001
漆喰の壁に四方を囲まれた仄暗い座敷牢の中で二人。
俺の主は憂いだ顔をして一人呟く。
その声は、俺に告げるというよりは、独り言を俺に聞こえるようにしているといった方が正しい。その呟きは主が付けている天狐の防毒面の内部で霧散して、ともすれば聞き逃してしまいそうな小さいくぐもった声であった。
『この空気の底で溺れ死んでしまう私を見て、あなたはきっと、自分を呪うのでしょう……』
「……死にませんよ。主」主の独り言に口を挟む。主は死なない。そして俺は俺を呪わない。天狐の仮面越しに主を見つめながら、屋敷牢の鍵を開けて中に入る。
俺は六つの電気燭台の電源を入れて仄暗い座敷牢の闇を溶かす。時は二十二世紀。時代錯誤のこの屋敷に住まう娘は、厭世的で脆く儚い女であった。その女を座敷牢に幽閉した家主であり女の実父は、分家の血筋である俺に、こうして世話係を任せている。
「……聞こえていたのね。あなたに届かぬように声を押し殺していたのに」
――それは、嘘だ。
主はいつだって無視されても言い訳ができるように小さく俺を呼ぶ。
「この屋敷牢は音が反響するから、ちゃんと聞こえていますよ」
これも嘘だ。俺はいつだって主の声を聞き取れるように耳を澄ましている。
「でも、私は死んでしまうわ。と言うより、生きているとは言えないでしょう?」今の私は。
主はそう言って三畳ほどの小さい、居間とも寝床とも言えない畳の上で演技然とした身振りで俺の気を引く。畳の上には等身大の人間の腕が数本、乱雑に転がっている。
俺は天狐の仮面越しに主を見る。主は天狐の防毒面で口を覆われ、簡素な寝間着がはだけているのも気にせずに俺の視線を求めて見つめ返している。顔の下半分を覆い隠す天狐の防毒面から、わずかに聞こえる吐息の音と隙間から漏れる紫煙。主はその防毒面から散布される紫煙を取り込んで、命を繋いでいる。
「『灯』、仮面をとって私を見つめて」主は瞳孔の開き切った瞳で俺を見つめてそう言った。灯とは俺の名前だ。
「……わかった」俺は徐に顔の上半分を覆い隠す天狐の仮面を取り外し、乱れた前髪を指で払い、一呼吸置いてから主を見つめてみせた。「どうです。これでいいですか?」
「ええ、」主は頷き、「灯、私の名前を呼んで」
「……端月」
主はゆっくりと仰向けに倒れこむ。俺の声を聞きながら紫煙で満たされた防毒面の中で呼吸を続ける。肺の収縮に合わせて肋骨が上気して、乳房が揺れる。俺は再び主の名前を呼ぶ。端月。
「……こっちに来て。灯」
俺は言われた通りに近付いて、主の傍に腰を降ろす。
「……キスして欲しい」
「今はできないな。麻薬の煙がすごいから」
「……そうね。なら、手を握ってて」