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宵闇の諍い

作者: 阿吽

 「ねぇ、お母さん。見て見て」

 「あら、素敵だわ。葵、浴衣、似合ってるわ」

 「えっ、本当。お母さん、ありがとう。私明日の夏祭り、愉しみだわ」

 藍色が空に滲み初めた宵闇の頃、一階の居間で、上杉葵は葵柄の浴衣を身に着けて、母、上杉翔子と明日の夏祭りについての会話を愉しんでいた。

 「私明日、蛸焼、食べたいなぁ。買」

 突如、部屋に、葵の声を打ち消すようにして、誰かが玄関の扉を激しく敲く音が響き渡った。

 葵、翔子は反射的に後ろを振り返った。

 そして、葵の父、上杉聡が久し振りに帰宅してきたことが分かると、翔子は悄気の音を孕んだ溜息を一つつき、「お父さん。今、待っててね」と大声で返事をして、玄関へ向かった。

 暫くすると、翔子の後に続いて聡が現れて来た。

 そして、聡の陶然とした、にやけ顔から放蕩の臭気が芬芬と漂って来たのを感じ取った葵は厭そうに鼻をつまみ乍ら、こんな奴、早く消えてしまえば好いのにと心の中で毒づいた。だが、それは葵にとっての姑息な強がりであって、彼女は自分でも気付かぬうちに彼に対して瞿然と戦慄いていたのであった。

 聡は葵のその様子を一瞥すると、鄙劣な笑みを浮かべ乍ら、薄紫色の座布団の上に胡座をかき、翔子に向かって、「おい。もっと金よこせや」と大声で強要した。

 だが翔子は、「ありませんよもう」と毅然と云い放った。

 すると、聡は向こうで悚然と立ち竦んでいた葵を睨め付け乍ら、「ああん、あるだろうがよ。其処の葵の妙な髪飾りやら浴衣やらを質屋で売り払ったらよぉ、少しは金になんだろ」と返した。

 「お父さん、葵の前で何を云っているの!」翔子は激昂した。

 「んなもん、どうでも良いんだよ。元からコイツの顔が気に食わねぇんだ。俺に一つも似てやしねぇ、気持ち悪い顔。おい、葵。良いことを教えてやろう。実はな」

 突如、聡が何かを云おうとしたのを契機に、葵は軀の向きを変え、素早くその場から走り去ってしまった。

 実は今回のような諍いは初めてではなくこれ迄も何回かあった。その原因は例えば、聡が家に金が無いと分かると勝手に箪笥から翔子や葵の着物などを奪い質屋で売り払ったり、これまた金が無いと分かると彼女らに暴力を振るったりなどの彼の日頃の狼藉が殆どであった。

 聡が豹変したのは五ヶ月もの前のことだった。彼はこれ迄は良き夫として良き父として町では評判であった。しかし彼は、会社が倒産してからは、新しい職を探す素振りなど一切見せずに、毎日夜遅く迄酒色に耽るようになり、帰宅するのは一週間に何回かで、しかもその目的は金が尽きてしまったからくれというので、翔子は勿論葵すらも辟易していた。

 昨日、葵は『雨降って地固まる』という諺を知ったのだが、もう駄目だ、この諺のように母と父は和解など出来ぬのだろうと独り失望し、平穏な家庭を庶幾うことを諦めてしまった。

 だから、既に覚悟が決まっていてしかも、一応行く宛があった葵は玄関で履き慣れていた靴を履くと、迷うことなく宵闇の藍色の世界へ飛び出した。だが、ある畦道の手前迄走ると立ち止まり、後ろを振り返った。そして、誰も追って来てはいないことを知ると、母からも見捨てられたような寂寥感が募って来てからだろうか、不意に涙を流した。しかし、立ち止まってはならぬ、もうあの家には戻りたくはないのだと誓うと、右手の甲で涙を拭って、ある人の家を目指す為に、葵は前を向いたのだった。

 ある人とは翔子が昔から懇意にしていた兄、つまりは葵の伯父に当たる浜崎慶太のことである。慶太のことを葵は何時も慶太伯父さんと呼んで本当の父のように慕っていた。

 葵の家から隣町の商店街で浜崎鮮魚店を営む慶太の家迄は五里程の距離があった。葵は昨夜の雨で泥濘んでいた畦道を転ばないように気を付け乍ら駈け抜け、幻怪な雰囲気を纏った竹林もまた駈け抜け、数多の喘鳴、蹌踉、疲弊を重ね乍ら遂に隣町の商店街に辿り着いたと思えば、何時の間にか宵闇の藍色の世界は消え去っていて、月明りなどありはしない闇夜の黒色の世界が訪れていた。

 葵は商店街の石畳に自分の跫が反響するのに聳動し乍らも、外灯の明りを頼りにして、『浜崎鮮魚店』と書かれた看板を見つけようと目を皿にして、獅子奮迅と走り廻った。

 そして、遂にそれを見つけると葵は、快哉を叫びたいような衝迫に駈られるのを抑えてゆっくりと近づいた。しかし、シャッターが閉まっていたので、裏口の扉へ向かうことにした。

 扉を何回か敲いた後に中から慶太が出て来た。慶太はいきなり訪ねて来た葵に対して驚き乍らも心配そうに、「おやおや、葵ちゃん。こんな夜遅くに此処迄、何かあったのかい?いや、それよりも大丈夫かい?怖かったでしょう。此処にいては寒いよ。中に入りなさい」と云った。

 葵は涙さえ出なかったが、不意に哀愁が込み上げてきたので、慶太に抱擁されたい衝迫に駈られたがこれもまた抑えて、こくりと頷き、中に入らせてもらった。

 慶太に連れられて葵は二階の居間に上がった。慶太は其処に着くなり、「葵ちゃん、その様子じゃ、此処迄走って来て疲れてるでしょ。冷たい麦茶ならあるけど飲む?」と云ってきたので、喉が乾いていた葵は彼の言葉に甘えることにした。

 葵は盆で運ばれてきた麦茶を呷ると少し落ち着いた気持ちになったように感じ、深呼吸をしてから、慶太に一連の出来事を掻い摘んで話し始めた。

 そして、葵が話し終わると、慶太はこくこくと頷き、微笑み乍ら、「ねぇ、葵ちゃん。その葵柄の浴衣、少し汚れているね。泥がついている。うん、それだけ真剣に走って僕の所迄来たということが分かるよ」と云った。

 慶太に云われる迄葵は自分の体裁など気にしていなかったので半ば反射的に、身に着けている葵柄の浴衣に視線を移し、汚れているのを確認した。だが葵は、「慥かに、慶太伯父さんの云う通り、汚れているわ。こんなことに気付かなかった自分が馬鹿みたい。でも、別にもうどうでも良いの。明日の夏祭りなんて……」と返した。

 「そうか、でも僕は少し寂しいな。別嬪な葵ちゃんが汚れた浴衣を着ているのを見ると、何だか厭になっちゃうよ」

 「別嬪なんて……」葵は頰を少し赤らめた。

 「そうだよ、葵ちゃんはもっと自分に自信を持たなくちゃ。葵柄の浴衣も葵の髪飾りも全部、君の出産祝いに僕が翔子に贈った物なんだ。だから、汚れているのは少し寂しいな……。早く家に帰って、翔子に洗濯してもらってね。きっと今、君のことを血眼になって捜しているよ」

 自分が身に着けている浴衣、髪飾りが慶太から贈られた物であるという事実に葵は衝撃を受けていた。慶太は葵のその反応を待ってから話の続きを語り始めた。

 「葵ちゃん、君の名前は翔子が決めたんだ。翔子が葵の花が好きだったっていうのもあると思うんだけど。多分ね、葵の花言葉を参考にして決めたんだと思うんだよ。葵の花言葉の一つに『野心』っていうのがあるんだ。これにはね、強い可能性を持って逞しく生きて欲しいという意味が含まれてるらしいんだよ。翔子は君に逞しく生きて欲しいって願って、『葵』って名前をつけたんだ。だからね、葵ちゃん、僕も翔子もね、君がどんな困難に出くわしても必死で立ち向かって欲しいって願ってるんだ」

 そして、葵は自分が涙を流し乍ら慶太の話に傾聴しているのに気付いたので、それを右手の甲で拭うと、「分かったわ。慶太伯父さん、ありがとう。お母さんに、勝手に家を出てごめんねって云いに行くね」と云った。

 「嗚呼、僕の思いが届いてくれて良かったよ。国語が苦手なもので、ちゃんと伝えられるか不安だったんだけど……。でもね、葵ちゃん、今はもう九時だよ。今日は泊まっていきなよ」

 そう云われ、葵は右手のクリーム色の壁に掛けられていた木製の振り子時計を仰ぎ、今が慥かに九時頃であることを確認した。だが葵は、「でも、これは勝手に飛び出した私が全て悪いの。もうこれ以上、慶太伯父さんに頼ってはいけないの」と毅然と云い放った。

 慶太は葵の真摯な眼差しを受けてか、両手を大袈裟に広げ乍ら、「やれやれ、誰に似たのかな……。葵ちゃんは十歳なのに強いねぇ。良いよ、葵ちゃん。でも、月明りすら無い夜道は危ないよ。懐中電灯を渡すから。それで帰りな。あっ、別に返さなくても好いからね」と云った。

 そして、慶太は下に降りて行き、暫くしてからプラスチック製の朱色の懐中電灯を持って戻って来た。

 葵はそれを受け取ると、深くお辞儀をし乍ら、ありがとうございますと云い、浜崎鮮魚店を後にした。

 葵は懐中電灯の電源を入れると、それを右手に携えて、隣町の商店街、幻怪な雰囲気を纏った竹林、昨夜の雨で泥濘んでいた畦道を駈け抜け遂に、何時もの町に辿り着いた。五里程離れてはいるが、行きよりも楽に辿り着いたような気がするのは、慶太の懐中電灯と冷たい麦茶のお陰だろうと思い葵は改めて彼に感謝をした。

 そして、自分のことを捜していたのだろう、外灯の下でフラフラと彷徨っている母、翔子を葵は発見した。翔子も此方に気付いたらしく、耳を劈くような黄色い声で、「葵!」と叫び、直ぐ様駈け寄って来て、葵を強く抱擁した。

 その時の翔子の泣き顔から深い愛及屋烏を感じ取った葵は不意にも涙を流してしまった。だが、この涙は拭わなかった。

 その後、二人は手を繋いで帰路を歩いた。

 葵は歩き乍ら自分の名前の通りに生きて行こうと強く思ったのだった。

 ーーー一ヶ月後、人里離れた山奥で上杉聡と浜崎慶太の遺体が発見された。

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