初夏に咲いた桜 第3話 詩織
時は、少しさかのぼり今朝のこと。
初夏の朝。
電線に、仲良くすずめが並んで羽を休めている。
梅雨前のこの時期、湿気もなく、空気も澄んで心地よい。
ランドセルを背負った子どもたちが、通勤に急ぐサラリーマンの間を縫うようにして駆け抜けた。
自転車のブレーキ音。
年頃の娘が、自転車を止めた。
彼女は、手ぶらで建物に入ると、スーツを抱えて出てきた。
その際、何度も頭を下げるので、通行人は、何事かと興味深げに眺めながら先を急ぐ。
彼女は、十分すぎるほど頭を下げると、外階段を駆け上がる。金属製の簡単な作りの階段。足音が、リズミカルに大きく響いた。
葬儀が始まる頃、相間 心は、下町のボクシングジム、そこの2階、外階段で通じる下宿部屋にいた。
心と同じ養護施設出身の桂木 詩織は、その下宿部屋の前にいる。
彼の姉と面識があった彼女は、その姉からの、早朝にかかってきた電話でここにいる。彼が、通夜に顔を出さなかったものだから、まさか……という懸念だ。
急いでアパートを飛び出た彼女も案の定といった成り行き。息を切らした彼女は、扉の前で、少しの間、深呼吸。
ベニア板を2枚合わせに作ったような粗末な扉。
その安ぽい玄関をノックする。
ノックの音は美しくない。
安い扉がガタガタと震え、強風が揺らしたかのような耳障りな音が、ノックと同じ回数、響く。
詩織は、何度か、ノックで扉を揺らすが、部屋からの反応はない。ノブに手をかけると、鍵はかかってなく、扉は、簡単に動いた。
彼女は、完全に開くのを躊躇する。それでも、一呼吸置いて、扉を開き、一歩前に中に進む。
何もない部屋。
それは、彼女の第一印象。
実際は、少しの家具は置いてある。
殺風景。
彼女は、そう思った。
部屋には、脱ぎ捨てた洗濯物、雑誌の類があり、生活感がある。
畳の床に敷かれた、せんべい布団。
ありえない寝相ではみ出している彼がいる。
シャツ一枚に下着のトランクスが寝間着代わり。
めくれたシャツでヘソが丸見え。
のんきに、いびきをかいている。
詩織は、靴を脱いで、ズカズカと部屋に上がる。
寝ている心のトランクス辺りに、借りてきたスーツを、たたきつけた。
「こらっ! 起きろ!」
心は、ゆっくりと目をこする。
詩織は、彼をまたいで窓を開けた。シミだらけのレースカーテンが、波打つと、冷たく引き締まった外気が部屋に流れ込む。
心は、「さむっ」と言い寝たまま体を丸くする。
「そうちゃん、早く起きない! 今日は、叔父さんの葬儀でしょ」
「なんだ、詩織か……」
詩織は、寝ている心の手を引っ張って起こそうとした。
その際、開かれた雑誌のページが目に入る。そこには、ビキニの女性が豊満な胸を自慢するかのような写真。
彼女は、カァーッと顔を赤らめると、空いた手で雑誌を拾い、それを閉じると心の頭を、その角で数度、たたく。
「いってぇ」などど言いながらようやく起きた彼。
寝ぼけまなこの、だらしない姿で、詩織をにらむ。
彼の眼力は、なかなかのもので、殺気すら感じる者もいるかもしれない。
だが、詩織に動じる気配はない。
彼が女性に暴力を振るった姿を見たことがなかった。女性だけではない、養護施設の年下の子たちにもだ。いや、少なくとも、このような者たちに、自分からは、仕掛けない。
詩織から見た、心は、大人や年上とばかり、やり合う。
だから、小学生の頃のケンカに負けてばかりだった。
心のシャツとトランクスをはいただけの、だらしない姿を見る。彼の表情は、確かに怖い。だからこそ、詩織には……
彼女は、ため息をはく。
心は、より一層、眼光を光らせた。
彼女は、頭の中で「よほど、行きたくない理由でも、あるのかしら?」などと思いながら、散らかったスーツのズボンを拾って、彼に投げつける。
「ほらほら、さっさっとズボンを、はきなさい!」
腰に手を置き、指を立てながら言い放つ彼女。そのすがたは、年長者が年下の者に言い聞かせるようにも見えた。
それからの彼女は忙しい。
あれや、これやと、心をせかす。
その勢いが、彼に、反抗の機会を与えなかった。
こうして、着替えも、ネクタイのみとなった時、詩織の心がざわつく。彼女は、心が、ネクタイの締め方を知らないはずだと思っていた。なぜなら、中卒の彼は、ネクタイを締めるような仕事に就いたことがなかったからだ。
「どうしましょう。わたしも知らないわ」などと思い。新婚の婦人が殿方に、それを手伝って差し上げる、初々しい光景が頭に浮かぶとバカバカしいと頭を振って、その幻想を振り払う。
詩織が一人、ドギマギして、正気に戻るころ、心は、ネクタイを締め終わっていた。
彼は、自らの髪を、手ぐしで整えている。
詩織は、そんな彼を、しばし眺めた。そして、畳の上に、無造作に置かれたタバコを見つけると、ハッとする。
遅刻した彼が、歩きタバコで葬儀に登場する。
それが、本当にありそうだから彼女は、そのタバコを、こそーっと足で目につかない所へと隠した。
その後の詩織の仕事は、さっきまでと、ほとんど変わらない。彼の手をとり、ただただ、葬儀へと急かすだけだ。
心の手のひらを握った時、彼女は、吹き出すようにして笑った。
「詩織、てめえ、なにが、おかしいってんだ」
彼の声がうわずるものだから、より一層、彼女は、面白がった。
そして、彼女は、楽しそうに彼の手をグイグイと引っ張り、どんどん外へと、彼を連れていく。
小学校の体育授業。
男女一組、手をつないで走る競走があった。
相間 心は顔を真っ赤にしていたのを思い出す。
詩織は、子供の頃、成長が早く、身長は、同学年でも飛び抜けて高かった。「巨人」などという悪口は当たり前で、もっとひどいことも言われたりもした。
同じ養護施設だからか、それ以外に理由があるのか、知らないが、彼女は、彼から、その手の悪口を言われたことはない。
ペアを嫌がって逃げる男子たち。
それを見かねてか、心が、詩織のパートナーに立候補したのだ。
とにかく、その体育授業の時、彼女と彼は、大人と子供ほどある身長差で手をつなぎグランドを駆け抜けた。
彼女は、心の手をしっかりと握るが、彼は、指をピンと張って握り返してこない。その時も、彼女は、それが、とてもおかしかった。
心は、養護施設を転々とし乱暴者の問題児だった。
詩織も、できるだけ関わりたくないと思っていた人物。
それが、自分と同じ子どもだと知った時の思い出。
それが彼女を楽しくさせた。
詩織は、中学に入ってからは、身長は伸びてない。
だから、20際の今は、心の方が、詩織より、頭ひとつ背が高くなっている。
それでも、詩織にとって、心は、あの頃から、何も変わっていないと思えた。
そして、階段のところで、詩織の歩みは止まった。
彼が、体重をかけるようにして詩織に抵抗したからだ。
それは、彼の「葬儀には、行きたくない」という意思表示ではなかった。
その証拠に、
「心配すんな、ちゃんと葬儀には行くからよ」
と彼は言った。
「場所は?」
「あ……」
心は、頭をポリポリとかく。
詩織は、メモをどこからか取り出し、
「はい、電車の乗り継ぎ、間違いないでね」
と言って彼に渡す。
そして、スカートのポケットからハンカチを出す。
「これも、ズボンの拭くのカッコ悪いからやめなさい」
「たくっ、うるせえ、女だな」
彼は、乱暴にハンカチを受け取ると、スーツのポケットに入れた。
彼は、詩織と目を合わさないで、口をとがらせる。その仕草を見て詩織は思う。
「めんどくさい、男ね」と……
こうして、彼女は、階段を駆け降りていく、彼の背中を見送った。
下宿部屋、開かれたままの玄関を閉めに彼女は戻る。
その時、彼の部屋の片隅に、黒のネクタイが転がっているのが目に入った。
自分の口でスーツを貸してくれと、ボクシングジムのおやじさんに言えず、ネクタイだけ購入したらしい。
ネクタイの締め方を練習する彼の姿。
散らばった洗濯物に見える着替えは、服装を試行錯誤したのかもしれない。
「バカみたい……」
玄関を彼女は閉めた。
「でも……ほっとけないな……」
とつぶやいていた。