害虫
夜遅く、一人暮らしをしている部屋へと帰ってきた。足取りは重く、視界は真下、床のみを映している。以前だったら、涙を流していたのだろう。しかし、もうそれすらできなくなってしまった。自分を守るためにそうしたので、仕方のないことではあるが。洗面所に行き、手を洗う。そして顔を上げて鏡を見たが、そこに映っていたのは、わたしの顔を基調として拡散した色の層だ。どんな顔をしているのか、まったくわからない。当たり前だ。この鏡は、先月自分の手で割ったのだから。あまりにも許せなくて、そうしてしまった。今思うと思い切りすぎているように感じるが、あの行動が無ければ今のようにはなれていなかっただろう。
居間に入ると、壁に数匹の小さな虫が見えた。大まかな特徴を把握し、検索してみると、害虫であることがわかった。目を凝らしてみると、その害虫は部屋のそこかしこにいた。もとよりわたしは虫が苦手ではない。むしろかなり好きな方で、今までどんな虫でも殺したことは無かった。しかし、今日は違った。わたしは迷いなくティッシュを引き出し、近くにいた虫をつつんだ。そして、つつんだティッシュを、右手で思い切り握った。圧力を受けたティッシュは縮んでおり、開いてみると、害虫は潰れて死んでいた。ゴミ箱に捨てた。
わたしは、虫を潰し続けた。ティッシュを取る。虫をつつむ。潰す。捨てる。繰り返した。どれほどこの作業を続けているのだろうか、それもわからなくなった。そして、何度目かわからない害虫をつつんだティッシュを右手で潰した。しかし、害虫はティッシュから抜け出た。まだ死んでいなかったのだ。急いで再び捉え、今度は両手で潰した。そのとき、涙が、目尻から流れているのに気付いた。すぐにそれを拭い、こんどこそ死んだであろう害虫をティッシュごと捨てた。
いつになっても、害虫はいなくならなかった。何度捉えても。何度捨てても。何度潰しても!次から次へと出てくる害虫を潰す間、涙は滔々と流れている。わたしは何匹かまとめて入れておいたティッシュを床に置くと、それを足で何度も踏んだ。潰れろ、潰れろ、潰れてしまえ。そのティッシュの中にいた害虫は潰れただろうが、部屋にはまだ、何匹もの害虫が残っている。わたしはついに、溢れる涙を抑えきれず、部屋の真ん中に座り込んだ。
今までを、思い出した。潰しても潰しきれなかった、わたし。いつまでも消えなかった、わたし。見ているだけで嫌になる、わたし。悲しかったが、それ以上に悔しかった。そのとき、害虫が飛び、わたしの涙でぬれた頬にくっついた。ばたばたと足を動かす虫の様子が、触覚を通して伝わってくる。ばちん、と、わたしは自分の頬ごとその虫を潰した。ふふ、と小さな笑い声が漏れた。
「やっぱり、害虫は潰さないといけないな」