の身体の熱をます。汗て濡れたシャツが肌に付くと、それを、彼は、冷んやりと心地よいものに感じた。


 ご老人は、勘定台の内側に座っている。

 台の上に、5、6冊の本が積み上げられていた。


 彼は、無意識に、その中の一冊を手にとる。

 本には興味ない彼だが、積み上げられた一番上ではなく、その本を指名したかのような取り方だった。


 ご老人は、コップを勘定台の空いた場所に置くと、

「気に入ったのかい」

 と言った。


 彼は、

「申し訳ない」

 と慌てて本を置こうとする。


 ご老人は、それを止めた。

「まだ、値札は貼ってないんだ。だから、兄ちゃんにやるよ」


 心は、断るか迷う。

 ただ、ご老人の顔を見ると、それは、失礼に思えた。

 だから、礼を述べた。


 老人は言う。

「この町からのボクサーは久しぶりだ。源ちゃん以来だからな……」


 心も、ボクシングジムの親父さんが、ボクサーだったことは知っている。戦績は、そこそこだが、タイトルは持ってないボクサー。親父さんが、彼に、時折り向ける目。


 練習に真面目に取り組むようになった心を見る目と、古書店のご老人が向けるそれは、同じだった。


「頑張んな、まずは、プロテストからだね」


 ご老人の言葉。


 彼は「頑張れ」とか「やりなさい」とか、そういう言葉は、嫌いだった。昔の彼だったら、確実に無視をするご老人の言葉。


 ただ、ご老人の何かを期待しているような顔。それが、彼の心にとても響く。


 一度目の死の間際、自分の死を望む顔しか浮かばなかった彼だ。


 そんな彼にとって、ご老人の顔は、宝だと思えた。


 一度目の人生の経験から、ボクサーとしての才能はないことを彼は知っている。だから、きっと失望させてしまうという思いもあった……


 心の頭に「頑張ります」という返答が浮かぶ。

 だが、彼は、

「はい」

 とだけ、口に出して答えた。


 振り子時計が、30分を知らせるゴーンという鐘の音。

 時計は、七時半を指していた。


 彼は、古書店に長居し過ぎた。

「今日は、ありがとうございました」

 と言い、出ていこうと彼に、ご老人は、

「ほれほれ、忘れ物」

 と、先程、彼が、選んだ本を渡した。


 もう一度、彼は、礼を言い。

 ボクシングジムへと駆け出す。


 双子たちを、七時の起こす。

 大遅刻だと思い、下宿部屋に戻ると、すでに双子たちの姿はなかった。

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