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初夏に咲いた桜 第2話 繰り返す人生

 顔を知らない親類の火葬。

 中には、もう参列者がいる。

 誰も、自分を歓迎していないことを、彼は、知っていた。


 1969年5月下旬、梅雨入り前の東京郊外の火葬場。


 児童施設からの知り合いに、どやされ、遅刻という形で、彼はここにいる。


 借り物の黒いスーツ、ワイシャツのボタンの止め方も、緩くたるんだネクタイも、中途半端でみっともない姿。


 ただ、彼は、火葬場の外から煙突を眺める。

 白く真っすぐ、空に向かう煙は、やがて色をにごらせ黒くなると、異臭が漂いはじめた。


 舗装された駐車場。

 花壇に植えられた春の花は、盛りを過ぎてしおれている。


 初夏の風を、彼は、生暖かいと感じた。


 火葬場の入り口、そこの、建て付けの悪い引き戸が、不器用に開くと、女性が、彼の方に駆けて来た。


 20代の若い女性。

 彼には、その顔に見覚えがある。


 忘れていたと思っていた顔は、彼の記憶通りだった。


 相間 心(そうま しん)の姉、新田 凛(にった りん)が、駆け寄ってくる。


 姉のりんは、養子として引き取られ、姓を相間から新田へと変えていた。


 彼のそばに来た、姉のりんは、不機嫌な表情を見せた。


 その顔が、彼にとっては、どうにも、こうにも懐かしい。

 嫌がらせをして喜ぶという意味ではない。


 子どものそれと同じ。


 気にかけてもらっているということが、彼にとっては、何よりも嬉しい。


 懐かしい感情。

 五十歳の彼が、忘れていた感情だ。


 この頃は、確かに、彼と彼女は、姉弟のつながりがあった。


「走馬灯も悪くない」

 彼は、思う。


「笑顔が見たかった」

 そこは、少し残念に思う。


「これでやっと死ねる」

 と思い、神仏を信じていない、彼が、神さまに感謝をした。


 現実は、だれの思惑も無視して、等しく進む。

 そして、神さまは、悪魔より、厳しく、生きることを強いると彼は、知らねばならない。


「もう、しんくん、なんて顔をしてるの……」

 姉のりんは、ため息を吐き「怒る気もうせた」とぼやく。


「スーツは、ジムの人に借りられたのね。普段着で来なかっただけ、マシだけど……」

 彼女は「二十歳になっても、相変わらず、だらしないんだから」と言い、相間 心(そうま しん)のワイシャツのボタンを首元まで、しっかりと留める。そして、ネクタイを一回解くと、締めなおしていく。


「どうせ、寝坊したんでしょ」とか、「詩織しおりちゃんに言ってて良かったわ」とか、彼の記憶より、姉のりんは、口数が多い。


「心くん、静かね」

 りんは、弟のしんの顔を不審そうに下からのぞき込む。


 いつの間にか、姉の身長を追い抜いていた事を、彼は知った。

 記憶の中で、姉は、彼より、いくつになっても、ずっと背が高いままだった。


 自分勝手な走馬灯とはいえ、しんは、姉のりんに謝罪しなければならないと思う。


新田にったさん、迷惑ばかりかけて、ごめんなさい」

 彼は、目をつむって言った。だから、驚いている姉の顔は、見ていない。


 その代わり、彼の額を優しく姉が指で弾いたことを感じる。

「ばか……、何を改まって、お姉ちゃんでしょ」


「いや、だって」

 彼がまぶたを開けると、姉の顔が近い。慌てて、離れる彼の頬は、ほんのりと赤くなっていた。


 彼は、30歳になる前、姉のりんから縁を切ると宣告されたことを思い出す。その時は、しがらみが無くなりせいせいしたと喜んだものだ。悪い仲間たちを呼んで、祝杯もした。


 姉が縁を切ると言い出す前、姉弟と思われたくないから姓の「新田」で呼べと、きつく言われていた。


 彼は、鼻をすする。

「だって……姉ちゃん……」


「もう、20歳なんだから、しゃんとなさい」

 姉の凛は、弟の心を引っ張り、火葬場へと歩き出した。


 相間 心(そうま しん)、彼が走馬灯と思い込んでいる世界は、紛れもなく現実だ。


 彼も、さすがに違和感を覚え始めた。


 初夏の風が、汗をぬぐう感覚が心地よい。

 新緑の香り、足元に目を凝らせば、アリを見つけることができる。


 夢というには、景色や、身体で感じる情報が詳細すぎた。


 火葬場の入り口。

 その引き戸のガラスに写った自分の姿を、彼は見る。


 姉が、引き戸を開くまでの、ほんの一瞬、そこに写った自分の姿は若かった。


 成人したばかり、20歳の相間 心が、そこにいた。


 彼にとって人生に良い思い出はない。

 生きることは、つらいという実感がある。


 やっと死ねたと思い、これで楽になれると、あんどした彼に、何者かが、生きることを強いる。


 死を用いても、苦行からは、逃れられない。


「顔を出したくない気持ちも分かるがと……心くんをかわいがってくれた人とのお別れなんだから……」


 姉の凛は、彼の気持ちを、見当違いの方向で察していた。


 相間 心(そうま しん)、彼は、この葬儀場で誰の骨が焼かれていたか覚えていない。


 姉の「顔を出したくない」という言葉で、こういう親戚が一堂に集う場でささやかれる陰口は覚えている。


「相変わらず人相が悪い」

「ろくな人間にならない」

「礼儀を知らない」

「中卒のできそこない」

「いつか、きっと、刑務所に行くに違いない」


 こんな感じの悪口が、いたるところから彼の耳に入ってくる。当時の彼は、はらわたが煮えくり、それが、表情をより一層悪くし、反抗の度を強くさせた。


 そんなことを彼は思い出し、姉の「お世話になった人」という言葉を気にかける。


 火葬場で焼かれている故人は、子どもの頃の彼を、かわいがってくれた唯一の大人だった。


 彼は、その人の名を思い出せない。

 そして、いつも、自分のことばかり優先して考えていることに気がついた。


 火葬場のロビーには、ベンチがいくつか置かれていた。

 その一つに、小学生ぐらいの男女が腰を下ろしている。


 男の子の方は、火葬場に入ってきた相間 心(そうま しん)を睨む。彼には、その男の子の表情は見えていないようだ。


 蛍光灯独特の短い周期での光の点滅。

 冷房はなく、壁掛け扇風機が首を揺らしながら回っていた。


 姉の凛は、待合室の上がりかまちで、弟の心に靴を脱ぐようにうながす。彼は、ただ、素直に、姉に従った。


 ふすまを開くと畳敷きの待合室がある。

 立派な長机は、一枚板で出来ており、厚塗りされたニスで強調された大きな年輪と真っ黒い立派な節が印象的だ。


 その長机を取り囲むようにして大人たちが座る。

 分煙が存在しない昭和。


 陶磁器製の貫禄がある灰皿に灰を落としながらタバコを吸う者が数名いる。待合室の縁側にあたる障子は開かれ、外から入ってくる風は、入り口のふすまが開いたことで、ほんの少し穏やかに勢いを増して駆け抜けた。


 タバコの先から白い煙が出ている。

 大人たちの視線は、心に注がれた。あからさまに驚いた表情を見せた後、静寂は続く。


 外からの風は止み。部屋の片隅に置かれた扇風機は、平等に風を送るため、必死に首を振っていた。


 大人たちのうち、何人かは、あからさまに不快を示している。しかし、誰もが、口を開くことをためらってしまう。


 本来なら、遅刻を糾弾する声が出ても、しかたない状況。

 外の木々が葉を揺らす音が部屋に響く。


 静寂。


 時に、礼を尽くすことは、暴力を振るうよりも、人を黙らせる。


 彼は、深々と頭を下げていた。

 以前の彼なら、しなかった行動。


 彼にとって、親類や縁者といた者たちは、自分を捨てた相手だと思っていたからだ。要するに、彼は、この場にいる大人たちが嫌いだった。それ以上に、自分が駄目だとも実感している。


 彼は、待合室を出ようとした。

 過去の記憶通り、ロビーで待つ方が良いだろうとの判断だ。

 その時は、遅刻した彼と大人たちが言い争い、彼が暴れた後、ロビーへと追い出されのだか……


 今回は違う。


 彼は、静かに外に出ようとした。


 呼び止める声。

 その声は、彼が、判別できる数少ない大人の声だった。


 姉の養父が、心を呼び止めたのだ。

「ここに、座りなさい」


 彼は、それを素直に受け入れることにした。

 死の間際、人とのつながりを求めた彼だ。

 それが、望まぬつながりであっても貴重だった。


 彼が、どこに落ち着こうかと迷っていると、姉の凛が場所をうながす。同じ場所、そこの座布団を彼女の養父もポンポンと手のひらで、たたいて示す。


 そこに彼が納まると、両脇は、姉と、その養父が固めた。

 相間 心(そうま しん)が待合室にいるのが気に食わない大人たちから険悪な空気がただよう。


 いらだちと戸惑いが混ざり合う空間。

 誰かが吐き出したタバコの煙が漂う。


 それに乗じるように、彼は、正座したままズボンのポッケを探る。そこに、期待するものはなく、ハンカチしかない……それで、思い出す。


 スーツは、世話になっているボクシングジムの親父さんからの借り物だった。そのスーツを、急かすようにして手渡した同じ歳の娘のことを思い出す。


 彼の脳裏に、同じ施設で育った詩織しおりの顔が浮かんだ。彼が中学を卒業してからは、別々に暮らしているが、何かと世話を焼いてくる。


 その彼女のしたり顔が、彼の脳裏に浮かぶ。


 わざとタバコを入れなかったという疑念。

 それは、ありえない疑念だとも、すぐに気がつく。

 被害妄想もはなはだしい。


 だから、彼は苦笑いをしてしまう。


 向かい座る年配の女性は、その様子に、顔をしかめていた。


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