003
屋敷牢のある地下に続く階段への扉を開けると、床一面は蛇だった。
俺はその光景に狼狽えるが、直ぐに気を持ち直して階段を降りる。段差を降りていくと徐々に蛇の数が多くなり、ついには踏まないように蛇を避けることが困難なほどに敷き詰められる。湿った鱗が足や脛を滑って行くたびに背中が粟立つが、これは主が見ている幻覚である。
『封月家の娘が見る幻覚は、他人にも知覚することが可能である。』しかし、こちらから影響を与えることは出来ない。詰まる所、蛇は俺の足を噛むことができるが、俺は蛇に触れることができない。難儀である。解決方法は原因を止める事。主に紫煙を吸い込ませることだ。
先程説明した通り、その紫煙は麻薬なのだ。
なんというか、やるせない。より強い麻薬を与え続けて、より強い幻覚を打ち消す。
いたちごっこだ。
末代である主には、その果てに何があるのだろうか?
「おはよう。すごいね」屋敷牢の中は蛇で溢れ、天井まで埋め尽くされている。主を見つけることができない。黒く蠢く壁となっていた。
「……遅かったのね。私を見つけられるかしら?」主の声は屋敷牢の様相からは考えられない程真っ直ぐに耳に届く。幻覚は幻覚でしかない。蛇たちの蠢く音は薄皮一枚隔たれたところで聞こえている。
「うぅん……ちょっと自信ないや」俺はそう言って屋敷牢の鍵を開けると鉄格子の中で一杯になった蛇たちが土砂崩れのように氾濫して溢れかえり、天狐の仮面が引き剥がされる。
蛇の濁流に押し流されて廊下の壁に背中をぶつける。その時強かに腕を壁に打ち付けるが、蛇が潰れるばかりで腕を打撲せずには済んだ。俺はここに来るまでに何百と蛇を踏み潰している。
体勢を立て直して屋敷牢に入る。先程の蛇津波の後だから蛇の水嵩は下がり燭台の先端が蛇の水面から覗いている。
「わざと隠れてるのか?」蛇の水嵩から察するに、主は畳の上から立ち上がれば顔が出る筈だ。「息できてるのか?」
「……今ちょっと、幻覚が酷いわ。薬が切れて悪寒もするし最悪なの。立ち上がれそうにないわ」
「そうか。わかった。とりあえずどこにいるかわからないから手でも脚でも挙げてくれ」
ざぱんっ。
「あ」
蛇の水嵩が減っていく中で水面から飛び出してきた左手にはメデューサの首が掴まれていた。
❖
「……どうなることかと思ったわ」
「……ああ、俺も」
あの後、メデューサの首と目が合ってしまった俺は石化してしまって動けなくなった。偶然幻覚の中で生み出されたウロボロスがメデューサの首を噛み砕き、自らの尻尾を飲み込んだ挙げ句消滅することにより、俺は石化を解かれて事なきを得た。本来なら天狐の仮面をつけていれば、幻覚のもつ呪いを打ち消すことができる算段なのだが、蛇津波の時に流されて失くしてしまった。今は手元にある。
主は目覚めの一服として天狐の防毒面から紫煙を吸い込み、まるでそれが主の酸素であるかのように、みるみるうちに体調は回復した。
「ところで、」俺は畳の上に転がる木製の左腕を見やる。ここ数日、なにやらご執心のようだが、「この腕は何なんだ?」
「……あぁ、それはね、昔からの太客の依頼の品よ。丁度今日が納品なの」
「ふーん、だからもう起きてたのか」
屋敷牢によって外部との関係を断ち切っているはずだが、このご時世に呪術師に『太客』とまで言われるのだから、相手も屋敷牢なんて障害にはならないのだろう。そもそも主は幽閉されているのではなく保護されているだけなので、外部との繋がりを持つことに問題はない。しかし、腕とは。
何に使うのかわからないな。
「何に使うんだ?」
「腕のこと?太客の弟が腕を無くしたんですって」
「はぁ。……よくわからん話で」
「あんまり詮索しないでいいの」
「でも、封月家の太客ってことは、なんかあるのか」
「うんん、呪いじゃないわ。幻肢痛に効く祈祷と単なる無病息災の護符を入れただけよ」
「へぇ」
「……噂をすれば、『太客』が来たみたい」