第三話 ハグマイヤーの反省
帝国の権威の中心であり、もっとも輝かしい建造物が王宮である。
政治の中枢であり、皇族の住居でもあるそれは、帝都の皇地にある。
豪奢なそして堅牢な城門をくぐると、広大な平面幾何学式庭園が訪問者を迎える。その向こうには、稀代の彫刻家が生涯を賭して作り上げた、見る者の心を奪う装飾で彩られた王宮が見える。
その王宮の地下には様々な区画がある。最も多いのは食糧庫や武器庫などの倉庫類である。というか、公開されているのはそれぐらいで、他の区画は完全に用途不明なのだ。よく噂されるのが皇族専用の脱出通路などだが、一部の上流貴族だけが知る設備が、王宮地下にはあった。
上級貴族用の牢屋である。
通常の犯罪者が収容される場合などは、二次創作である本作では割愛する。きっと本編で面白おかしく物語にしてくれるであろう。
その牢屋は入り口と窓こそ鉄格子だが、それ以外の内装などは貴族に相応しいものになっている。フサフサな絨毯に、フカフカなソファ。フワフワなベッドに、フリフリな貴族服のような囚人服。
そして、フサフサではない囚人、ヨーゼフ・ゲン・ハグマイヤーだ。
精霊祭の日、王宮で衛兵に捕らえられたヨーゼフは、そのまま王宮の地下にある牢屋に投げ込まれた。それはもうポイッと。その後、担当の文官がやってきて彼の罪状を確認していった。治水事業の遅延や予算の横領は当然に知られていたが、井戸を掘ろうとした平民を捕らえて何をしていたかまで筒抜けだったことに、ヨーゼフは驚きを隠せなかった。
態々帝都から離れた場所に農園を作ったのだ。見つかるとは思って無かったし、見つかったのに今まで見逃されていたことも理解出来なかった。
捕らえた平民は、仕事と生活の環境を整えただけでほったらかしにしていた。今にして思えば、杜撰にもほどがあるのだが、当時の自暴自棄な自分の精神状態では止む無しである。一応見張りは置いていたものの、平民がおとなしく働いていることは不思議である。文官にその辺りの事情を確認したが、給与が十分に支払われていたからではないかと言われた。
真実は、栽培していたヴァカの花と、捕らえられた時にチラッと見たヨーゼフの姿を関連付け、あっ(察し)となったからだ。もちろん給与が支払われていることは大前提だが、頭髪が不自由な人には世間は優しいことがある。貯えがあれば、人は悪人にも優しく出来るのだ。
さて、ヨーゼフの罪状だが、精霊祭の皇族の茶会乱入事件は含まれていなかった。これについては確認しても、文官は分からないと繰り返すばかりだった為、ヨーゼフはその場では事実を確認することを諦めた。
投獄されて数日が経った。
その間、ヨーゼフは大人しかった。アルコールが抜けても騒いでいられるほど、厚顔無恥では無い。最終的な沙汰が下るまでに家族のことだけは、なんとかして欲しいとは考えていたが、自分の罪から逃れようとは思っていなかった。アルコールに飲まれて茶会に乱入したのがヨーゼフの標準ではない。むしろ、捕まったことで憑き物が落ちたような表情すらしていた。
父の背中を見ていた時から続いていた想いは、自分の代で行き詰ってしまった。出口のない迷路の中で、燻っていく幼少時代からの夢や希望、志や誇りなどが、髪の毛と一緒にどんどん抜け落ちていく。「こんなハズでは」などと叫んだところで、暗闇で見える光は自分の後頭部ぐらいだ。後頭部なんて見えないとか言われても、イメージだから。
それでも踏ん張って見えない前へ進んでいたのに、家族との絆に綻びを感じてしまったら、そこからどうやって立ち直れば良いのだろうか。後からすれば些細なことだったが、小さな穴でも壁はそこから壊れる。ついに歩くのを止めてしまったことを責められても、どうしようもなかったのだ。
そこに、暗闇の向こうで光り輝くトンネルが有ると、自分が目指した景色に先に辿りつかれてしまったと知ってしまっては、じっとなど出来るはずもなかった。言い訳にしか聞こえないが、自分の目の前にはもう道が無かったのだ。別の誰かが、別の場所に道をつくったというならば、妬んで、恨んで、悲しんで、飲んでしまってもいいではないか。
そんなことをヨーゼフは思っていた。いざ、投獄されるまでは。
ことここに至っては、ハグマイヤー家が治水事業を請け負うことは無いだろう。自分で進んで、好んで背負ったハズなのに、いつの間にか重くのしかかっていたものは、皇子と聖女が綺麗に持って行ってしまった。ストンと肩が軽くなった。挽回出来ないのならば、今を受け入れるしかない。そう考えれば、抜け毛も止まると言うものだ。止まらなかったけど。
そんな思いで、貴族用のフカフカした牢屋でヨーゼフは数日を過ごした。まだ正確な沙汰が無いので、協力者を警戒して面会は禁止されていた。例え妻でもだ。
そこに、在りえない来訪者が現れた。
「見たことがあるな。小娘」
ヨーゼフは対応を決めかねていた。貴族用の立派なものとはいえ牢屋である。十を過ぎたばかりの少女が訪れるような場所では無い。騎士の護衛がいるところをみるに、それなりの身分のようだが。そもそもここには家族ですら来れない。皇族や調査員等、いわゆる関係者だけが面会が認められる筈なのだ。
ある日、何も前触れもなく彼の前に現れたのは、光の精霊のような少女だった。垂らした綺麗な黒檀の輝きをもつ黒髪に、透き通っているかの様に美しい肌。地味だが高級なサバランのドレス。そして、真実を見通す紫の瞳。まさに闇を祓う光そのものだった。
その少女は護衛を下がらせると、鉄格子越しにヨーゼフと対面する。
その凛とした姿勢は、風格すら匂わせる。
その紫の眼差しには、畏怖すら覚える。
これほどまでに美しい少女だというのに、ヨーゼフは誰だか分らない。にも関わらず姿に覚えが有る。どこかの貴族令嬢だろうか?
「ちゃんと、会う、初めてです。レオノーラ、です」
その可憐な口から紡がれたのは、極上の音色だった。
ヨーゼフにとって、声を聞いただけで鳥肌がたったのは、家を継いで初めて陛下からお言葉を頂いた時以来だ。跪きそうになるのを堪え、ヨーゼフは対面の少女の言葉を反芻する。言葉を交わしたことはないが、同席したことがある。それぐらいの意味に聞こえた。これほどの美少女と会ったことを忘れるだろうか。
レオがフルネームで自己紹介すれば、ヨーゼフは混乱することは無かったのだが、それを指摘してくれそうな優秀な従者は上に置いてきた。
とは言え、禿げてもヨーゼフは上級貴族である。ハーケンベルグ家のクラウディアの娘の事はちゃんと調べてあった。そして、茶会の席にいた少女が彼女だということも思い出す。その後の顛末は酔っていたこともあって、あまりはっきり覚えていないが、パレードが騒がしかったことは分かるから、あの後、陛下がバルコニーからお姿を御見せしたのだろう。
「思い出した。たしかハーケンベルク家の孫娘の名がレオノーラだったな。無欲の聖女か」
無欲の聖女と聞かされた少女は、表情を歪める。まるで、その呼び名を嫌っているかの如く。称賛に対する反応では無い。ヨーゼフは感心した。なるほど、まだ幼いはずなのに慢心することなく、自身を律することが出来るということか。
彼女の噂が本当ならば、面会の許可を得ることは可能だろう。ハーケンベルク家は国内でも力の強い家だし、本人も皇族に覚えが良いと聞いていた。ただ、何をしに来たのかは別問題ではあるが。
(また出た。無欲の聖女とか恥ずかしいから、ホントやめて欲しいぜ)
顔が割れてから、あちこちで言われるあだ名だ。二つ名とか喜ぶのはエミーリオぐらいの歳までだ。レオにとっては恥ずかしさしか無い。だれが広めた呼び名かは知らないが、犯人を見つけ出して肖像権や著作権の使用料を頂きたいぐらいだ。そうすれば、無欲の聖女一回で幾らの儲けか計算出来て、呼ばれれば満面の笑みで手ぐらい振るのに。
そんなゲスで見当違いな事を考え始めたレオだが、表情にはおくびにも出さない。儲けの商機を他人に悟られるようではまだまだ未熟だからだ。
「聖女と呼ばれるのは嫌か。では、レオノーラ嬢と呼ぼうか」
「はい、ありがとうございます」
「なぜ、礼を?」
「名前で、呼ばれたい、です」
知らない人からも聖女、聖女といい加減うんざりしていたのだが、嫌がっていることを理解され、あまつさえ名前でちゃんと呼んでくれるというのだ。レオからしてみれば、礼の一つも出るものである。ただ、形で示せと言われれば話は別だが。
(名前で呼ばれたい? 不思議なことにこだわるな)
もしここに、レオノーラの過去を知るものがいれば、例えばナターリアなどだが、今のレオの発言から、レオノーラが名も呼ばれずに育ってきたことを察することが出来たはずである。そんな事実はもちろん無い。
「まあいい。で、レオノーラ嬢、私になんの用かな? 茶会のドレスの弁償をしたほうが良いのかな?」
(マジで!!)
弁償と聞いて、レオは一瞬飛びつきそうになるが、ぐっとこらえる。今日は挨拶と、その挨拶が遅れた謝罪が目的だ。幾らレオとも言えど、別件で尋ねた状況で賠償問題を話し合うことなど、時と場合を選ばなければしない。あのドレスも皇子に台無しにされたので、今となってはハゲマイヤーさんに強く当たることも出来ない。
それに、あまり一緒にいると、皇子に共謀を疑われる。レオは自分が鉄格子の向こう側に行くことを想像して身震いする。それはなんとしても避けたい。
(震えておる。やはりあの時は、怖がらせていたのか)
レオノーラの挙動不審な態度に、ヨーゼフはそう解釈する。あの時は確か、毅然と皇子を庇ったように見えたが、やはり少女。大人の暴力に恐れを抱くのは当然であり、さらにいくら煌びやかとはいれ、ここはれっきとした牢屋である。恐怖を感じて当たり前なのだ。それを隠し通していた胆力は素晴らしい。
酔っていたとはいえ、全てを忘れているわけではない。その後に床に打ち付けられるまでならば、それなりに覚えていた。
「いえ、今は弁償、いりません。今日は、挨拶に来ました」
レオは、本題を告げる。とっとと要件を済ませて、しかるべき状況で、改めて弁償の話をしなければ。時と場合を選ぶなら、滅多に会う機会が無い以上、今のこの瞬間しかない。シミ自体は皇子が消してしまったが、それはそれ、これはこれである。とは言え、少しは負けることも考えたほうが良いかもしれないが。
「挨拶だと?」
「はい。それと、あなたに、許しを」
「許しだと? 私にか?」
「はい」
ヨーゼフは非常に混乱した。見目麗しい場違いな少女が現れたかと思えば、この自分を許すのだという。態々地下牢にまでやってきて許しを与えるのだ。まさかドレスを汚されたことだけを言うのではあるまい。では私の何を許すのか。残念ながら碌でもない人生を歩んできてしまったものだから、心当たりに事欠かない。直接関わったことは無いはずだが、彼女も上級貴族の一員である以上、どこで接点があっても不思議ではない。
つまり、この幼い少女は、自分が生まれる前から行われていたヨーゼフの悪事を知っているということになる。どんな接点があったのかは分からないが、何もこんな少女に知らせる必要はないだろうと、ヨーゼフはため息を吐いた。毛も抜けそうだ。
(よーし、挨拶が遅れた無礼を許してもらって、気持ちよく弁償話に持っていかないとな)
適当に挨拶だけ済ます予定だったレオだが、すでに状況は変わった。なるべくいい気持で商談に臨んで貰いたいと考えると、こちらの心証を少しでも上げておくのは、損にはならないはずだ。挨拶も出来ない人間と、ちゃんと非を謝れる人間、どちらが他人に好印象かは考えるまでもない。
結果の為なら下手に出ることなど造作もない。謝罪に必要なのは勢いと、誤魔化しだ。こちらの非を理解されては、弁償と相殺になりかねない。それ自体は道理でも、そうなったらレオの負けのようなものだ。
相手の儲けは小さく、自分の儲けは大きく、お互い様なんて言葉は、お金が絡んでない時だけの休日営業用のリップサービスでしかない。
「損ぜず得とれ」傲慢のようで、これこそ商売の心理だ。
一般的には、下手に出て機嫌をとることを損と解釈するのだが、下手に一銭も掛かっていない以上、レオはそれを損とは思わない。金を拝み、銭を守り、貨幣をガリガリしてこそのレオである。
レオは姿勢を正す。今から始まるのは挨拶や謝罪などではない。商談という戦いなのだ。すでに目的が変わっている様な気がするが、人生の目的は常にお金だ。何も変わってない。大丈夫。
先制は自分の非をいかに小さく見せるかだ。挨拶が遅れたのは同業者の存在を知らなかったからだ。知らないのはレオが平民出身だったからだ。だから、それほど悪くはないと思うんだけど、許してほしいと。
「ハゲマイヤーさん、話、遅れた。平民、知らなかった。だから悪くない。だから許しを」
(遅れた? 知らない? なんの話だ)
ヨーゼフと目の前の少女との接点で、真っ先に思いつくのは先の茶会だが、それではあまりにも噛み合わない。ということはもう一つ、治水事業だろう。ヨーゼフはそう判断する。先ほどからの言葉遣いは気になるが、分からないほど不便では無い。ヨーゼフと平民との話し合いが難航し、治水事業が遅れたことを指しているのは間違いない。知らなかったから悪くないとは、まさか陣の事だろうか。
(まさか、私の治水事業の遅れを、陣という解決策を知らなかった故だと言うつもりなのか。だから許すと。………あと、名前が…)
名前が違う気がしたが、それ以上に目の前の少女の発言は、ヨーゼフの意識を強く引き付ける。頑張ったから許されても良いと、彼女はそう言ったのだ。それは努力を、彼の苦悩を認める発言だ。もちろん結果が出てない以上、公にされる発言ではないだろうが、それでも彼の心に深く染み渡る。
誰かに許されることが、認められることが、これほど嬉しいとは。例え相手が少女だとしてもだ。しかし、少女の言葉を素直に受け入れる訳にはいかない。ヨーゼフは挫折したのだ。諦めたのだ。努力を称賛されるのは最後まで諦めなかった者だけだ。
それに知らなかったでは済まされない。貴族には、民を統治する責任がある。
碌でもない人生だったが、今の一言を聞けただけでも、救われたと思える。あとは、自身のやらかした事の責任を取るだけだ。
しかし、頑張ればそれで良いという、レオノーラのその青さともとれる純朴さは、ヨーゼフには眩しく映った。そしてレオにとっては、自分が写っているヨーゼフの身体的特徴が眩しかった。
「そうはいかんよレオノーラ嬢。知らなかったでは済まされない。無知は罪なのだよ」
(くっそう、やっぱり知らなかったから悪くない作戦は駄目かあ。ちょっと図々しいかなあとは思ったけど。ちくしょう、皇子が黙ってたのが悪いんだ)
まあ、そりゃそうだ。知らないで許されるとは限らない。挨拶が無かったことをそれほど気にしているのだろうと、レオは解釈する。挨拶はそれほどまでに重要なのだ。ハンナの教えは絶対なのだ。
レオノーラの表情が歪むのを見て、ヨーゼフは彼女の心情を察する。許しを拒絶したヨーゼフの進退を慮っているのだろう。罰を受けるに値する愚行を犯してきたヨーゼフには過ぎた心遣いである。
実際にレオが考えているのは、弁償額の進退だけだ。
「ところで、レオノーラ嬢よ。一つ聞きたいのだが」
「? なんでしょうか?」
「言葉遣いが拙いのは何故なのだ?」
「……呪い、です」
レオノーラの返答を聞いて、ヨーゼフは自分の質問が軽率だったことを悟る。言葉がしゃべれないということは、碌な教育を受けていないということだ。それこそ下町の孤児の方が口達者なことを考えれば、どれだけ劣悪な環境だったか想像に難くない。
ヨーゼフは思い出す。彼女の母親であるクラウディアの末路を。レオノーラの出生の経緯を。パン屋ルートをヨーゼフは知らない。
夜盗に襲われた事、教育を受けていない事、驚くほどの肌の白さ、そして先ほど彼女が口にした名前で呼ばれたいとの言葉。ヨーゼフ自身は頭髪以外では苦労したことの無い生粋の貴族だが、下町に仕事で出ることも多かったので、この国の底辺の現状を見たこともあった。それと比べても、目の前の少女は、どれほどの過酷な人生を送ってきたのだろうか。
ヨーゼフは自分の結論に愕然とする。おそらく、牢に閉じ込められ、満足に食事も与えられず、外に出ることすら出来なかったはずだ。とても小さな少女が耐えられるような環境ではない。しかし、目の前の少女はそういった過去をほとんど感じさせない。言動の端々に辛うじて違和感を覚えるくらいである。
これが、無欲の聖女か。
ただ慈悲深いだけではない。その佇まいには一種の風格すら感じさせる。皇子の婚約者として最有力候補らしいが、むしろ彼女が選ばれない事態が想像出来ない。物語などでも、皇子に選ばれる少女に必要なのは、家柄ではなく、その才覚であることが多い。
ヨーゼフは娘との和解の助けになればと、少女向けのロマンス小説を選んで読んでいたのだが、最近では仕事の合間の娯楽として嗜むようにすらなっていた。不幸な少女が逆境にめげずに努力を重ね、王子様と結ばれるのは王道である。ちょっと思考がそっちよりになっていたとしても仕方がないのだ。
多分、ナターリア辺りと話しが合うのではないだろうか。
レオの言う呪いとは、かけられた魔法の事ではなく、レーナに振り回された現状の事である。思うように言葉がしゃべれないなど、まさしく呪いのようである。
レオとしても、このまま引き下がる分けにはいかない。弁償しようかと聞かれれば、被せ気味でお願いするのがレオなのだ。悪気が無いでは済まないのならば、より深く謝罪の姿勢を見せるべきなのかもしれない。
(謝るなら、やっぱり手土産かなあ。もともと最初に手土産でも持って挨拶に行くべきだったんだし。弁償額を余裕で下回るなにかを持ってくるべきか)
幸い、レオは内職が得意だ。過去に作ったものの在庫も幾つか残っている。その内のどれかならば、材料費ぐらいしか掛かってないし、ドレスを弁償してもらっても黒になるのではないだろうか。新たになにか作ってもいい。元手を掛けずに高級に見せるのはどちらかと言うと得意な方なのだ。
「あの、後日、手土産を、持ってきます。それで、許しの変わりに、して、良いです」
「レオノーラ嬢よ、だから許しは必要ないと、」
「いえ、ハゲマイヤーさん、許し、要ります。手土産、用意します。カー様に、誓って。必ず」
そう言ってレオは、胸元の何かを握りしめる。服に入れている為外からは見えないが、握った手の形からそれが金貨ほどの大きさだと分かる。当然ハグマイヤーにも。
(なんだ? 首から何か下げているのか? そうか、龍徴、アルベルト皇子の金貨か。それに誓えというのか。この私に。……あと名前が……)
さっきから名前を間違えられているかもしれないヨーゼフは、驚愕する。まさか皇子への忠誠を求められるとは、想像もしていなかったからだ。金貨に忠誠を誓うということは、そういうことだ。だからこそ、皇子も金貨をばら撒かずにいるのだ。
しかし、カー様とはどういうことなのか。カールハインツライムント金貨の略称の可能性もあるが、金貨に様付けは無いだろう。となれば、音のまま母様だろうか。非業の死を遂げたであろうクラウディアを、愛する皇子の龍徴に重ねているのか。なんと健気であろうか。
しかし、同時に幼さも感じられる。一度裏切った相手を信用するなど、もはや聖女ではなく愚者だ。その素直さは長所では無く短所である。いったい何を考えているのだろうか、この聖女様は。
しかも、手土産を用意するとまで言った。いまさら細々とした差し入れでは無いだろう。そういう子供のお使い程度の話ではない。まだ未成年だが、レオノーラの立場ならヨーゼフの減刑や釈放すら不可能では無いだろう。おそらく手土産とはそういうことだ。何らかの交換条件を持ちかける気なのだろうが、取引を持ち掛けるには、レオノーラの言い様はまだ幼い。
彼女が自分に何を求めているのか。ヨーゼフは言葉を発することも出来ずに黙ってしまう。
ところで、クラウディアは何時の間に死んだことになっているのか。
レオは、黙ってしまった目の前の男性を訝しんだ。
商談の場で沈黙する場合、十中八九報酬の釣り上げを要求して来ていることは、レオのこれまでの経験から理解していた。しかし、これ以上差し入れを上乗せすれば、弁償してもらっても赤字である。何とか元手の掛からない差し入れは無いかと、レオは悩んだ。それはもう禿げるんじゃ無いかってぐらいに悩んだ。
そして、レオは閃いた。目の前の男性は、煌めいていた。これだ!
「紹介したい人、います。オスカー先輩、あ、違う。ベルンシュタイン家の、人です」
(そうだよ! あの一家ならハゲマイヤーさんと同じ悩みを持ってるから、きっとこの人にとって利益になる筈だ。しかも紹介するだけだから、オレの元手はゼロだ。完璧じゃねえか!)
そもそも、ヨーゼフが悩んでるとか勝手な想像でしかない。人を見た目で判断するなど、失礼にもほどがあるレオだった。あわよくば、紹介料とかまで考える、守銭奴レオだ。
(ベルンシュタイン家だと? 皇子と組んで陣ビジネスの主導をしていた商家か!)
ここに来て、ますますレオノーラの意図が分からない。もうすでにヨーゼフは用無しなはずだ。いまさら商家の下で働けとでも言うのだろうか。それが罰なら受けるが、それならば黙って働かせればいい。
「私をそのベルンシュタイン家に紹介して、どうしようと言うのだ? 何の意味がある?」
その問いの答えは決まっている。レオだってお金が絡まなければ鬼じゃない。言葉はちゃんと選ぶべきであり、おでこから後頭部等の地肌を露出させている方々に対し、見たままをそのまま発言なんてしない。その辺の空気が読めなくて、どうやって稼ごうというのか。全ての道は商売に通ず。格言である。
「潤いを」
レオノーラはそれだけ言って、視線をヨーゼフの頭上へ向ける。その先に有るのは───地上だ。
つまり、もう一度、帝都に潤いを与えてみせろと、無欲の聖女はそう言ってきたのだ。挫折した、父の代から続いた誇りを、取り戻す機会を与えてくれると言うのだ。その為ならば、商家の下働きであろうとも、進んで働いてみせろと、それが罰で有り、また許しでもあると。
何という慈悲深さだろうか。贖罪と救いの機会を、両方とも与えられるなんて。
ヨーゼフはついに、膝をつき嗚咽を漏らす。感動にむせび泣く。次こそは、次こそは頑張ってみせると。
あの出口の無い暗闇は、一条の光によって照らし出された。もう迷うことは無い。抜け落ちていったものはもう無いが、新しく手に掴むことは出来るのだ。新しく生えてはこないが。
レオは非常に困惑した。まさか泣くほど喜ばれるとは。やはり髪の悩みの深さはよく分からない。
レオは慈悲深いどころか、自費深さを回避する為に、丸投げを提案しただけに過ぎない。同じ悩みを持つ者同士、仲良く勝手にやってくれということだ。
そもそも、レオはすっかり忘れていたが、ここは王宮の地下だ。そして、レオが見ていたのは地肌。
潤うべき不毛の大地は頭上では無く、頭の上に有ったのだ。
「レオノーラ嬢、いや、レオノーラ様。あなたの要請に従い、身分も立場も忘れ、この国の為に身を粉にして働いてみせましょう」
ヨーゼフはレオノーラに対し、臣下の礼でもって忠誠を示した。
ヨーゼフのいきなりの言い分にレオが混乱していると、第三者の声がその場に響いた。
「それは違うよ。ハグマイヤー卿」